第一回 7月28日
痕跡
人がいない写真のほうが人間を感じる時があるんですよ。そこに人の痕跡があれば。
第二回 8月4日
被写体
ここにある写真に写ってるものって、基本的につまらないものばっかりじゃないですか。それがいいんですよ。見た目が面白いものって、写真に撮ると全然面白くないから。
金村修ワークショップ
第一回 7月28日
痕跡
人がいない写真のほうが人間を感じる時があるんですよ。そこに人の痕跡があれば。
||| Overview |||
2024年度受講生のつがわたかのぶさんによる金村修ワークショップ企画展。
Title: だれもみてない
Artist: つがわたかのぶ
Date: 2025年07月02日 〜 7月19日
Open: Tuesday to Saturday 13:00 〜 19:00
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205
||| Essay |||
185年後のイポリット
タカザワケンジ(写真評論家)
写真という宇宙に、セルフポートレートという星座がある。 その起源は、写真の発明者の一人であるイポリット・バヤールの「溺死者としての自写像」(1840)まで遡る。 写真の発明は1839年、ダゲールとニエプスによる共同研究の成果である『ダゲレオタイプ』とされている。イポリット・バヤールは同じ1839年のもっと早い時期に独自の写真術を発明していた。しかし科学アカデミーには受け入れられず、その絶望と憤怒から生まれたのが、溺れ死んだ男の姿を描いた作品である。死はもちろん演出されたものだ。
写真の歴史が始まってすぐに「死」を、それも「フィクション」で描いたことは興味深い。写真はその始まりから「真」を「写す」ものではなかったのだ。
それを作者自身が演じたことも重要だ。バヤールの科学アカデミーの面々への怒りは本物だっただろうが、憤死したのはあくまでフィクション。大蔵省の役人だったバヤールはその後、世界で最初の写真展を開き、フランス写真協会の創設メンバーの一人になった。フランスの建築物や史跡の記録と保存を委託された最初の写真家の一人でもあり、80代半ばまで生きたというから長生きだ。
さて、ここでご紹介するのは「溺死者としての自写像」から185年たって日本に現れた新人写真作家、つがわたかのぶである。このたび、セルフポートレートを中心とした展覧会を開催することになった。
つがわたかのぶはセルフポートレートだけを撮っているわけではない。日常という名の大海原に漂う無数の断片を、無差別にすくい撮る。いわゆる無意識写真だ。
金村修ワークショップに彼が持ち込んだ写真は、猛スピードで変貌を遂げていった。それは、見ることの深化であり、表現することについての自覚を得るプロセスでもあったのだろう。
写真とは、見ることと撮ることの永遠の円環だ。彼が見ているのは、若者が少なく老人が多く、閉塞感が日常語になり、貧富の差の拡大をひしひしと感じながら生きる都市生活者たちの切ない現実である。
彼はなぜセルフポートレートを撮るのか。
そこに私は、怒りという名の炎を見る。ままならないこの世界で、ともすればナルシシズムに傾きがちなセルフ・イメージを否定し、汚れた魂を白日の下に晒すこと。その暴露に彼の表現があるのだろう。
つがわが試みたのは、イポリット・バヤールの怨念を引き受けて死者を演じるのではなく、2020年代を生きる生者として、「私」を光にさらすこと。その誠実なアクロバットを多くの人に見てほしい。
||| Biography |||
つがわたかのぶ|Takanobu Tsugawa
1997年生まれ。2023年から本格的に写真を始める。
第一回 5月5日
場所
何度も同じ場所を撮っているのに、変わって見えることってあるんですよ。違う方向から歩いてみるとか、映画を見たあとに歩いてみると。
第一回 2月10日
ピント
ピントが合ってない写真っていいんですよね。だからってしょっちゅう合ってないと困るんだけど。
第一回 11月18日
写真
写真に愛されてない。そういう時があるんですよ。長嶋茂雄みたいに野球の神様と両思いならいいんですけどね。
第一回 8月26日
写真を見る
(自分の写真を)毎日5分だけ見るんですよ。長く見ないで少しだけ。自分と写真の距離が重要だから。自分の写真好きだなーと思って見てると選べないんですよ。
||| Overview |||
2023年度受講生の梶瑠美花さんによる金村修ワークショップ企画展。
Title: sugar for the pill
Artist: 梶瑠美花
Date: 2024年07月09日 〜 7月27日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205
||| Essay |||
撮る/撮られるから、写真による対話へ
タカザワケンジ
ポートレイト写真にはセンシティブな問題がつきまとう。
カメラを手にした側は、レンズの前にいる人物をコントロールし、自身の意に沿う写真を撮ろうとする。シャッターを切る決定権はカメラを手にした側にある。写真撮影が創作である以上、作者のエゴが発揮されるのは当然だ。しかし、相手が人間である以上、撮る/撮られるという関係には必然的に権力関係が生まれてしまう。
しかし撮られる側がいつもコントロールされる側にとどまり、黙って撮られているだけというわけではない。
カメラを手にした人間が「撮りたい」と思うように、「撮られたい」と思ってレンズの前に立つ人がいる。どう撮りたいか、どう撮られたいかというそれぞれの欲望がスパークした結果──それが梶瑠美花の写真である。
梶は本展のステートメントで制作プロセスを明かしている。
(1)ソーシャルネットワークを使用し写真に写りたい人物を探す。
(2)その人物が指定した日時に指定された場所に行き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。
(3)同日インタビューも併せて行い、彼女らに話したいことを話したいだけ話してもらう。
なぜ梶は彼女たちを撮りたいのか。
梶はその根拠に自身が従事していた医療現場で論じられているケアの概念を置いている。対人関係のプロセスそのものがケアになるという考え方だ。
なぜ彼女たちは梶に撮られたいのか。
その問いに対する答えはさまざまだろうし、言語化するのは困難だろう。
梶は写真を撮ることで、言葉のいらないコミュニケーションの可能性を示す。そのうえで彼女たちが発したい言葉に耳を傾ける。
そこには撮る側と撮られる側が、ともに何かを表現したい、発信したいという共通の動機が存在する。動機はある。しかし伝えたいことがうまく言葉にならない。そうした手探りの状態での表現は写真が得意とするところである。写真はその表面だけを写すだけで、何の評価もジャッジもしないからだ。
梶は写真を撮り、文章を書き、それをアーティスト・ブックにまとめている。今回は初めて展覧会をいう方法を採り、空間の中でどう表現するかという課題に挑戦する。
アーティスト・ブックではモデルとなった女性たちが一つに溶け合い、そこに何人の人物が写っているのかも曖昧だ。
撮る/撮られるという境界すら曖昧になり、作者自身がこの中にいるのではないかとさえ思う。
19世紀のヨーロッパで科学的な知見をもとにリアリズムを追求した自然主義文学の一つに小説『ボヴァリー夫人』(1857)がある。宗教的なモラルに反すると批判され、議論を巻き起こしたが、作者のフローベルは敢然と「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。描いた対象にまっすぐに向き合った結果、性差や設定を超えてその主人公は作者自身になったのだと。
梶もまた言うだろう。「彼女たちは私だ」
||| Artist Statement |||
住み慣れた土地と仕事を離れ、見知らぬ場所でSNSの中の女性たちと会い続けている。
その理由はCOVID-19が流行してからの3年間、感染拡大防止のため患者以外との人間関係や外部との接続を断たれ、医療従事者として求められるまま閉鎖的に過ごしたからだ。
社会との関係性が希薄になるにつれ現実感覚は乏しくなっていき、いつしか自分を見失ってしまった。きっとそのことによる反動のようなものだろう。
看護理論のひとつに、“対人関係のプロセスそのものがケアになる”という考え方がある。1953年に看護学者のヒルデガード・E・ペプロウによって書かれた『人間関係の看護論』によるものである。見知の人間同士の出会いから始まり、人間関係の相互作用の中で影響を及ぼし合い、課題解決へ共に向かっていくのだという。撮る者と撮られる者という関係を乗り越え、撮影者と被写体もそのような関係になっていけるだろうか。
彼女たちは、見知らぬ写真家に身近な人に言えないものを吐出し、写真家は現実の手触りを感じながら写真を通じてコミュニケートする。外の世界で他者と交わり、関係性の中で自己が更新されていく。それが自己を取り戻すような経験であることを願っている。
(要約版。ステートメント全文は会場にて配布。)
第一回 5月13日
展示と撮影
ある程度写真がたまってきたら、展示を想定しながら撮るといいですよ。セレクトが変わってきます。
第一回 1月22日
ワークショップ
写真は単語。このワークショップで学んでほしいのは文法です。
第一回 10月16日
見直す
これはダメだと思った写真が十年くらいして見直したらよかったりするんですよ。自分でやってることは自分で判断できないものなんです。