金村修の言葉 2024年1期

第一回 1月22日
ワークショップ
写真は単語。このワークショップで学んでほしいのは文法です。


第二回 1月29日
撮影
犬のマーキングみたいなもんですよ。同じところ毎回撮ってて飽きないんだから、写真家は。


第三回 2月5日
距離
自分と写真がくっついちゃうと作品になりづらいんですよ。


第四回 2月12日
視線
作品は人に見せることが必要なんですよ。他人の視線がないと思想は生まれないから。


第五回 2月19日
説明
説明的に撮ると弱くなるんですよ。写真は現実を写すから。


第六回 2月26日

量を展示したほうがいいですよ。たくさん出して表現できる写真ってあるから。やりたいことが明確になるっていうのかな。あとから誰かに絞ってもらってもいいし。どっちも自分でできると一番いいんだけと。


第七回 3月4日
Marco Mazziさんによる特別講義


第八回 3月11日
人生
写真家は自分だけじゃなく、撮った相手の人生までついてきちゃうんですよ。


第九回 3月18日
見方
「自由に作品を見てほしい」っていう作家がいるけど、最初から自由というのは弱いんですよ。


第十回 3月25日
写真集
いい写真ばかり並べたらいい写真集ができるかっていうとそうじゃない。それって音楽でいうとベスト盤みたいなもの。ベスト盤で面白くないじゃない?


金村修の言葉 2023年4期

第一回 10月16日
見直す
これはダメだと思った写真が十年くらいして見直したらよかったりするんですよ。自分でやってることは自分で判断できないものなんです。


第二回 10月23日
撮影
写真家は早起きなんですよ。


第三回 10月30日
持続
続けていくって大事ですよ。写真は唯一、続ければなんとかなるメディアなんですよ。


第四回 11月6日
影響
影響された作品がないなんてことはないですよ。バックボーンがないとトークできないじゃない? 天才の話がつまらないのは自分の話しかしないからなんです。


第五回 11月13日
スナップ
スナップは撮影もセレクトも無限にチョイスできるから、作家としての態度、世界観が問われるんですよ。


第六回 11月20日
傑作
傑作写真には作家の思想が表れるんですよ。


第七回 11月27日
Carrie Cushmanさんによる特別講義


第八回 12月4日
世界
室内と街頭の写真が両方あるといいんですよ。狭い世界と広い世界を行き来することになるから。


第九回 12月11日
組み合わせ
写真の組み合わせは無限なんですよ。どれとどれを組み合わせるかが作家の思想なんです。


第十回 12月18日
揃える
写真がぜんぶ揃っている人っているじゃないですか? 揃ってると飽きるんですよね。ミニマルアートじゃなく現実が写ってるんだから。


Special Lecture / Toshiya Tsunoda Part-2

『私が録音してきたもの』

「フィールド•レコーディング」とは文字通り「フィールド」の録音である。ただそこにあるものを即物的に記録してきた訳ではない。
私が当初振動の現象的側面に着目して録音してきたが、その後は場所そのものにある何かを録音しようと試みている。それは私の意識と連動したものかもしれない。録音を聞きながら解説してみたい。

角田俊也


金村修ワークショップは、写真作品を制作したい人、写真作家をめざす人を対象にしていますが、今日ではスチール写真だけでなく、スライドショウや動画に制作の場を広げる人が多くなってきました。動画などの制作において「音」は重要な要素です。
今回、フィールド録音やインスタレーション制作で活躍されている角田俊也氏によるレクチャー『私が録音してきたもの』を開催します。
撮影と録音の相違なども含め、受講者の制作活動において刺激的な内容となるでしょう。

日時:2023年10月9日(月・祝) 16:00〜18:00
会場:The White (東京都千代田区神田猿楽町2−2−1 #202)
定員:15名(対面受講)
受講料:3000円

受講希望者は以下よりお申し込みください。
https://kanemura-workshop.stores.jp/

角田俊也プロフィール
1964年神奈川県生まれ。東京藝術大学美術学部美術研究科大学院修了。空間と意識の関わりを主題とするフィールド録音やインスタレーションの制作をおこなう。おもな展示に、「風景と声」(Sprout Curation 東京 2020年)「Trans/Real」 (Gallery αM 東京2016年) 「Soundings: A Contemporary Score」(Luke Fowler との共作 MoMA NY 2013年)、おもな録音作品に〈Landscape and Voice〉(BlackTruffle) 〈Temple Recording〉(edition.t)〈間口港の低周波〉(Hibari Music)などがある。

主催・金村修ワークショップ/Modulation 8

「ばッ「「「」」」ーーン」


 
||| Overview |||
2022年度受講生の鶴本哲太さんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: 「ばッ「「「」」」ーーン」
Artist: 鶴本哲太
Date: 2023年08月29日 〜 9月16日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
文字に起こすことのできない声を聞く
タカザワケンジ

 写真は沈黙している。しかし静止した画面から何事かを訴えかけてくる写真もある。鶴本哲太の写真がそうだ。
 その声は必ずしも明快なものではない。声であることはわかっても、それが何を言っているのかわからないことがほとんどだ。そもそもそれが言葉なのかさえはっきりしない。
 鶴本哲太の写真を見る。耳を澄ますように目を澄ましてみても、見えるのは線と形と色彩。都市の断片だと理解するなら、記憶にある騒音が頭の中で再生されるだろう。しかしそれだけではない。たとえれば赤ん坊の泣き声のような声が聞こえてくるのだ。
 子育てをしていた時、赤ん坊を見ていると、「泣いている」のか「鳴いている」のかわからなくなることがあった。大人の「泣く」には情緒的な理由があるが、赤ん坊のそれはよくわからない。動物と同じように声をあげているだけのような気がする。涙が出ているから「泣く」なのだろうが、目から出る涙よりも、口から出る叫びのほうがよほど大きい。何かを訴えているのだが、その何かがわからない。困惑する大人を尻目に赤ん坊は無尽蔵かのようなエネルギーで騒音を立てる。その声はウォーという太いものになり周囲を巻き込んで嵐になる。
 鶴本哲太の最初の展示のタイトルは「ウ」「ォ」「ー」(229 GALLERY、2023)だった。つなげて読めば戦争だが、分解され意味が蒸発している。私には赤ん坊の泣き声(鳴き声)のように思えた。
 さて、今回の展示のタイトルは「ばッ「「「」」」ーーン」である。読めない。「ウ」「ォ」「ー」はまだ読めた。今回は無理だ。それだけ叫びに近くなったとも思う。叫びとは発声されてはいるが何を言ってるかわからない声で、文字に起こせない。起こしたとしても便宜的なものだ。その叫びをまじめに聞いて起こそうとすると、たぶん、同じ叫び声を聞いたとは思えないほどバラバラの文字になるだろう。すでに頭の中にある「叫び声」という典型に沿わせて文字にする以外は。
 では、鶴本はこの奇っ怪なタイトルの展示で何をしようとしているのか。
 まだわからない。
 鑑賞者には、見ること。受け止めること。そして考えること。それだけしかできない。
 叫び声を「叫び声」として認識することを回避し、聞こえてくる音に文字を当てずに受け止める。耳を澄まし一音一音を聞き取るように写真を見たらどうなるか。それは未知の体験になるかもしれない。
 鶴本の展示は「ほら、この通り」としか言いようのないものになりそうな気がしている。

||| Artist Statement |||
1どこからともなく「ノロイ」、とタッチされた人は突如呪われ自分が何かに取り憑かれたような扱いを受ける。何がきっかけなのか、何が自分に取り憑いているのかを考える間はなく一刻も早く取り憑いた何かを他者に移し、身体から「ノロイ」を祓わないといけない。なぜなら誰にもタッチ( 移す)する事ができずに休み時間終了のチャイムを迎えてしまった時には、誰かにタッチしたくても授業によるお預けを食らってしまうからだ。授業中では他者にタッチしたくてもタッチできず、また可能であってもタブーとされ「ノロイ」の保有時間は長くなり、その間取り憑く何かは時間の経過と共に対象者を蝕んでいき、授業を終え他者にタッチする前には本当に取り憑いてしまったかのように「ノロイ」は対象者にべったりへばり憑いてしまう。仮に「ノロイ」がたわいもないモノであれば放課後を迎えるころには自然消滅してくれるのかもしれない、しかしモノによっては主人(対象者)の名前を破壊し名前にまでも何かが憑依してしまう恐れもある。この「ノロイ」とは小学生時代に私の同学年の間にあった遊びである。恐らく「エンガチョ」の名残りを受け時代とともに自然に派生したのだと思われる。「エンガチョ」も「ノロイ」の件のような流れで「エンガチョ」の対象者が追う側となり追われる側を追いかける、言わば追いかけっこである。また追われる側が両手の親指と人差し指で鎖の輪をつくり、同じ追われる側の人に「エンッタ」と輪を切ってもらうと「エンガチョ」は無効化され取り憑く事すらできないというルールがある。「エンガチョ」の「エン」は「穢(けがれ)」と考えられており、すると「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」といった具合に派生した遊びと見てとれる。しかし「エンキッタ」と言うまじないの魔力は「縁切り」のそれと見るべきであり「エンガチョ」の遊びはこの「縁切り」の原理をよく示しており人間の心と社会の深奥に触れる意味を持っているように思われる。と述べる網野善彦は「エンガチョ」を皮切りに、かつて中世の日本に存在した「無縁」と言う領域に辿り着く。「無縁」とは仏道における概念であり「無縁」が機能する場(寺院など)のことである。「無縁」つまり「縁」が「無い」したがってこの領域内では「無縁」であることを根拠に世俗権力による干渉や私的支配とは縁を切り、仏陀のみの支配下にあると言う領域なのである。文字通りこれは仏道における思想のレベルの話ではなく仮に「無縁」が機能する寺院に下人・所従が駈け込めば世俗との縁は切れ主従の縁もここで断ち切られる、また実際に幕府や大名たちも「無縁」の概念を認識しており、その領域内に介入することはできなかった。人間の世界に依拠しながら世俗(社会)と断絶された仏道の領域には原始の自由と平和があったのではないだろうか。また文学、芸能、美術、等々の日本の文化の大部分が「無縁」の場を媒介にし存続した事をどう考えるべきなのだろう。能役者の躰(からだ)は世界の感触を媒介するものであり、ただ足で舞台を踏む。能役者はそこに広がる空間を躰で撃ち、ただ「舞」うことでそこにある世界を露出させる。「無縁」の場で行われ、世俗との縁をも切り、個性や感情を相殺する面を被り、ただ足踏みをする能役者の舞にはどのような世界が媒介されていたのだろうか。しかし「無縁」の場も長く続くことはなく次第に権力に統制され跡形も無く消え去ってしまうのは言うまでもなく、遊びにまで派生した名残も叙述した様に「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」となり小学生時代の私の遊びには「エンキッタ」と言う要素や概念は残っていなかった。しかしこの派生の流れを「無縁」→「エンガチョ→「ノロイ」と見たとき、休み時間に対象者に取り憑き授業中に拡大した「ノロイ」は、取り憑く「ノロイ」自身が拡張していたのではく「エンキッタ」がまだ達成されていない、対象者を見る他者の認識に「ノロイ」は取り憑き、認識を覆うようにして拡張していたのではないだろうか。「無縁」の場を忘却している私たちは世俗(社会)の発信する強い何かがどこからともなく現れてはべったりと認識にへばりつき、取り憑かれていることにも気が付かず覆われた認識が見せる世界に対象者の「ノロイ」を見てしまったのか。またそう見ることしかできない、呪われた何かなのか。人類にとっての理想郷?のような「無縁」の場がまだ力を持っていた中世の時代から飛んで現代そして現代からさらに飛び、西暦300X 年マルハーゲ帝国に支配された未来の地球を舞台にマルハーゲ帝国の権力を示すプロパガンダである人類丸坊主計画から人類の髪の毛の自由と平和を救うべく、戦いを挑む「ボボボーボ・ボーボボ」もまた能役者の様にサングラス(面)を付け、顔を表さない。北斗神拳(北斗の拳)のごとく鼻毛真拳の使い手である「ボボボーボ・ボーボボ」は暗黒世界を旅しながら悪を倒すといったおなじみの物語だが実際の作中では「ハジけ」と称した理解不能なボケの連続がただあるだけであり、登場人物の詳細や作中の会話や物語、フィクションにおける構成や伏線やオチなどを一切無視し、始めから終わりまで続くボケの羅列は喜怒哀楽などの感情を超越し、無意味の要素(ハジけ)の反復である。「ハジけ」の反復運動をただ繰り返すだけで敵は次々と倒され、遂には人間をお金に変えてしまうゴールド真拳の使い手ハレクラニが君臨する資本主義大国ハレルヤランドをも壊滅させてしまうのだった。演劇評論家である土屋恵一郎能は著書で、能における物語は「舞」を舞う為につくられた装置であり、ただ「舞」を見せるために能の構造が出来上がった。と記述している。「ハジけ」の羅列をただひたすら繰り返すだけの「ボボボーボ・ボーボボ」における物語もただ「ハジける」為に付随する装置だと私は思う。「無縁」における能の「舞」は足踏みにより空間をただ躰で撃ち世界を露出し、「有縁」におけるボーボボの理解不能な「ハジけ」の連続はマルハーゲ帝国に支配された世界を破壊した。本来ならタッチされた対象者はあるがままの対象者のはずなのにタッチし併せて言葉で「ノロイ」と放つだけで、対象者に対する「ノロイ」の認識を拭うこともできず、また濃厚接触者という言葉に翻弄され、決して肉眼では捉えることができない生物と無生物の中間であるウイルスと自分が接触しているのかをコールセンターへ問い合わせをし続ける私たちには、彼らの様にあるがままの世界を認識することはできるのだろうか。能役者が自らの躰で空間を撃ち世界を感じる様に身体を動かし、取り憑く何かが見せるアピールに反応しイメージとして切り取るのではなく、「エンキッタ」と取り憑く何かと「縁」を切っていくように、素直にあるがままの世界をただ見、記録する。記録したイメージによる無意味な羅列による映像は「舞」や「ハジけ」の様にただ「イメージ」を見せる為に映像という装置が付随する。映像によるイメージそれ自体はただ羅列を繰り返すだけだが、私たちに取り憑く何かにより、イメージは粘土の様に鑑賞者それぞれの独自の形態を作り上げてしまう。無意味な羅列により意図せず変形してしまう粘土細工の認識を受け続け、意味を統合する事のできない取り憑く何かは、原宿の光に目を奪われ蛇行運転を繰り返す少年たちと黒い軽自動車の様に、たちまち横転しアスファルトに叩き付けられてしまう。
2023年7月5日 鶴本哲太

Special Lecture / Toshiya Tsunoda

『光の描写について セザンヌの絵を参考に』

セザンヌは印象派の画家たちとは違う考えにより光を色の階調に置き換えて描写した。その後、画家たちは構成主義に向かって行った。彼は最後の描写の画家だと言える。写真による作品を試みる方に画家の視線について私見を話してみたい。

角田俊也


金村修ワークショップは、写真作品を制作したい人、写真作家をめざす人を対象にしていますが、狭義の写真解釈にとどまらず、開かれた可能性を探求するためにも、写真以外の知識は重要です。
角田俊也氏によるレクチャー『光の描写について セザンヌの絵を参考に』を開催します。

日時:2023年8月19日(土) 16:00〜18:00
会場:The White
定員:10名(対面受講)、定員なし(オンライン受講)
受講料:3000円(対面、オンライン)

受講希望者は以下よりお申し込みください。
https://kanemura-workshop.stores.jp/

角田俊也プロフィール
1964年神奈川県生まれ。東京藝術大学美術学部美術研究科大学院修了。空間と意識の関わりを主題とするフィールド録音やインスタレーションの制作をおこなう。おもな展示に、「風景と声」(Sprout Curation 東京 2020年)「Trans/Real」 (Gallery αM 東京2016年) 「Soundings: A Contemporary Score」(Luke Fowler との共作 MoMA NY 2013年)、おもな録音作品に〈Landscape and Voice〉(BlackTruffle) 〈Temple Recording〉(edition.t)〈間口港の低周波〉(Hibari Music)などがある。

主催・金村修ワークショップ/Modulation 8

金村修の言葉 2023年3期

第一回 7月24日
写真
下手な写真ってたくさん撮らないと出てこないんですよ。


第二回 7月31日
ピント
ピントって悩みますよね。ここに合わせるか、そこに合わせるかで。私がパンフォーカスにしてるのはピントを考えるのが大変だから。


第三回 8月7日
カメラ
カメラ持って鏡に映してみた? ダメだよ、似合ってるカメラじゃないと。


第四回 8月14日
場所
この場所どこだろう? っていう写真ですよね。具体的な地名が知りたいとは思わない。郷土愛がないところがいいんですよ。


第五回 8月21日
被写体
くだらないものが写った写真をプリントすると、自分ってほんとにくだらないんだなと思うんだよね。でもなぜかくだらないものを撮りたくなるんですよ。


第六回 8月28日
宇田川直寛さんによる特別講義


第七回 9月4日
文章
作品になる時ってこれで文章が書けると思ったときかな。


第八回 9月11日
撮影場所
『挑発する写真史』の表紙、あれ町屋なんですよ。町屋にこんなベレニス・アボットみたいな場所があるのか、みたいな。たしか京成線の高架下だと思います。


第九回 9月18日
場所
自分が生活している場で撮影すると強いんですよ。誰もその場所を知らないし。それがあって都会の写真があると良いんですよ。自分の核みたいなものがあって都会を撮ると人とは違う写真になるんですよ。


第十回 9月25日
場所
日本の都市を説明している写真じゃないんだから、ボーダレスでいいと思う。桑原甲子雄さんの『夢の町』は東京を撮ってるんだけど、昔の東京で今の東京じゃない。桑原さんの町なんですよ。時間も場所も関係ないんです。


金村修の言葉 2023年2期

第一回 5月1日
レンズ
広角レンズを使うと画面が歪んで中心ができるんです。画面にヒエラルキーができるんですよ。


第二回 5月8日

音に集中して歩くと、街がふだんと違って見えるんですよ。聴覚の可能性はまだ未開拓だと思いますね。


第三回 5月15日
写真
結局撮ってみないとわからないんですよ。撮っても撮ってもわからないんですけど。


第四回 5月22日
時間
時間のない撮り方ってあるけどね。日常生活を撮る。その人の条件の中で撮るしかないんだから。


第五回 5月29日
楢橋朝子さんによる特別講義


第六回 6月5日
映画
長い時間が必要な映画ってあるんですよ。8時間くらいの映画を見に行くと、途中から意識が変容するんですよ。


第七回 6月12日
構図
構図に対してシリアス性がないのがいいよね。撮ろうって気がない。どんどんヘタになる写真家ってあんまりいない。ロバート・フランクくらいだよ。


第八回 6月19日
撮影
うねるような写真を撮りたいときは蛇になるんです──鈴木(清)先生がそう言ってましたよ。蛇ってこう見てるのかなあ、と撮ってましたね。6×6のカメラで。


第九回 6月26日
作品発表
前にやったものをベースに何をやるかを考える。いったんやったことをゼロにして、を繰り返していると、いつまでたっても積み上がっていかないから。


第十回 7月4日
写真集
写真をどういうふうにまとめるかは、写真集を見て考えるしかないんですよ。


金村修の言葉 2023年1期

第一回 2月6日
もの派
工場の写真を見るとみんな「もの派」に見える。


第二回 2月13日
ズームレンズ
ズームレンズはあまりつかわないほうがいいかな。自分が興味があることにどれだけ身体が近づいていくかってことが重要だから。


第三回 2月20日
サイズ
写真に撮って大きくすればいいですよ。サイズを変えられるのは写真のいいところだから


第四回 2月27日
写真
つまらないものでも自分が撮るとおもしろい写真になる――そういう態度は好きじゃないですね。写真はマジックじゃないから。


第五回 3月6日
撮影
考える前に撮ってる。考えるのは選ぶ時なんですよ。


第六回 3月13日
撮影
聴いてる音楽とか読んでる本と、撮ってる写真って、最初はバラバラですよね。でもそれがだんだんくっついてくるんですよ。人生にムダなものってないんだなって思いますね。


第七回 3月20日
写真
写真って、自分でも意識しないうちにいい写真が撮れるものなんですよ。たまに。ずっと撮ってると、そのうち意識して撮れるようになるんだけど。


第八回 3月27日
小林孝行さんによる特別講義


第九回 4月3日
日記
日記写真は上手い必要はないんですよ。上手い日記なんか読みたくないでしょう。ちょっと崩れていたり、はみ出してるほうがいいんです。


第十回 4月10日
目的
目的なんてないほうがいいんですよ。目的を持つと目的に縛られるから。

金村修の言葉 2022年4期

第一回 11月7日
写真
写真1枚は言葉でいうと単語だけ。赤ん坊の言葉と同じでそれだけじゃ意味をなさない。それをつなげる文法が必要。言いたいことがないっていうのだって1つの文法なんですよ。


第二回 11月14日
タイトル
タイトルをつけるときに考えてること? 鑑賞者を混乱させようってことですね。


第三回 11月21日
撮影
最初の頃はとくにそうなんだけど、写真ってサボると撮れなくなるんですよ。


第四回 11月28日
視覚
メッセージをどうやって視覚的に表現するかが重要。読んで理解する、ではなく、見て感じる。フルクサスはそれをやってた。


第五回 12月5日
三田村光土里さんによる特別講義


第六回 12月12日
写真の順序
写真を並べるのは連想ゲームのようなものなんですよ。連想ゲームには秩序がないから。


第七回 12月19日
写真
(写真を見て)世の中ってこんなにわからないものがあるんだ。わからないから意味があるのかなとか考えるわけですよ。暗号ですよ。なんの暗号かわからないけど。


第八回 12月26日
被写体
写真なんて撮りにいくまで何が撮れるかわからないからね。


第九回 1月9日
展示
展示を写真に撮るって大事なんですよ。写真は実際の展示よりも面白く撮れたりするから。


第十回 1月16日
意味
意味を与えたくないってことは、毎回違うことを言うってこと。意味を撹乱するんですよ。


第三病棟

||| Overview |||
2021年度受講生のToshiさんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: 第三病棟
Artist: Toshi
Date: 2022年08月09日 〜 20日
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
写真が芸術であるならば
~Toshi「第三病棟」によせて
タカザワケンジ

1890年代、留学していたドイツからアメリカに戻ってきた頃のことを、アルフレッド・スティーグリッツはこう振り返っている。
「私の写真を見た画家たちは、私をうらやんだ。しかしこうも言った。あなたの写真は私たちの絵より優れているかもしれないが、残念ながら写真は芸術ではないと。機械で作られたものだからという理由で写真が批判されるのはなぜなのか。彼らの『芸術』である絵画は、手で作られたものだが、だからといって必ずしも優れているわけではない」(*)
スティーグリッツの生涯は写真が芸術として認められるために捧げられた。ヨーロッパの印象派やピカソをアメリカに紹介し、芸術についての古い価値観を刷新しようとしたのもそのためだ。
芸術とはそもそも何なのか。晩年のシリーズ「Equivalent」についてスティーグリッツはこう語っている。
「私の雲の写真は、私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学に相当するものだ」。
作家、編集者、写真家でもあり、スティーグリッツと深い交流があったドロシー・ノーマンは、この言葉を紹介した後にこう記している。「やがて彼は、自分のプリントはすべて等価であると主張し、ついにはすべての芸術は芸術家の最も深い人生経験の等価物であると言い出したのです」(*)
予備知識なしに見れば「Equivalent」は空の写真であるとしか言いようがない。そこに作者の人生経験や哲学が反映されていると言われても、にわかには理解しがたいであろう。おだやかな空もあれば、暗く底光りするような空もある。それが作者の内面、生きてきた人生のリアリティだといえば、そのような気もするし、そうなのかと疑問も感じる。
しかし、絵画がモティーフを描いただけでなく、ある概念──たとえば神への愛や世界の不思議さ──を表現したと考えれば、写真もまた写っているものの先に何かがあるという主張は筋が通っている。スティーグリッツの人生哲学を私たちが正確に把握できなくても、その写真そのものから何かを受け取ることができれば、それはたしかに非言語的な交流と言える。
写真も絵画と同様に対象を通して言葉に還元できない何かを表現できる。人の手によるものであれ、機械が写しとったものであれ、見る側が何かをくみ出せるならそこに優劣は存在しない。それどころか、機械がつくりだすイメージには人智を超えた偶然を取り込めるというアドバンテージがある。
しかしそもそも「私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学」は、芸術としての写真に本当に必要なのだろうか。私たちは「Equivalent」を見て、スティーグリッツという個人の営みに感動しているのだろうか。
Toshiという作家は名前からして記号的であり、個人の人生を想像するのが難しい。私が知っていることだけを挙げても、女性である、北海道在住であるということくらいだ。
しかし彼女の写真は大量に見てきた。ワークショップのテーブルいっぱいに並べられた写真に写っていたのは、言葉にすれば荒涼たる風景であり、錆びついた鉄塔であり雪であり、曇天の空でありくすんだ色合いの団地である。
写っているのがどこかはさほど重要ではない。Toshiによって選択された場所であり、その選択は直感的、瞬間的に行われているということだけがわかれば十分だ。それが作品であるならば、私たちは写真家の直感が何を見いだし、どのような世界を作ろうとしているかを見なければならない。
Toshiの写真から、日本経済の落ち込み、地方の経済破綻、社会全体を覆う鬱的な精神的不調といった、現在の私たちを取り巻く残念このうえない状態を重ねて見ることもできるだろう。
しかし、だからといって地方の現実を告発する「社会派」の写真などに収まってはいない。むしろフレーミングすることで現実から離れ、ここではないどこかの世界を示唆する写真に見える。たとえば『ストレンジャー・シングス』における「裏側の世界」である。『ストレンジャー・シングス』の舞台が都市から離れた地方であり、1980年代の冷戦末期、ソ連からの攻撃を恐れる心理的不安を背景にした「もう一つの世界」であるように。
では「第三病棟」とは何か。三というからには一と二があるのだろう。そして、一と二は明示されず、病棟そのものが物質的な場所を指してはいないようだ。そこで写真を見る私たちは、写っているものを手がかりに第三病棟を想像する。写真に写った世界の向こう側、あるいは裏側を想像するのだ。そのとき、病棟にとらわれているのは、ほかならぬあなた自身であることを発見するだろう。(写真評論家)

*『APERTURE MASTERS OF PHOTOGRAPHY 6 ALFRED STIEGLITZ』(1989、Aperture)

||| Artist Statement |||

様式7

文書番号第1号
令和4年8月9日

措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ

○○ ○○ 殿

都道府県知事

  1. あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院措置が必要であると認めたので通知します。
  2. あなたの入院は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第29条の規定による措置入院 です。
  3. あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立ち会いのもとで、あなたに開封してもらい、その異物は病院にあずかることがあります。
  4. あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又はあなたのご家族等の依頼によりあなたの代理人となろうとする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
  5. あなたは、治療上の必要性から、行動制限を受けることがあります。
  6. もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出て下さい。
    それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない場合には、あなた又はあなたのご家族等は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、都道府県知事に請求することができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋ねになるか又は都道府県にお問い合わせ下さい。
  7. 病院の治療方針に従って療養に専念して下さい。
  8. この処分について不服がある場合は、この処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内に厚生労働大臣に対して審査請求をすることができます(なお、この処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内であっても、この処分の日の翌日から起算して1年を経過すると審査請求をすることができなくなります。)。
  9. この処分の取消しを求める訴えは、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して6か月以内に限り、都道府県を被告として(訴訟において都道府県を代表する者は都道府県知事となります。)提起することができます(なお、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して6か月以内であっても、この処分の日の翌日から起算して1年を経過するとこの処分の取消しの訴えを提起することができなくなります。)また、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して3か月以内に審査請求をした場合には、この処分の取消しの訴えは、その審査請求に対する裁決の送達を受けた日の翌日から起算して6か月以内であれば、提起することができます(なお、その審査請求に対する裁決の送達を受けた日の翌日から起算して6か月以内であっても、その審査請求に対する裁決の日の翌日から起算して1年を経過するとこの処分の取消しの訴えを提起することができなくなります。)。

 

 

 

 

 

 

 

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