material zone = 物質地帯 2
JUL 23 – 24, 2020
Alt_Medium, Tokyo, Japan
Osamu Kanemura’s newest movie work “Material Boutique(2020)” is shown in ”Material zone 2.”
”Material zone” is a films association run by Kiyoshiro Tatekawa.
金村修の最新映像作品が、映像作家・立川清志楼が主幹する”material zone = 物質地帯 2”にて上映されます。
Material zone 2
Place: Alt_Medium
Date: July 23 and 24, 2020
Open: 19:15
Start: 19:30
Entrance Fee: 1,000yen
Information: material zone (Kiyoshiro Tatekawa)
Screening List (8 works, 97 min.)
- Breaking Stones, Armando Lulaj/Digital/10min/2017
- zone_002, Kiyoshiro Tatekawa/Digital/15min/2020
- zone_003, Kiyoshiro Tatekawa/Digital/7min/2020
- FOLLOW US OR DIE!, Marco Mazzi/Digital/9min/2020
- Slope, Yusuke Inoue/Digital/10min/2020
- Bioprice Guarantee, Hiroko Komatsu/Encoded 8mm/7min/2019
- Internal Impregnation, Hiroko Komatsu/Encoded 8mm/7min/2019
- Material Boutique, Osamu Kanemura/Digital/16min/2020
Artist’s statements
Armando Lulaj
an Albania based Artist and Filmmaker
Breaking Stones ©Armando Lulaj
Night. Suburban area of the city of Tirana. A man appears on a dark street. He holds a large rock in his hands. As he walks, he repeatedly smashes the rock into the ground until the pieces become small enough to be easily picked up by other passersby and presumably be used by them in an impending protest. He disappears into the darkness. On another street another man seems to repeat the same action.
Kiyoshiro Tatekawa
a Japan based Photographer and Filmmaker
zone_003 ©Kiyoshiro Tatekawa
「実験映画は、終わった」「フィルムを使わなければ実験映画ではない」「デジタル手法は、実験映画と呼べない」等々、よく耳にする。実験映画とは作家の衝動的作品制作欲求・実験手法から生まれる映画のことではないか。作家が宣言すれば、それは実験映画である。
「実験的な行為とは、その結果が予見できないものである。この行為は予見できないため、自らの存在理由に関心がない。土地や空気のように、何も必要としない。」ジョン・ケージ著「サイレンス」(柿沼敏江訳 水声社)より
Marco Mazzi
an Italy based Video artist and Painter
FOLLOW US OR DIE! ©Marco Mazzi
1台の車が駐車場を出て公道へと進んで行く。
車のラジオから聞こえてくる 大量殺人鬼の日記の1ページを朗読する女の声が 夜の帳へと消えていく。
Yusuke Inoue
a Japan based Photographer
Slope ©Yusuke Inoue
坂道に三脚を据えて定点で撮影を行うと、街路の遠近感が薄れて、ひとつの空間のように写る。人々は動画のフレームのなかを、水の中のアメーバのように、縦横無尽に動いていく。
Hiroko Komatsu
a Japan based Photographer
Bioprice Guarantee ©Hiroko Komatsu
イメージの経験は万人が有するはずだが、その現象の主観に依拠する性質により肯定につけ否定につけ決定的な証拠を見いだすことが出来ない。共有できないとしても膨大なイメージは堆積している。しかし何処に? 記録媒体を使ってイメージを再現する試みではなく、何処かに遍在しているはずの膨大なイメージを現前させることの可能性について考える。
Osamu Kanemura
a Japan based Photographer
Material Boutique ©Osamu Kanemura
見返す度にショットや繋ぎの速度が遅く感じられてしまい、その度ごとに速度が早くなってしまうのは何故なのだろう。見返す度に遅く感じるようになり、その度ごとに速度は加速し続ける。速度は一定の速度で終わることがない。加速への欲望は無制限であり、いつまでも加速を求め続けるその欲望は、ショットを忘却の淵に放棄、消滅させる欲望であって、あまりにも美しいのでそのショットを視線の中に停止させ、記憶の貯蔵庫の中にしまい込もうとする蓄積の欲望ではなく、その美しさを振り切り、忘却させる、消滅に向かわせる欲望なのだ。現前と消滅が、存在と忘却がショットの中で同時に現れるようになるまで、速度を加速させなければならない。映像における速度には限界が存在しない。速度が、今よりも更なる速度を要求するのなら、速度は最終的にはどこにも定位することができないだろう。速度はだから決して自らの速度に満足することができずに、いつもそれは遅滞した姿で我々の前に現れる。いくら加速しても遅く現れることしかできない速度について阿部薫は、誰よりも、アンドロメダよりも早くなりたいと、速度を超える速度の欲望について語っていた。それは阿部薫の吹くアルトサックスの音が、彼にとっては常に遅滞して聴こえるからであり、速度が現れた瞬間に加速を要求される存在であるならば、誰よりも早い速度を現前させるには、速度を停止または消滅させる以外に方法がないのではないだろうか。更なる速度の欲望は、物質を消滅させるだろう。速度に物質も重力も必要ではない。速度は物質をその内部から喰い千切る。物質の消滅という極北に向けて速度は加速し続けるだろう。速度の最終的な目的は、速度を超えることであり、結果として速度は消滅する。速度とは自殺であり、消滅する以外にその存在を現すことができない。