
”Voodoo Doughnut” by Osamu Kanemura
Date: November 8 – 19, 2019
Venue: Gallery 176, Osaka, Japan
Overview
This exhibition features approximately 200 new photographs and a video work by Osamu Kanemura, shot in Portland and New York City. Experience the landscapes of the East Coast and West Coast captured by Kanemura as he traversed the United States.
今回の展示では、金村修が米国ポートランドとニューヨークで新たに撮影した写真約200点と映像を展示します。金村がアメリカを横断し撮影した、東海岸と西海岸の風景を体感してください。



Statement
10年ぐらい前のアサヒカメラに、ある台湾の写真キュレーターが、『来るべき言葉のために』の頃の中平卓馬の写真と、森山大道の写真の区別がつかないと笑いながら語っている記事があった。ハイコントラストでブレボケの白黒写真という共通の方法論で撮られたこの当時の二人の写真を見ると、このキュレーターの言っているように、確かにどっちがどっちの写真なのかは分かりづらいし、そもそもは写真で個性が表現できるものなのだろうか。例えばストリート・スナップという括りで、様々な写真家の写真が大量に展示されているのを見たら、どれがどの写真家の写真なのか分からなくなって、最終的にはどれもみんな同じような写真に見えてくるだろうし、森山大道の写真とそのエピゴーネンの区別をつけられるだろうか。エピゴーネンの方が本家よりも上手かったりするので、そこに差異を見出すのはとても難しい。写真は大量生産された工業製品を前提にして作られたものであり、無個性で、区別のつきにくい似たり寄ったりのものしか作れないことをむしろ肯定するメディアだった。“あなたも今日から写真家!”、“誰でも良い写真が撮れる!”という新しいカメラが出る度に示されるカメラ会社の宣伝コピーが如実に表しているように、そのカメラを購入すれば誰でも写真家になれるになら、突出した個性は必要とされないだろうし、誰でも良い写真を撮れるということは、みんなと同じ写真しか撮れないことを意味している。写真は無個性で似たり寄ったりのものしか作れないということをカメラ会社が自社の宣伝コピーで既に語っているのだ。無個性なものしか撮れないカメラを写真家は使っているのだから、写真家の固有名が恩寵のごとく写真に刻印されることほど変はないだろう。固有名詞と対立するのが写真であり、写真はむしろ固有名詞の破壊者であって、複製芸術としての写真はだから、被写体から固有名詞の持つアウラを徹底的に廃棄する。例えば再撮影を例にとると、カメラで再撮影された絵画を見れば分かるように、それはオリジナルの絵画が持っていたアウラを喪失させ、無残で薄っぺらな印画紙にしか見えないように、かつての芸術的アウラを成立させていた“今”、“ここ”という場所と時の一致と一回性を複製芸術は無効にさせる。唯一としての芸術を複製可能なものに変容させることで、その唯一性を複数化すること。複製とはオリジナルの存在からアウラを奪い取る作業であり、複製をその特徴とする写真は、固有名詞が持つアウラを複製化することで徹底的に破壊するだろう。
ポートレート写真の破壊性は、写真が持つその非アウラ的性格を非常によく現している。固有名詞を持った人物が写真に撮られると、その人物の固有名詞性が剥ぎ取られ、二次元ののっぺりとした印画紙としての物質に変容させられる。魂を抜かれたポートレート写真は、その人だけが持っていた固有名詞性を喪失させ、その人そっくりの人が映っている薄っぺらな印画紙でしかなくなるだろう。固有名詞的な要素を徹底的に排除するのが写真であり、対象とそっくりに似ているものを生み出すことができる写真は、現実の人物が持っていた自己同一性を廃棄させる。「背後のないことそのもののあらわれ、軽薄なまでに表面的であることの権利」(宮川淳)。ポートレート写真には、現実の人物の同一性が映っているわけではない。それはただその人に似ているだけで、他には何も映っていない。写真は表面しか写すことができないので、その背後を写すことができないのだ。ポートレート写真のわたしは、わたしにそっくり似ているけれど、本当のわたしではないという現実のわたしとのズレを生み出し、そのズレを拡大することが写真なのではないかと思う。そのズレは本人という自己同一性の領域に回収されるのではなく、どこまでもその領域からズレることなのだ。固有名詞が持っている自己同一性を写真は廃棄するのであり、現実の対象とそっくり同じものでしかない写真には、そのような自己同一性が存在しない。写真はだからみんな同じように見えるだろう。他との差異化を図るために必要とされる個性=自分らしさを成立させるには、自己同一性が必要とされる。けれど写真の自己同一性は、写された対象に存在するので、写真はただそれに似ているだけで、自己を成立させるための同一性を対象に預けている写真には、個性を表出することができない。写真は対象にそっくりなだけで、独自の個性を持つことができないのだ。
現実の対象にそっくりなものが、いまでは現実を凌駕している。観光地の風景を見たときに、まるで写真そっくりだという感想が多いのは、観光地の写真が現実の観光地の風景を乗っ取ってしまったことの証拠であり、散々写真に撮られ、あらゆる場所にそれらの写真が流通させられたことで現実の観光地の風景は、この風景は写真にそっくりだと人々に言われるようになり、現実にそっくりな写真に現実が取って代わられた。それは現実にそっくりなだけで“軽薄なまでに表面的”なものが、現実に取って代わったのだ。68年フランス革命のスローガンだった「想像力が権力を奪う」の“想像力”が、イメージするという意味なら、イメージには必ず現実とのズレが発生する。何かをイメージすることは、何かを正しく再現することではなく、何かからズレてしまうことがイメージすることの本質ではないだろうか。写真のイメージは、被写体そっくりでありながらもそれはただ似ているだけで被写体そのものではない。むしろよく似ているけれど本物ではないということで、写真は被写体からズレつづけるだろう。「想像力が権力を奪う」とは、ドッペルゲンガーが権力を握ることであり、自己同一性を欠いたものが権力を握ることなのだ。それがそれであることの根拠を解体すること。根拠を解体された写真は、他の写真との差異を見出すことができない。差異は、それらのものがそれぞれに違う自己同一性を持つことが前提とされるのだから、同一性を廃棄された写真は全て同じに見えるだろう。
偽札が重罪として国家権力から認定されるのは、貨幣の自己同一性を揺がすことで、貨幣の信用が損なわれるからであり、それが重罪なのは貨幣の同一性が危機に晒されることに対する危機感の表れだ。真似のできない唯一ものと思われていた貨幣が、無限に複製できるのなら貨幣の同一性は維持できなくなる。偽札の流通によって貨幣の根拠が危機に晒さらされるとき、貨幣は単なる紙でしかなくなり、紙でしかない貨幣に対して、あらゆるものと交換できる交換価値を与えた国家の虚構性もまた暴露されるだろう。似ているものは、似ているその対象の同一性を解体するのであり、それは寄生している対象に向けて攻撃を仕掛ける癌のようだ。偽札は本当の貨幣が持つオリジナル性を揺がし、わたしだけが本物なのだというオリジナル性を解体することで、貨幣の根拠の無さを暴露するだろう。他の使用価値を持った商品と違って使用価値を持っていない貨幣は、あらゆるものと交換できるという交換価値しか持つことができない。貨幣には本来根拠が存在しないのであり、それ自身によって価値を決定することができず、貨幣の価値は常に外側から与えられる。貨幣の存在価値は、己が持っている使用価値ではなく、国家という貨幣の外部が介入することによって、これはあらゆるものと交換可能な商品であるという交換価値を刻印され生み出されたものだ。偽札は貨幣の持つ国家によって刻印された同一性を破壊するだろう。偽札の流通はそのような価値を付与する国家の同一性もまた根拠がないのではないかという疑問を突きつけるだろう。
芸術のアウラを廃棄させたと言われた写真は、けれど本当にアウラを廃棄することができたのだろうか。複製された対象は、複製されたということで、それは過去の存在であったことが立証される。起源は反復されたことで、それが起源だと認識されるように、複製されたことでその過去はもう二度と戻ることのない過去だと認識されることができる。一回性としてのアウラは、それが複製されて繰り返されたことで現れるのではないだろうか。起源がそうであるように、一回性はそれが二回繰り返されたことで現れるものであるなら、アウラはそれが消えてもう無いという消滅したことで現れるものであり、写真はだから消滅させたことでアウラを獲得するのだ。それは既に無いということで現れる写真のアウラは、消失点を自らの中に抱え込むことで成立する。国家が消滅することで共産主義社会が成立すると説いたレーニンの『国家と革命』は、国家の消滅のためには、強力なプロレタリア独裁に基づいたプロレタリアの国家が必要だと語っている。レーニンの語るプロレタリア独裁と国家が、それらを最終的には消滅させるという消失点を最初から抱え込むことで成立している独裁と国家であるなら、写真もまたレーニンの言う独裁と国家のようにアウラを消滅させることでアウラを表出させるだろう。今写ったこの瞬間に存在していたものは、もう存在しない。被写体という現実の存在を消滅させることで写真は成り立つ。現実を消滅させることが写真の役割であり、「想像力が権力を奪う」ように、現実に代わって写真が権力を奪う。
金村修

Individual image

















