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Statements / 2018年3期7月23日〜9月24日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2018_03
ステートメント
認識の体系の中に対象を位置付け、世界に対して自分なりの地図を作成しなければ生きていけない人間にとって、意味の無いものは無理にでも意味を付与されてしかるべき場所に位置付けされる。社会的な関係の網の中でしか生きられない人間にとって、すべてのものは網の中に位置付けされ、位置付けされたものは、他の位置付けされたものとの関係によって意味を表出する。互いが互いを意味付け合うそのような関係の網の中で、無意味なものというのは存在するのだろうか。無意味なものは、無意味という意味を持たされ、意味の体系の外側からその体系を補完し続ける。“反芸術もまた一つの芸術である”(New Blockaders,THE)ように、無意味はつねに意味の領域に収奪され続けるだろう。無意味とは、意味を生産するための肥沃な畑として機能するのだろうか。
無意味や無意識といわれるほとんどのものが、意味や意識を活性化するための予備軍として存在している。そのような無意味や無意識は、既に言語化されている無意味や無意識なのではないだろうか。理解できない絶対的な他者を無意識と呼ぶのであって、そのような言語化された無意識は、作者の自己同一性を補完するための無意識でしかないだろう。意味や意識にとって必要なのは、そのような言語化された無意味や無意識であり、意味の体系に回収できずに、取りこぼされた無意味や無意識は、フェテシズムなイロニーとして今度は機能するだろう。
無意味や無意識は、それ自体では存在しないのだろうか。体系に回収できない無意味なものが意味の外側に存在しているという前提が、意味を構築させる原動力になるのであり、すべてのものが意味付けされ、人間の内部に取り込まれたら、意味は起動することができない。資本主義社会が自らの外部をすべて内部化してしまったらそのシステムは自壊しまう。自己のシステムの保存のために、資本主義社会がつねに外部を作り上げるように、外部に存在している無意味こそが人間の生のシステムを起動させるだろう。反商業主義が商業主義を活性化するための重要な要素のように、生のシステムにとって必要なものは無意味であり、システムはそのために無意味なものを作りだしているのではないだろうか。そしてそのように作り出された無意味は、本当に無意味なものなのだろうか。
意味が単独で存在できないように、無意味もまた単独で存在できない。意味も無意味も互いが寄り添うことで成立する概念であり、それは“意識/無意識”の関係がそうであるように、二項関係によって“意味/無意味”は成り立つのだから、意味や無意味、意識や無意識をそれ自体として自己同一化し、実体化させることができない。
この作品のここには作者の無意識が表現されているという言い方は無意識の実体化であり、例えば荒木経惟の娼婦に対するこだわりが、投げ込み寺の近所に住んでいた少年時代の思い出が作者の深層意識に作用しているという説明は無意識の実体化であり、名付けられない深層意識が投げ込み寺の思い出というように名付けられたとき、そのように言語化された深層意識は、既に深層という理解不可能なものではなく、それは誰にでも理解出来て、共有できる意識に変質される。作品を理解するためには、そのような作者の深層意識が必要なのだろうか。作品に必要なのは深層意識ではないし、作品の表層を理解可能なものにするために、深層の存在を担保にするのなら、深層は表層のイメージを成立させるために芸術のシステムが作り出す虚構でしかないだろう。それは作品がより不透明になるために導入される深層意識ではなく、作品を透明にするためのノイズ除去装置として深層意識が導入される。 荒木の作品の基底に流れているといわれる“虚実皮膜”が、“虚”と“実”の間にあるもの、そのどちらにも所属しないものであるなら、娼婦的なものにこだわることの根拠が住んでいた地域の子供時代の思い出と関係付けられ、実体化されるとき、それは日本の演歌『時には娼婦のように』に歌われるような流通可能なイメージとしての娼婦でしかなく、“虚”にも“実”にも所属しない“虚実皮膜”な娼婦ではない。そこに現れる娼婦はもう一人の自分でしかなく、作者の子供時代の思い出をただ補強していくだけの娼婦でしかないだろう。投げ込み寺が昭和演歌的なイメージに変容されるとき、そのような娼婦は“虚”の領域に存在する娼婦であり、男の快楽に奉仕するイメージとしての娼婦でしかなく、階級的な娼婦の現実がそこでは消去され、作者の自己同一性をいつまでも補完し続けるもう一人の自分としての娼婦しか現れない。
意味も無意味も先天的には存在しない。それはシステムが作りだしたものであり、無意味や無意識はそれ自体で存在しているのではなく、システムが産み出した結果なのだ。無意味はシステムを起動させるために、システムによって生産されたシステムの養分であり、意味のレベルに回収できなかった無意味は、フェテシズムなものとして、人間の生のシステムを起動させる重要な要素に変容するだろう。ロラン・バルトの言うように、東京の中心に空虚で無意味なゼロの領域が存在する理由は、空虚で無意味であるからこそ意味を超えた説明不可能なフェテシズムに変質できるのであり、フェテシズム化された対象こそが生のシステムを起動させる要因になるだろう。わたし達は無意味を無意味なものとして受け入れることができない。無意味なものは意味に転化するか、フェテシズムの対象として変質させるかの二通りの中でしか無意味と向かい合うことができず、無意味そのものをそのまま受け入れることができないのだ。無意味で空虚なフィクションだということを知っていながらもそれを信じる。そんなイロニーを繰り返すこと以外に無意味に対処できる方法はないのだろうか。
意味もまた関係から生まれるものであり、最初から先天的に存在しているわけではなく、社会的な総体としての人間には、目前のすべてを何らかの関連を持たせ意味付けなければ生きていけない故にあるフィクションを発明しなければならなくなる。目前の世界は入れ替わり立ち代り無限にものが溢れ続けるなら、すべてのものに対して意味を付与することが不可能であり、その無限の世界のどこかをフレーミングすることで無限を有限に変質させ、そこからフレーミングされた範囲内に現れるものを秩序付ける以外に意味を付与することができない。目前のすべてを関連付けさせることが不可能な人間の視線は、フレーミングという技術を発明するだろう。フレーミングは、関連付けが不可能なものを視界の外に追いやり、なかったことにしておくことが可能な方法だ。画家の描く絵には無意味な対象が存在しないのは、関連付けられないモノは視界から遮断してそこには存在しないようにするだけで、自分にとって有意味なものだけを認識するからではないだろうか。
カメラがなぜ画期的な装置なのかといわれるのは、自分にとって有意味なもの以外も写ってしまうところであり、自分の作成した地図の範囲内で世界を認識しようとする人間にとって、写真は地図に必要なもの以外の何かを写してしまう。自分にとって関係のないものが地図の中に現れる。バランス良く配置され、構成された世界の中に突然現れる写されたものの存在は、肉眼の体系に属さない無意味なものとして現れるのであり、写真は絵画と違ってものを無意味なものとして受け入れることができるのだ。
意味は人間にとって必要なものであり、意味という羅針盤がなければ、世界は混沌な海として現れ、どこにも行くことができないだろう。意味がない状態に人間は耐えられないのだ。あらゆるものが関連付けられ繋がっている。関係がものよりも先に先行し、他のものとの関連によってものに意味が付与される。関係の動物だと言われる人間にとって、世界のあらゆるものは因果関係に縛られ、繋がっていなければ困るのだ。人間は繋がらないことに耐えることができない。モノとモノとの間に亀裂が入り、そのまま繋がらずに目前の世界にあることが耐えられないのだ。繋がるとは言語によって意味付けされることであり、つねに世界と繋がっていなければ生きていけない人間にとって、繋がるとは単純に並置されて繋がるのではなく、言葉によってものとの関係を配置し直し、修復しなければならない。
一枚のフォーマットの中に構成されたものは、必然的に互いに関係を持っているわけではない。フォーマットの中に切り取られたことで、互いが何らかの関係を持っているように見えるだけで、そこには何の関係も発生していない。フォーマットの中に切り取られたもの達は、たまたまそう切り取られただけで、必然的に切り取られたわけではない。必然性があるように見えるのは、それらのものがフォーマットの中に存在しているからそう見えるだけであり、何か意味があって選ばれたのではなく、フォーマットの存在によってそう見えるだけなのだ。必然性とはフォーマットが作ったフィクションでしかない。
写真に写されたものは、天国の門を通り抜けるような、厳しい精査を基に選ばれたものもあれば、恣意的に無責任に選ばれた、それは選ばれたという特権性とは縁遠い、無責任な偶然性で選ばれたものも存在する。厳密なフレーミングで撮られたものや、適当にどこかに向けてシャッターを切った写真も、それが額というフォーマットの中に収まればそれなりに同じように見えるのは、どんなものでも整って見せてしまうフォーマットの政治性なのではないだろうか。写真に作家的な主体性が成立しづらいのは、写真家の主体的な選択が写真の良し悪しを決めるのではなく、フォーマットという存在がすでに写真の良し悪しを決定しているところだろう。
写されたものの構成技術を写真家が声高に叫ぶのは、写真における作家的主体の不在と世界は無関係にモノが隣接しているだけだという世界の無秩序を隠蔽するためであり、写真における構成技術というのは、無関係に隣接されたモノを、いかにも関係があるように、繋がっているかのように見せるためのテクニックにしかすぎない。それは世界の本質的な無秩序性と恣意性を覆い隠すために発動される。構成技術は写されたものを秩序の中に再構成するだろう。画面に写った中心物をよく見せるためにそれ以外に写ってしまったものは背景として使われ、背景と中心物という階層関係が偽造される。写ってしまった背景は、けれど本当に中心と背景という非対称的な関係に収斂されるだろうか。むしろ写真は背景を中心から切り離し、中心を補足する背景ではなく、中心が存在しない背景に変容させるのではないだろうか。中心物の存在しない背景。それは互いが関連付けられないバラバラのものとして現れるだろう。中心と背景という関係は、人間の認識によって生み出された配置でしかなく、カメラはそのような肉眼の秩序をもう一度リセットする。写されたすべてのものは背景であり、背景こそが写真にとっての中心なのだ。そのような背景は、わたしと背景という関係ではない。わたしを基点にして現れる背景ではなく、わたしという基点が喪失された場所で成り立つ背景なのではないだろうか。わたしが見ていなくても成り立つのが写真の背景であり、わたしがそこにいないことで写真の背景は成立する。わたしの存在がそこから除外されること。例えば地図が測量者の存在をそこから抹消するように、わたしが除外されることが写真の背景を成立させるのに一番重要な要素になるだろう。写真にとって不必要なものは、わたしの存在なのだ。
写真は写したもの同士を関連付けない。ものがただ隣接されるだけで、それは接続詞のように“構成要素同士の関係”を示すものではなく、無限に隣接を続けるためにある。無関係なもの同士を隣接し続ける作業は、モンタージュとは無関係なもの同士を隣接させることだというゴダールのモンタージュ論に近く、それは写されたものを無限に羅列し続けたいという写真家の増殖に対する欲望を表しているのではないだろうか。写真家が微妙にカットを変えて写し続けるのは、撮る角度を少し変えることで違うものが現れることへの驚きであり、世界を無限に切り取ることができる撮影には終わりが存在しない。シャッターを切る度に、もう一つの可能性を指し示し続ける。撮られていないもう一枚の写真が撮るごとに夢想される。撮ったものではなく、撮られなかった写真。撮ることは不在としての写真を量産するだろう。撮られなかったもう一枚の写真という不在が写真家を無限の世界に引きずり込む。 わたしがそれを撮ったのはたまたまの出来事でしかなく、そこに対象の必然的な出会いもないし、わたしの深層意識が無意識に選んだわけでもない。無限に切り取られたショットを展示で恣意的に隣接させることで、現実世界の因果関係からものを切り離す。写真はものをどことも関連付けられないものとして増殖させることであり、関係の体系の中にものを閉じ込めるのではなく、互いが互いを関係付け合うという関係の地獄からものを解放するためにある。
写真は“見る/見られる”という関係で語られやすいのは、カメラと被写体の関係が“見る/見られる”という関係の枠組みによく似ているからだろう。写真の場合はただ、写真家-カメラ-被写体という三項の関係によって成り立っていて、写真家がカメラを持って被写体に接するとき、最初に現れるのは、被写体そのものではなく、ファインダーの中のイメージとして現れる。それはファインダーを通した被写体であり、生身の被写体とファインダーの中の被写体というように、被写体が二重化された状態で認識される。写真家の視線というのは、“見る/見られる”という単純な二項関係ではないし、一人の視線が、一つの対象を見つめるというのでもない。被写体が二重化された状態で現れるとき、被写体の視線もまた単体としての写真家だけを見ているのでもない。写真家の視線とレンズの視線というように、見られる被写体の視線もまた二重化された状態で現れる。それは視線の複数化であり、単一な視線同士が織りなす“見る/見られる”が、“見る”わたしの自己同一性を保全しているのなら、視線の二重化は“見る”ことの自己同一性に疑問を投げかけるのではないだろうか。それを見ている根拠はわたしなのだろうか。わたしがそれを見ているといえるのだろうか。それは本当にわたしが見ているのだろうか。
わたしが見ているのではなく、わたし以外のものが見ている。わたしの視線に重なるようにしてカメラの視線がそこに導入される。わたしであってわたしでないものが対象を見ている。写真がわたし達を不安にさせるのは、本当にわたしだけが見ているのかという不安が惹起されるからではないだろうか。本当はわたしが見ているのではなく、わたしの視線に寄り添うように重なるカメラという機械が見ているのではないか、わたしは本当に見ているのかという、わたしの視線の消滅を感じさせるのが写真の視線なのではないかと思う。
カメラは“見る”という意思を持っていない。カメラはレンズの方向を向ければただそれを写すだけで、そこには対象を見るという意思は持っていない。カメラはだから人間的な意味で“見る”ことができない。カメラは何も見ていない。カメラとは盲目なのだ。“見る/見られる”という関係の中にカメラという盲目の視線が導入される。盲目としてのカメラの視線は対象と関係を結ぼうという意思を放棄した視線であり、肉眼の視線が対象と自分を関係付けようとする視線なら、関係を放棄した視線というのは、対象を見ているのではない。そして関係というのが見ることで始まるのなら、見ることのできないカメラは対象と関係を持つことができない。対象はだから無意味なものとしてカメラの前に現れる。カメラを向けることはだから対象と関係を持つことでも、わたしという人称が対象を見ることでもない。盲目の視線という何も見ていないものが見るカメラの視線は、誰の視線でもない、不在の視線が導入される。それは人間以外の非人称の何かが見ているということではないだろうか。
“見る/見られる”という関係が、対象を石に変質させるメデューサの神話や、他者とは地獄だというサルトルの例に例えられるなら、視線の関係は、人間とモノという非対称的な関係から逸脱することができないだろう。視線の関係があくまでも主体と客体の関係を超えることができず、主体は主体として同定化されるのに対して、非人称としてのカメラの出現は、ファインダーを覗いている写真家の主体の位置を脅かすだろう。ファインダーを覗くというのは、対象を見るためではなく、対象を“見る/見られる”という関係から逸脱するために覗かれる。ファインダーを覗くことは、“見る”というよりも没入する行為に近い。“見る”というのは、あくまでも見る自分はそこに存在していることが前提であり、それは“見る/見られる”という二項の関係が固定され、維持されているのに対して、“没入”は“見る”自分が対象の中に消えていく。自分が見ているのではなく、見るという位置から自分が消えていく。ファインダーを覗くことは、“わたしが見ている”という、わたしという主体の位置を消去することであり、それは誰が見ているのかの“誰”という主体を消滅させ、誰も見ていない、何もないものが見ているという不在の視線を発見するだろう。
金村修

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