第一回 2月10日
ピント
ピントが合ってない写真っていいんですよね。だからってしょっちゅう合ってないと困るんだけど。
第二回 2月17日
情報
画面にたくさん情報をいれるとシリアスな写真じゃなくなるんですよ。情報が多いのにシリアスな写真はめったにない。とくに文字が入るとどうしても読んでしまうんです。情報を入れるのがうまいのは桑原甲子雄さん、春日昌昭さんですね。
金村修ワークショップ
第一回 2月10日
ピント
ピントが合ってない写真っていいんですよね。だからってしょっちゅう合ってないと困るんだけど。
第一回 11月18日
写真
写真に愛されてない。そういう時があるんですよ。長嶋茂雄みたいに野球の神様と両思いならいいんですけどね。
第一回 8月26日
写真を見る
(自分の写真を)毎日5分だけ見るんですよ。長く見ないで少しだけ。自分と写真の距離が重要だから。自分の写真好きだなーと思って見てると選べないんですよ。
||| Overview |||
2023年度受講生の梶瑠美花さんによる金村修ワークショップ企画展。
Title: sugar for the pill
Artist: 梶瑠美花
Date: 2024年07月09日 〜 7月27日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205
||| Essay |||
撮る/撮られるから、写真による対話へ
タカザワケンジ
ポートレイト写真にはセンシティブな問題がつきまとう。
カメラを手にした側は、レンズの前にいる人物をコントロールし、自身の意に沿う写真を撮ろうとする。シャッターを切る決定権はカメラを手にした側にある。写真撮影が創作である以上、作者のエゴが発揮されるのは当然だ。しかし、相手が人間である以上、撮る/撮られるという関係には必然的に権力関係が生まれてしまう。
しかし撮られる側がいつもコントロールされる側にとどまり、黙って撮られているだけというわけではない。
カメラを手にした人間が「撮りたい」と思うように、「撮られたい」と思ってレンズの前に立つ人がいる。どう撮りたいか、どう撮られたいかというそれぞれの欲望がスパークした結果──それが梶瑠美花の写真である。
梶は本展のステートメントで制作プロセスを明かしている。
(1)ソーシャルネットワークを使用し写真に写りたい人物を探す。
(2)その人物が指定した日時に指定された場所に行き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。
(3)同日インタビューも併せて行い、彼女らに話したいことを話したいだけ話してもらう。
なぜ梶は彼女たちを撮りたいのか。
梶はその根拠に自身が従事していた医療現場で論じられているケアの概念を置いている。対人関係のプロセスそのものがケアになるという考え方だ。
なぜ彼女たちは梶に撮られたいのか。
その問いに対する答えはさまざまだろうし、言語化するのは困難だろう。
梶は写真を撮ることで、言葉のいらないコミュニケーションの可能性を示す。そのうえで彼女たちが発したい言葉に耳を傾ける。
そこには撮る側と撮られる側が、ともに何かを表現したい、発信したいという共通の動機が存在する。動機はある。しかし伝えたいことがうまく言葉にならない。そうした手探りの状態での表現は写真が得意とするところである。写真はその表面だけを写すだけで、何の評価もジャッジもしないからだ。
梶は写真を撮り、文章を書き、それをアーティスト・ブックにまとめている。今回は初めて展覧会をいう方法を採り、空間の中でどう表現するかという課題に挑戦する。
アーティスト・ブックではモデルとなった女性たちが一つに溶け合い、そこに何人の人物が写っているのかも曖昧だ。
撮る/撮られるという境界すら曖昧になり、作者自身がこの中にいるのではないかとさえ思う。
19世紀のヨーロッパで科学的な知見をもとにリアリズムを追求した自然主義文学の一つに小説『ボヴァリー夫人』(1857)がある。宗教的なモラルに反すると批判され、議論を巻き起こしたが、作者のフローベルは敢然と「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。描いた対象にまっすぐに向き合った結果、性差や設定を超えてその主人公は作者自身になったのだと。
梶もまた言うだろう。「彼女たちは私だ」
||| Artist Statement |||
住み慣れた土地と仕事を離れ、見知らぬ場所でSNSの中の女性たちと会い続けている。
その理由はCOVID-19が流行してからの3年間、感染拡大防止のため患者以外との人間関係や外部との接続を断たれ、医療従事者として求められるまま閉鎖的に過ごしたからだ。
社会との関係性が希薄になるにつれ現実感覚は乏しくなっていき、いつしか自分を見失ってしまった。きっとそのことによる反動のようなものだろう。
看護理論のひとつに、“対人関係のプロセスそのものがケアになる”という考え方がある。1953年に看護学者のヒルデガード・E・ペプロウによって書かれた『人間関係の看護論』によるものである。見知の人間同士の出会いから始まり、人間関係の相互作用の中で影響を及ぼし合い、課題解決へ共に向かっていくのだという。撮る者と撮られる者という関係を乗り越え、撮影者と被写体もそのような関係になっていけるだろうか。
彼女たちは、見知らぬ写真家に身近な人に言えないものを吐出し、写真家は現実の手触りを感じながら写真を通じてコミュニケートする。外の世界で他者と交わり、関係性の中で自己が更新されていく。それが自己を取り戻すような経験であることを願っている。
(要約版。ステートメント全文は会場にて配布。)
第一回 5月13日
展示と撮影
ある程度写真がたまってきたら、展示を想定しながら撮るといいですよ。セレクトが変わってきます。
第一回 1月22日
ワークショップ
写真は単語。このワークショップで学んでほしいのは文法です。
第一回 10月16日
見直す
これはダメだと思った写真が十年くらいして見直したらよかったりするんですよ。自分でやってることは自分で判断できないものなんです。
『私が録音してきたもの』
「フィールド•レコーディング」とは文字通り「フィールド」の録音である。ただそこにあるものを即物的に記録してきた訳ではない。
私が当初振動の現象的側面に着目して録音してきたが、その後は場所そのものにある何かを録音しようと試みている。それは私の意識と連動したものかもしれない。録音を聞きながら解説してみたい。
角田俊也
金村修ワークショップは、写真作品を制作したい人、写真作家をめざす人を対象にしていますが、今日ではスチール写真だけでなく、スライドショウや動画に制作の場を広げる人が多くなってきました。動画などの制作において「音」は重要な要素です。
今回、フィールド録音やインスタレーション制作で活躍されている角田俊也氏によるレクチャー『私が録音してきたもの』を開催します。
撮影と録音の相違なども含め、受講者の制作活動において刺激的な内容となるでしょう。
日時:2023年10月9日(月・祝) 16:00〜18:00
会場:The White (東京都千代田区神田猿楽町2−2−1 #202)
定員:15名(対面受講)
受講料:3000円
受講希望者は以下よりお申し込みください。
https://kanemura-workshop.stores.jp/
角田俊也プロフィール
1964年神奈川県生まれ。東京藝術大学美術学部美術研究科大学院修了。空間と意識の関わりを主題とするフィールド録音やインスタレーションの制作をおこなう。おもな展示に、「風景と声」(Sprout Curation 東京 2020年)「Trans/Real」 (Gallery αM 東京2016年) 「Soundings: A Contemporary Score」(Luke Fowler との共作 MoMA NY 2013年)、おもな録音作品に〈Landscape and Voice〉(BlackTruffle) 〈Temple Recording〉(edition.t)〈間口港の低周波〉(Hibari Music)などがある。
主催・金村修ワークショップ/Modulation 8
||| Overview |||
2022年度受講生の鶴本哲太さんによる金村修ワークショップ企画展。
Title: 「ばッ「「「濃」」」ーーン」
Artist: 鶴本哲太
Date: 2023年08月29日 〜 9月16日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205
||| Essay |||
文字に起こすことのできない声を聞く
タカザワケンジ
写真は沈黙している。しかし静止した画面から何事かを訴えかけてくる写真もある。鶴本哲太の写真がそうだ。
その声は必ずしも明快なものではない。声であることはわかっても、それが何を言っているのかわからないことがほとんどだ。そもそもそれが言葉なのかさえはっきりしない。
鶴本哲太の写真を見る。耳を澄ますように目を澄ましてみても、見えるのは線と形と色彩。都市の断片だと理解するなら、記憶にある騒音が頭の中で再生されるだろう。しかしそれだけではない。たとえれば赤ん坊の泣き声のような声が聞こえてくるのだ。
子育てをしていた時、赤ん坊を見ていると、「泣いている」のか「鳴いている」のかわからなくなることがあった。大人の「泣く」には情緒的な理由があるが、赤ん坊のそれはよくわからない。動物と同じように声をあげているだけのような気がする。涙が出ているから「泣く」なのだろうが、目から出る涙よりも、口から出る叫びのほうがよほど大きい。何かを訴えているのだが、その何かがわからない。困惑する大人を尻目に赤ん坊は無尽蔵かのようなエネルギーで騒音を立てる。その声はウォーという太いものになり周囲を巻き込んで嵐になる。
鶴本哲太の最初の展示のタイトルは「ウ」「ォ」「ー」(229 GALLERY、2023)だった。つなげて読めば戦争だが、分解され意味が蒸発している。私には赤ん坊の泣き声(鳴き声)のように思えた。
さて、今回の展示のタイトルは「ばッ「「「濃」」」ーーン」である。読めない。「ウ」「ォ」「ー」はまだ読めた。今回は無理だ。それだけ叫びに近くなったとも思う。叫びとは発声されてはいるが何を言ってるかわからない声で、文字に起こせない。起こしたとしても便宜的なものだ。その叫びをまじめに聞いて起こそうとすると、たぶん、同じ叫び声を聞いたとは思えないほどバラバラの文字になるだろう。すでに頭の中にある「叫び声」という典型に沿わせて文字にする以外は。
では、鶴本はこの奇っ怪なタイトルの展示で何をしようとしているのか。
まだわからない。
鑑賞者には、見ること。受け止めること。そして考えること。それだけしかできない。
叫び声を「叫び声」として認識することを回避し、聞こえてくる音に文字を当てずに受け止める。耳を澄まし一音一音を聞き取るように写真を見たらどうなるか。それは未知の体験になるかもしれない。
鶴本の展示は「ほら、この通り」としか言いようのないものになりそうな気がしている。
||| Artist Statement |||
1どこからともなく「ノロイ」、とタッチされた人は突如呪われ自分が何かに取り憑かれたような扱いを受ける。何がきっかけなのか、何が自分に取り憑いているのかを考える間はなく一刻も早く取り憑いた何かを他者に移し、身体から「ノロイ」を祓わないといけない。なぜなら誰にもタッチ( 移す)する事ができずに休み時間終了のチャイムを迎えてしまった時には、誰かにタッチしたくても授業によるお預けを食らってしまうからだ。授業中では他者にタッチしたくてもタッチできず、また可能であってもタブーとされ「ノロイ」の保有時間は長くなり、その間取り憑く何かは時間の経過と共に対象者を蝕んでいき、授業を終え他者にタッチする前には本当に取り憑いてしまったかのように「ノロイ」は対象者にべったりへばり憑いてしまう。仮に「ノロイ」がたわいもないモノであれば放課後を迎えるころには自然消滅してくれるのかもしれない、しかしモノによっては主人(対象者)の名前を破壊し名前にまでも何かが憑依してしまう恐れもある。この「ノロイ」とは小学生時代に私の同学年の間にあった遊びである。恐らく「エンガチョ」の名残りを受け時代とともに自然に派生したのだと思われる。「エンガチョ」も「ノロイ」の件のような流れで「エンガチョ」の対象者が追う側となり追われる側を追いかける、言わば追いかけっこである。また追われる側が両手の親指と人差し指で鎖の輪をつくり、同じ追われる側の人に「エンッタ」と輪を切ってもらうと「エンガチョ」は無効化され取り憑く事すらできないというルールがある。「エンガチョ」の「エン」は「穢(けがれ)」と考えられており、すると「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」といった具合に派生した遊びと見てとれる。しかし「エンキッタ」と言うまじないの魔力は「縁切り」のそれと見るべきであり「エンガチョ」の遊びはこの「縁切り」の原理をよく示しており人間の心と社会の深奥に触れる意味を持っているように思われる。と述べる網野善彦は「エンガチョ」を皮切りに、かつて中世の日本に存在した「無縁」と言う領域に辿り着く。「無縁」とは仏道における概念であり「無縁」が機能する場(寺院など)のことである。「無縁」つまり「縁」が「無い」したがってこの領域内では「無縁」であることを根拠に世俗権力による干渉や私的支配とは縁を切り、仏陀のみの支配下にあると言う領域なのである。文字通りこれは仏道における思想のレベルの話ではなく仮に「無縁」が機能する寺院に下人・所従が駈け込めば世俗との縁は切れ主従の縁もここで断ち切られる、また実際に幕府や大名たちも「無縁」の概念を認識しており、その領域内に介入することはできなかった。人間の世界に依拠しながら世俗(社会)と断絶された仏道の領域には原始の自由と平和があったのではないだろうか。また文学、芸能、美術、等々の日本の文化の大部分が「無縁」の場を媒介にし存続した事をどう考えるべきなのだろう。能役者の躰(からだ)は世界の感触を媒介するものであり、ただ足で舞台を踏む。能役者はそこに広がる空間を躰で撃ち、ただ「舞」うことでそこにある世界を露出させる。「無縁」の場で行われ、世俗との縁をも切り、個性や感情を相殺する面を被り、ただ足踏みをする能役者の舞にはどのような世界が媒介されていたのだろうか。しかし「無縁」の場も長く続くことはなく次第に権力に統制され跡形も無く消え去ってしまうのは言うまでもなく、遊びにまで派生した名残も叙述した様に「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」となり小学生時代の私の遊びには「エンキッタ」と言う要素や概念は残っていなかった。しかしこの派生の流れを「無縁」→「エンガチョ→「ノロイ」と見たとき、休み時間に対象者に取り憑き授業中に拡大した「ノロイ」は、取り憑く「ノロイ」自身が拡張していたのではく「エンキッタ」がまだ達成されていない、対象者を見る他者の認識に「ノロイ」は取り憑き、認識を覆うようにして拡張していたのではないだろうか。「無縁」の場を忘却している私たちは世俗(社会)の発信する強い何かがどこからともなく現れてはべったりと認識にへばりつき、取り憑かれていることにも気が付かず覆われた認識が見せる世界に対象者の「ノロイ」を見てしまったのか。またそう見ることしかできない、呪われた何かなのか。人類にとっての理想郷?のような「無縁」の場がまだ力を持っていた中世の時代から飛んで現代そして現代からさらに飛び、西暦300X 年マルハーゲ帝国に支配された未来の地球を舞台にマルハーゲ帝国の権力を示すプロパガンダである人類丸坊主計画から人類の髪の毛の自由と平和を救うべく、戦いを挑む「ボボボーボ・ボーボボ」もまた能役者の様にサングラス(面)を付け、顔を表さない。北斗神拳(北斗の拳)のごとく鼻毛真拳の使い手である「ボボボーボ・ボーボボ」は暗黒世界を旅しながら悪を倒すといったおなじみの物語だが実際の作中では「ハジけ」と称した理解不能なボケの連続がただあるだけであり、登場人物の詳細や作中の会話や物語、フィクションにおける構成や伏線やオチなどを一切無視し、始めから終わりまで続くボケの羅列は喜怒哀楽などの感情を超越し、無意味の要素(ハジけ)の反復である。「ハジけ」の反復運動をただ繰り返すだけで敵は次々と倒され、遂には人間をお金に変えてしまうゴールド真拳の使い手ハレクラニが君臨する資本主義大国ハレルヤランドをも壊滅させてしまうのだった。演劇評論家である土屋恵一郎能は著書で、能における物語は「舞」を舞う為につくられた装置であり、ただ「舞」を見せるために能の構造が出来上がった。と記述している。「ハジけ」の羅列をただひたすら繰り返すだけの「ボボボーボ・ボーボボ」における物語もただ「ハジける」為に付随する装置だと私は思う。「無縁」における能の「舞」は足踏みにより空間をただ躰で撃ち世界を露出し、「有縁」におけるボーボボの理解不能な「ハジけ」の連続はマルハーゲ帝国に支配された世界を破壊した。本来ならタッチされた対象者はあるがままの対象者のはずなのにタッチし併せて言葉で「ノロイ」と放つだけで、対象者に対する「ノロイ」の認識を拭うこともできず、また濃厚接触者という言葉に翻弄され、決して肉眼では捉えることができない生物と無生物の中間であるウイルスと自分が接触しているのかをコールセンターへ問い合わせをし続ける私たちには、彼らの様にあるがままの世界を認識することはできるのだろうか。能役者が自らの躰で空間を撃ち世界を感じる様に身体を動かし、取り憑く何かが見せるアピールに反応しイメージとして切り取るのではなく、「エンキッタ」と取り憑く何かと「縁」を切っていくように、素直にあるがままの世界をただ見、記録する。記録したイメージによる無意味な羅列による映像は「舞」や「ハジけ」の様にただ「イメージ」を見せる為に映像という装置が付随する。映像によるイメージそれ自体はただ羅列を繰り返すだけだが、私たちに取り憑く何かにより、イメージは粘土の様に鑑賞者それぞれの独自の形態を作り上げてしまう。無意味な羅列により意図せず変形してしまう粘土細工の認識を受け続け、意味を統合する事のできない取り憑く何かは、原宿の光に目を奪われ蛇行運転を繰り返す少年たちと黒い軽自動車の様に、たちまち横転しアスファルトに叩き付けられてしまう。
2023年7月5日 鶴本哲太
『光の描写について セザンヌの絵を参考に』
セザンヌは印象派の画家たちとは違う考えにより光を色の階調に置き換えて描写した。その後、画家たちは構成主義に向かって行った。彼は最後の描写の画家だと言える。写真による作品を試みる方に画家の視線について私見を話してみたい。
角田俊也
金村修ワークショップは、写真作品を制作したい人、写真作家をめざす人を対象にしていますが、狭義の写真解釈にとどまらず、開かれた可能性を探求するためにも、写真以外の知識は重要です。
角田俊也氏によるレクチャー『光の描写について セザンヌの絵を参考に』を開催します。
日時:2023年8月19日(土) 16:00〜18:00
会場:The White
定員:10名(対面受講)、定員なし(オンライン受講)
受講料:3000円(対面、オンライン)
受講希望者は以下よりお申し込みください。
https://kanemura-workshop.stores.jp/
角田俊也プロフィール
1964年神奈川県生まれ。東京藝術大学美術学部美術研究科大学院修了。空間と意識の関わりを主題とするフィールド録音やインスタレーションの制作をおこなう。おもな展示に、「風景と声」(Sprout Curation 東京 2020年)「Trans/Real」 (Gallery αM 東京2016年) 「Soundings: A Contemporary Score」(Luke Fowler との共作 MoMA NY 2013年)、おもな録音作品に〈Landscape and Voice〉(BlackTruffle) 〈Temple Recording〉(edition.t)〈間口港の低周波〉(Hibari Music)などがある。
主催・金村修ワークショップ/Modulation 8