sugar for the pill

 
||| Overview |||
2023年度受講生の梶瑠美花さんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: sugar for the pill
Artist: 梶瑠美花
Date: 2024年07月09日 〜 7月27日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
撮る/撮られるから、写真による対話へ
タカザワケンジ

ポートレイト写真にはセンシティブな問題がつきまとう。
カメラを手にした側は、レンズの前にいる人物をコントロールし、自身の意に沿う写真を撮ろうとする。シャッターを切る決定権はカメラを手にした側にある。写真撮影が創作である以上、作者のエゴが発揮されるのは当然だ。しかし、相手が人間である以上、撮る/撮られるという関係には必然的に権力関係が生まれてしまう。
しかし撮られる側がいつもコントロールされる側にとどまり、黙って撮られているだけというわけではない。
カメラを手にした人間が「撮りたい」と思うように、「撮られたい」と思ってレンズの前に立つ人がいる。どう撮りたいか、どう撮られたいかというそれぞれの欲望がスパークした結果──それが梶瑠美花の写真である。
梶は本展のステートメントで制作プロセスを明かしている。

(1)ソーシャルネットワークを使用し写真に写りたい人物を探す。
(2)その人物が指定した日時に指定された場所に行き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。
(3)同日インタビューも併せて行い、彼女らに話したいことを話したいだけ話してもらう。

なぜ梶は彼女たちを撮りたいのか。
梶はその根拠に自身が従事していた医療現場で論じられているケアの概念を置いている。対人関係のプロセスそのものがケアになるという考え方だ。
なぜ彼女たちは梶に撮られたいのか。
その問いに対する答えはさまざまだろうし、言語化するのは困難だろう。
梶は写真を撮ることで、言葉のいらないコミュニケーションの可能性を示す。そのうえで彼女たちが発したい言葉に耳を傾ける。
そこには撮る側と撮られる側が、ともに何かを表現したい、発信したいという共通の動機が存在する。動機はある。しかし伝えたいことがうまく言葉にならない。そうした手探りの状態での表現は写真が得意とするところである。写真はその表面だけを写すだけで、何の評価もジャッジもしないからだ。
梶は写真を撮り、文章を書き、それをアーティスト・ブックにまとめている。今回は初めて展覧会をいう方法を採り、空間の中でどう表現するかという課題に挑戦する。
アーティスト・ブックではモデルとなった女性たちが一つに溶け合い、そこに何人の人物が写っているのかも曖昧だ。
撮る/撮られるという境界すら曖昧になり、作者自身がこの中にいるのではないかとさえ思う。
19世紀のヨーロッパで科学的な知見をもとにリアリズムを追求した自然主義文学の一つに小説『ボヴァリー夫人』(1857)がある。宗教的なモラルに反すると批判され、議論を巻き起こしたが、作者のフローベルは敢然と「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。描いた対象にまっすぐに向き合った結果、性差や設定を超えてその主人公は作者自身になったのだと。
梶もまた言うだろう。「彼女たちは私だ」

||| Artist Statement |||
住み慣れた土地と仕事を離れ、見知らぬ場所でSNSの中の女性たちと会い続けている。
その理由はCOVID-19が流行してからの3年間、感染拡大防止のため患者以外との人間関係や外部との接続を断たれ、医療従事者として求められるまま閉鎖的に過ごしたからだ。
社会との関係性が希薄になるにつれ現実感覚は乏しくなっていき、いつしか自分を見失ってしまった。きっとそのことによる反動のようなものだろう。

看護理論のひとつに、“対人関係のプロセスそのものがケアになる”という考え方がある。1953年に看護学者のヒルデガード・E・ペプロウによって書かれた『人間関係の看護論』によるものである。見知の人間同士の出会いから始まり、人間関係の相互作用の中で影響を及ぼし合い、課題解決へ共に向かっていくのだという。撮る者と撮られる者という関係を乗り越え、撮影者と被写体もそのような関係になっていけるだろうか。

彼女たちは、見知らぬ写真家に身近な人に言えないものを吐出し、写真家は現実の手触りを感じながら写真を通じてコミュニケートする。外の世界で他者と交わり、関係性の中で自己が更新されていく。それが自己を取り戻すような経験であることを願っている。

(要約版。ステートメント全文は会場にて配布。)

「ばッ「「「」」」ーーン」


 
||| Overview |||
2022年度受講生の鶴本哲太さんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: 「ばッ「「「」」」ーーン」
Artist: 鶴本哲太
Date: 2023年08月29日 〜 9月16日
Open: Tuesday to Saturday
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
文字に起こすことのできない声を聞く
タカザワケンジ

 写真は沈黙している。しかし静止した画面から何事かを訴えかけてくる写真もある。鶴本哲太の写真がそうだ。
 その声は必ずしも明快なものではない。声であることはわかっても、それが何を言っているのかわからないことがほとんどだ。そもそもそれが言葉なのかさえはっきりしない。
 鶴本哲太の写真を見る。耳を澄ますように目を澄ましてみても、見えるのは線と形と色彩。都市の断片だと理解するなら、記憶にある騒音が頭の中で再生されるだろう。しかしそれだけではない。たとえれば赤ん坊の泣き声のような声が聞こえてくるのだ。
 子育てをしていた時、赤ん坊を見ていると、「泣いている」のか「鳴いている」のかわからなくなることがあった。大人の「泣く」には情緒的な理由があるが、赤ん坊のそれはよくわからない。動物と同じように声をあげているだけのような気がする。涙が出ているから「泣く」なのだろうが、目から出る涙よりも、口から出る叫びのほうがよほど大きい。何かを訴えているのだが、その何かがわからない。困惑する大人を尻目に赤ん坊は無尽蔵かのようなエネルギーで騒音を立てる。その声はウォーという太いものになり周囲を巻き込んで嵐になる。
 鶴本哲太の最初の展示のタイトルは「ウ」「ォ」「ー」(229 GALLERY、2023)だった。つなげて読めば戦争だが、分解され意味が蒸発している。私には赤ん坊の泣き声(鳴き声)のように思えた。
 さて、今回の展示のタイトルは「ばッ「「「」」」ーーン」である。読めない。「ウ」「ォ」「ー」はまだ読めた。今回は無理だ。それだけ叫びに近くなったとも思う。叫びとは発声されてはいるが何を言ってるかわからない声で、文字に起こせない。起こしたとしても便宜的なものだ。その叫びをまじめに聞いて起こそうとすると、たぶん、同じ叫び声を聞いたとは思えないほどバラバラの文字になるだろう。すでに頭の中にある「叫び声」という典型に沿わせて文字にする以外は。
 では、鶴本はこの奇っ怪なタイトルの展示で何をしようとしているのか。
 まだわからない。
 鑑賞者には、見ること。受け止めること。そして考えること。それだけしかできない。
 叫び声を「叫び声」として認識することを回避し、聞こえてくる音に文字を当てずに受け止める。耳を澄まし一音一音を聞き取るように写真を見たらどうなるか。それは未知の体験になるかもしれない。
 鶴本の展示は「ほら、この通り」としか言いようのないものになりそうな気がしている。

||| Artist Statement |||
1どこからともなく「ノロイ」、とタッチされた人は突如呪われ自分が何かに取り憑かれたような扱いを受ける。何がきっかけなのか、何が自分に取り憑いているのかを考える間はなく一刻も早く取り憑いた何かを他者に移し、身体から「ノロイ」を祓わないといけない。なぜなら誰にもタッチ( 移す)する事ができずに休み時間終了のチャイムを迎えてしまった時には、誰かにタッチしたくても授業によるお預けを食らってしまうからだ。授業中では他者にタッチしたくてもタッチできず、また可能であってもタブーとされ「ノロイ」の保有時間は長くなり、その間取り憑く何かは時間の経過と共に対象者を蝕んでいき、授業を終え他者にタッチする前には本当に取り憑いてしまったかのように「ノロイ」は対象者にべったりへばり憑いてしまう。仮に「ノロイ」がたわいもないモノであれば放課後を迎えるころには自然消滅してくれるのかもしれない、しかしモノによっては主人(対象者)の名前を破壊し名前にまでも何かが憑依してしまう恐れもある。この「ノロイ」とは小学生時代に私の同学年の間にあった遊びである。恐らく「エンガチョ」の名残りを受け時代とともに自然に派生したのだと思われる。「エンガチョ」も「ノロイ」の件のような流れで「エンガチョ」の対象者が追う側となり追われる側を追いかける、言わば追いかけっこである。また追われる側が両手の親指と人差し指で鎖の輪をつくり、同じ追われる側の人に「エンッタ」と輪を切ってもらうと「エンガチョ」は無効化され取り憑く事すらできないというルールがある。「エンガチョ」の「エン」は「穢(けがれ)」と考えられており、すると「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」といった具合に派生した遊びと見てとれる。しかし「エンキッタ」と言うまじないの魔力は「縁切り」のそれと見るべきであり「エンガチョ」の遊びはこの「縁切り」の原理をよく示しており人間の心と社会の深奥に触れる意味を持っているように思われる。と述べる網野善彦は「エンガチョ」を皮切りに、かつて中世の日本に存在した「無縁」と言う領域に辿り着く。「無縁」とは仏道における概念であり「無縁」が機能する場(寺院など)のことである。「無縁」つまり「縁」が「無い」したがってこの領域内では「無縁」であることを根拠に世俗権力による干渉や私的支配とは縁を切り、仏陀のみの支配下にあると言う領域なのである。文字通りこれは仏道における思想のレベルの話ではなく仮に「無縁」が機能する寺院に下人・所従が駈け込めば世俗との縁は切れ主従の縁もここで断ち切られる、また実際に幕府や大名たちも「無縁」の概念を認識しており、その領域内に介入することはできなかった。人間の世界に依拠しながら世俗(社会)と断絶された仏道の領域には原始の自由と平和があったのではないだろうか。また文学、芸能、美術、等々の日本の文化の大部分が「無縁」の場を媒介にし存続した事をどう考えるべきなのだろう。能役者の躰(からだ)は世界の感触を媒介するものであり、ただ足で舞台を踏む。能役者はそこに広がる空間を躰で撃ち、ただ「舞」うことでそこにある世界を露出させる。「無縁」の場で行われ、世俗との縁をも切り、個性や感情を相殺する面を被り、ただ足踏みをする能役者の舞にはどのような世界が媒介されていたのだろうか。しかし「無縁」の場も長く続くことはなく次第に権力に統制され跡形も無く消え去ってしまうのは言うまでもなく、遊びにまで派生した名残も叙述した様に「穢」→「エンガチョ」→「ノロイ」となり小学生時代の私の遊びには「エンキッタ」と言う要素や概念は残っていなかった。しかしこの派生の流れを「無縁」→「エンガチョ→「ノロイ」と見たとき、休み時間に対象者に取り憑き授業中に拡大した「ノロイ」は、取り憑く「ノロイ」自身が拡張していたのではく「エンキッタ」がまだ達成されていない、対象者を見る他者の認識に「ノロイ」は取り憑き、認識を覆うようにして拡張していたのではないだろうか。「無縁」の場を忘却している私たちは世俗(社会)の発信する強い何かがどこからともなく現れてはべったりと認識にへばりつき、取り憑かれていることにも気が付かず覆われた認識が見せる世界に対象者の「ノロイ」を見てしまったのか。またそう見ることしかできない、呪われた何かなのか。人類にとっての理想郷?のような「無縁」の場がまだ力を持っていた中世の時代から飛んで現代そして現代からさらに飛び、西暦300X 年マルハーゲ帝国に支配された未来の地球を舞台にマルハーゲ帝国の権力を示すプロパガンダである人類丸坊主計画から人類の髪の毛の自由と平和を救うべく、戦いを挑む「ボボボーボ・ボーボボ」もまた能役者の様にサングラス(面)を付け、顔を表さない。北斗神拳(北斗の拳)のごとく鼻毛真拳の使い手である「ボボボーボ・ボーボボ」は暗黒世界を旅しながら悪を倒すといったおなじみの物語だが実際の作中では「ハジけ」と称した理解不能なボケの連続がただあるだけであり、登場人物の詳細や作中の会話や物語、フィクションにおける構成や伏線やオチなどを一切無視し、始めから終わりまで続くボケの羅列は喜怒哀楽などの感情を超越し、無意味の要素(ハジけ)の反復である。「ハジけ」の反復運動をただ繰り返すだけで敵は次々と倒され、遂には人間をお金に変えてしまうゴールド真拳の使い手ハレクラニが君臨する資本主義大国ハレルヤランドをも壊滅させてしまうのだった。演劇評論家である土屋恵一郎能は著書で、能における物語は「舞」を舞う為につくられた装置であり、ただ「舞」を見せるために能の構造が出来上がった。と記述している。「ハジけ」の羅列をただひたすら繰り返すだけの「ボボボーボ・ボーボボ」における物語もただ「ハジける」為に付随する装置だと私は思う。「無縁」における能の「舞」は足踏みにより空間をただ躰で撃ち世界を露出し、「有縁」におけるボーボボの理解不能な「ハジけ」の連続はマルハーゲ帝国に支配された世界を破壊した。本来ならタッチされた対象者はあるがままの対象者のはずなのにタッチし併せて言葉で「ノロイ」と放つだけで、対象者に対する「ノロイ」の認識を拭うこともできず、また濃厚接触者という言葉に翻弄され、決して肉眼では捉えることができない生物と無生物の中間であるウイルスと自分が接触しているのかをコールセンターへ問い合わせをし続ける私たちには、彼らの様にあるがままの世界を認識することはできるのだろうか。能役者が自らの躰で空間を撃ち世界を感じる様に身体を動かし、取り憑く何かが見せるアピールに反応しイメージとして切り取るのではなく、「エンキッタ」と取り憑く何かと「縁」を切っていくように、素直にあるがままの世界をただ見、記録する。記録したイメージによる無意味な羅列による映像は「舞」や「ハジけ」の様にただ「イメージ」を見せる為に映像という装置が付随する。映像によるイメージそれ自体はただ羅列を繰り返すだけだが、私たちに取り憑く何かにより、イメージは粘土の様に鑑賞者それぞれの独自の形態を作り上げてしまう。無意味な羅列により意図せず変形してしまう粘土細工の認識を受け続け、意味を統合する事のできない取り憑く何かは、原宿の光に目を奪われ蛇行運転を繰り返す少年たちと黒い軽自動車の様に、たちまち横転しアスファルトに叩き付けられてしまう。
2023年7月5日 鶴本哲太

第三病棟

||| Overview |||
2021年度受講生のToshiさんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: 第三病棟
Artist: Toshi
Date: 2022年08月09日 〜 20日
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
写真が芸術であるならば
~Toshi「第三病棟」によせて
タカザワケンジ

1890年代、留学していたドイツからアメリカに戻ってきた頃のことを、アルフレッド・スティーグリッツはこう振り返っている。
「私の写真を見た画家たちは、私をうらやんだ。しかしこうも言った。あなたの写真は私たちの絵より優れているかもしれないが、残念ながら写真は芸術ではないと。機械で作られたものだからという理由で写真が批判されるのはなぜなのか。彼らの『芸術』である絵画は、手で作られたものだが、だからといって必ずしも優れているわけではない」(*)
スティーグリッツの生涯は写真が芸術として認められるために捧げられた。ヨーロッパの印象派やピカソをアメリカに紹介し、芸術についての古い価値観を刷新しようとしたのもそのためだ。
芸術とはそもそも何なのか。晩年のシリーズ「Equivalent」についてスティーグリッツはこう語っている。
「私の雲の写真は、私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学に相当するものだ」。
作家、編集者、写真家でもあり、スティーグリッツと深い交流があったドロシー・ノーマンは、この言葉を紹介した後にこう記している。「やがて彼は、自分のプリントはすべて等価であると主張し、ついにはすべての芸術は芸術家の最も深い人生経験の等価物であると言い出したのです」(*)
予備知識なしに見れば「Equivalent」は空の写真であるとしか言いようがない。そこに作者の人生経験や哲学が反映されていると言われても、にわかには理解しがたいであろう。おだやかな空もあれば、暗く底光りするような空もある。それが作者の内面、生きてきた人生のリアリティだといえば、そのような気もするし、そうなのかと疑問も感じる。
しかし、絵画がモティーフを描いただけでなく、ある概念──たとえば神への愛や世界の不思議さ──を表現したと考えれば、写真もまた写っているものの先に何かがあるという主張は筋が通っている。スティーグリッツの人生哲学を私たちが正確に把握できなくても、その写真そのものから何かを受け取ることができれば、それはたしかに非言語的な交流と言える。
写真も絵画と同様に対象を通して言葉に還元できない何かを表現できる。人の手によるものであれ、機械が写しとったものであれ、見る側が何かをくみ出せるならそこに優劣は存在しない。それどころか、機械がつくりだすイメージには人智を超えた偶然を取り込めるというアドバンテージがある。
しかしそもそも「私の最も深い人生経験、人生の基本的な哲学」は、芸術としての写真に本当に必要なのだろうか。私たちは「Equivalent」を見て、スティーグリッツという個人の営みに感動しているのだろうか。
Toshiという作家は名前からして記号的であり、個人の人生を想像するのが難しい。私が知っていることだけを挙げても、女性である、北海道在住であるということくらいだ。
しかし彼女の写真は大量に見てきた。ワークショップのテーブルいっぱいに並べられた写真に写っていたのは、言葉にすれば荒涼たる風景であり、錆びついた鉄塔であり雪であり、曇天の空でありくすんだ色合いの団地である。
写っているのがどこかはさほど重要ではない。Toshiによって選択された場所であり、その選択は直感的、瞬間的に行われているということだけがわかれば十分だ。それが作品であるならば、私たちは写真家の直感が何を見いだし、どのような世界を作ろうとしているかを見なければならない。
Toshiの写真から、日本経済の落ち込み、地方の経済破綻、社会全体を覆う鬱的な精神的不調といった、現在の私たちを取り巻く残念このうえない状態を重ねて見ることもできるだろう。
しかし、だからといって地方の現実を告発する「社会派」の写真などに収まってはいない。むしろフレーミングすることで現実から離れ、ここではないどこかの世界を示唆する写真に見える。たとえば『ストレンジャー・シングス』における「裏側の世界」である。『ストレンジャー・シングス』の舞台が都市から離れた地方であり、1980年代の冷戦末期、ソ連からの攻撃を恐れる心理的不安を背景にした「もう一つの世界」であるように。
では「第三病棟」とは何か。三というからには一と二があるのだろう。そして、一と二は明示されず、病棟そのものが物質的な場所を指してはいないようだ。そこで写真を見る私たちは、写っているものを手がかりに第三病棟を想像する。写真に写った世界の向こう側、あるいは裏側を想像するのだ。そのとき、病棟にとらわれているのは、ほかならぬあなた自身であることを発見するだろう。(写真評論家)

*『APERTURE MASTERS OF PHOTOGRAPHY 6 ALFRED STIEGLITZ』(1989、Aperture)

||| Artist Statement |||

様式7

文書番号第1号
令和4年8月9日

措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ

○○ ○○ 殿

都道府県知事

  1. あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院措置が必要であると認めたので通知します。
  2. あなたの入院は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第29条の規定による措置入院 です。
  3. あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立ち会いのもとで、あなたに開封してもらい、その異物は病院にあずかることがあります。
  4. あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又はあなたのご家族等の依頼によりあなたの代理人となろうとする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
  5. あなたは、治療上の必要性から、行動制限を受けることがあります。
  6. もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出て下さい。
    それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない場合には、あなた又はあなたのご家族等は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、都道府県知事に請求することができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋ねになるか又は都道府県にお問い合わせ下さい。
  7. 病院の治療方針に従って療養に専念して下さい。
  8. この処分について不服がある場合は、この処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内に厚生労働大臣に対して審査請求をすることができます(なお、この処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内であっても、この処分の日の翌日から起算して1年を経過すると審査請求をすることができなくなります。)。
  9. この処分の取消しを求める訴えは、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して6か月以内に限り、都道府県を被告として(訴訟において都道府県を代表する者は都道府県知事となります。)提起することができます(なお、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して6か月以内であっても、この処分の日の翌日から起算して1年を経過するとこの処分の取消しの訴えを提起することができなくなります。)また、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して3か月以内に審査請求をした場合には、この処分の取消しの訴えは、その審査請求に対する裁決の送達を受けた日の翌日から起算して6か月以内であれば、提起することができます(なお、その審査請求に対する裁決の送達を受けた日の翌日から起算して6か月以内であっても、その審査請求に対する裁決の日の翌日から起算して1年を経過するとこの処分の取消しの訴えを提起することができなくなります。)。

 

 

 

 

 

 

 

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父は「足組むはダメ」だって

||| Overview |||
2020年度受講生のrajiogoogooさんによる金村修ワークショップ企画展。

Title: 父は「足組むはダメ」だって
Artist: rajiogoogoo
Date: 2021年03月02日 〜 13日
Venue: ALTERNATIVE SPACE The White Room #205

||| Essay |||
資本主義の廃墟
~rajiogoogoo「父は「足組むはダメ」だって」によせて
金村修

フェティシズムは日本語で物神性と訳される。いきなり外部から物に対して神が取り憑いてしまうことがフェティシズムなのだろうか。物が単独でしか存在しないのならそこに神が取り憑くことはないだろうが、他者との関係の中に物が置かれるときにそのようなフェティシズムが発生する。フェティシズムとは単独で現れるものではなく、関係の中から現れ、商品や貨幣はそのようなフェティシズムを内包している。むしろフェティシズムによってそれらは成立しているのだ。
神が突然憑依することがフェティシズムであるなら、そのような物神性はいわゆる神という外部の領域からではなく、商品の交換過程の中から現れるのではないだろうか。商品が単独でしか存在しないのならそこに神が取り憑くことはない。他者との関係の、それは交換過程の中に商品が置かれるときにそのようなフェティシズムが発生する。
交換過程から発生したフェティシズムは、交換する主体であった人間を支配するだろう。マルクスは商品の物神性について、机が一人で踊り出すことだと説明している。商品は人間が作った物でありながらも、作った人間を支配し、私達はその商品が欲しいのではなく、商品によって私達の欲望が作り出される。 
rajiogoogooの作品にはそのようなフェティシズムが存在しない。これらのガラクタのような商品達は、私達に欲望を喚起させないのだ。商品からフェティシズムという物神性を排除したrajiogoogooの作品は、商品や資本主義の廃墟のように見える。

||| Artist Statement |||
この部屋はパパのために
「長い歳月が過ぎて銃殺隊の前に立つはめになった時、恐らくrajiogoogooは、父親に連れられて初めてビンタされた、遠い日の午後の事を思い出したに違いない」
10歳の正月に、おばあちゃんの家へ夕飯を食べに行った。
ちゃんと食事しなかったので、パパにビンタされた。
痛くて痛くて、あわてて小部屋に逃げた。
わたしは怒った。それから、この部屋はパパと戦うための専用の部屋になった。
パパのことを反対するのがこの部屋のルールだ。
パパの大好きなテレビを運んできて、24時間プレイした。
パパがいつも聴いているレコードを盗んで来て、めちゃくちゃにした。
パパに「ダメ」と言われたことを、かえってやった。

そして、12日間待った。

パパはわたしを忘れちゃったの? なぜ来ないの?


 

 

 

 

 

 

 

 

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