金村修の言葉 2012年1期

第一回 1月13日
『見ること』
結局、これって白い壁をじーっと見ているようなものだから。それが『見ること』なんだって言えるといいと思うんだよね。『見ること』っていうといろんなところを見ているわけじゃない?これは一つのところをじーっと見ている。それで「見ること」だと言えればいい。


第二回 1月20日
赤提灯とスナックの看板
下町ってイメージの写真を撮りたいわけじゃないんでしょう。赤提灯とカラオケスナックの看板はフレームから外すんですよ。花もいらない。そういうものを排除していくとどんどん画面がシンプルになっていく。看板とか色とか、にぎやかなものを画面に入れていくと、どんどん曖昧になっていく。やりたいことが拡散していくからやめたほうがいい。


第三回 1月27日
写真と情念
自分を出さないように出さないようにしても、最終的には情念が出るんですよ。抑えれば抑えるほど出てくるから。物語にすれば情念が出るかというと、情念は物語に回収される。それは写真ではない。


第四回 2月3日
つまらない写真
人間がうるさくないじゃない? それって重要なんだよね。画面のなかに特徴がない人が入っているのがいいよね。匿名的っていうか。このつまんなさはすごいよね? つまんない写真って難しいんだよ、意外と。面白いものを撮るのが普通だから。そこがスナップ写真の限界。


第五回 2月10日
『東京は、秋』
70年代の荒木(経惟)の『東京は、秋』のどこがいいかっていうと、そこに作者がいないところ。三脚とペンタ67で作者を消している。ふつうに撮ればいいんだ、ということなんだよ。だから、『東京は、秋』は、写真の良さをわかっている人じゃないとその良さがわからない。


第六回 2月17日
現代写真論
簡単なんだよ、写真なんて。こんな写真が5枚から10枚あって、縦1メートルくらいに引き伸ばしてアクリル張っちゃえば、もう現代写真だから。いろいろなことを考えるから難しくなるんであって。


2012年1期 第七回 2月24日
鉄塔
鉄塔を中途半端なところで切っているところがいいんですよ。ふつうに撮ったら鉄塔をぜんぶ入れるんだろうけど、それは『説明』なんですよ。途中で切る。それも中途半端に切れてるところが『写真』なんですよ。


第八回 3月3日
セレクション
写真は『セレクトの芸術』って言いますけど、『セレクションなんてどうでもいい』という態度でだって成立するときは成立するんですよ。昔、『セレクションなんてどうでもいい』と言ったら『作家の主体性はどこにあるんですか』と詰め寄られましたけどね。主体性はカメラにあるのかもしれない。


第九回 3月10日
スナップショット
木村伊兵衛的優雅さで写真を撮ることはすでに崩壊している。


第十回 3月17日
地面
画面のなかに地面を入れないと抽象化されるんですよ。地面がないほうがかっこいいっちゃあ、かっこいいんだけど。そこまで抽象的にする必要があるのかどうか。

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