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Statements / 2017年3期7月10日〜9月11日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2017_03
ステートメント
異質なショット同士をつなげることが編集だとゴダールがいっていた。異質なショット同士をスムーズにつなげるために、各自のショットを均質化することが編集だとそれはいっているのではなく、異質なショット同士をスムーズにつなげるために、物語を進行させるための歯車のようなショットに変質させる。それはショットの均一化であり、あるショットだけが特出することを許さない。ショットは物語という全体に奉仕するための部分だから、部分としてのショットが特出し過ぎると、全体としての物語の進行を破壊してしまう。
異質なショット同士をつなげるゴダール的な編集方法は、物語を効率良く進行させるためではなく、むしろ物語の効率的な進行を妨害する。効率よく進んでいるかのように見えるウイリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト3』に突然現れる、1分以上続く病院の誰もいない廊下をただ映しているだけのショット。それはせっかく順調に進んでいた物語の進行を脱臼させるようなショットだった。けれど映画にはそのような物語の効率的進行をひっくり返すようなショットが必要なのだと思う。そのようなショットがなければ映像はたんにリアルな紙芝居でしかないだろうし、映像というのはそもそも何かを説明するためにあるのではなく、それ自体で自立しているものであり、ショットもまた物語とつながることで存在するのではなく、それ自体として存在する。ショットは物語という全体に対する部分として存在しているのではない。
ショットそれ自体では、価値を表出することができないのだろうか。物語的な関係の網の中に置かれることでしかショットは、価値を表すことができないのだろうか。ショットAの価値は、次につながるショットBによってその価値を表出することができる。そしてショットBは、次のショットCによって価値を表出することができるように、物語的な関係の網の中でしか己の価値を表出できないショットは、相対的な価値形態でしかないだろう。相対化されたショットを、物語的関係が最終的に各自のショットに価値を与える。物語的な関係がショットの存在よりも先行する。ショットは関係の網の中に回収される。けれど鈴木清順の撮るショットは、そのような物語的な関係から回収しきれない過剰さを孕んでいるようにみえる。ショットに価値を与える物語的関係に回収しきれないショットは、無価値な存在でしかないのだろうか。それはむしろショットが物語的関係よりも先行して存在するのであり、物語的な関係とは次元が違うショット同士の関係が存在する。
鈴木清順に代表される異質なショット同士が独立して、勝手につながっているような編集は、物語をスムーズに進行させるための編集を破綻させるだろう。つながらないショットが無理矢理つながれることで、ギクシャクした感じを与える。そんなつなぎ間違い的な破綻が映像のあちこちに現れる。異質なショット同士がスムーズにつながっているように見える映像は所詮、互いの異質性が排除された結果なのだ。そんな均一化されたものよりも変調をきたす寸前の鈴木清順の映像や、物語が直線的に進む時間を放棄し、時間がゆっくりと遅滞していくようなマルグリット・デュラスの映像。それらはショットが物語的につながることを求めないし、各自のショットが交わることもない。ショットAは、ショットBをより効果的に見せるために存在しているわけではない。ショットに階層は存在しない。
相撲と野球が互いのルールのままで試合に臨んだら、その試合は絶対に成り立たないように、異質なものをつなげるというのは、相撲と野球をつなげるような破綻が必要とされるだろう。異質なショット同士を同じ土俵で出会わせるのではなく、共通の土俵が存在しない場所で出会わせる。鈴木清順の『けんかえれじぃ』での、カフェで必然性もなく出会う高橋英樹が演じる南部麒六と緑川宏が演じる北一輝のように、共有するコードのない場所で異質なショット同士がつながることは可能なのだろうか。北一輝と南部麒六にはなんの共通項も存在しない。相撲と野球の出会いのような二人の出会いを、鈴木清順はなんの共通項もなくつなげてしまう。それはつながることの不可能性を表出する編集なのではないだろうか。
貨幣システムには、交換不可能なものというのは存在しない。交換不可能なものは貨幣システムの外部に存在するものであり、そのような外部は貨幣システムには存在しない。貨幣システムにとって外部というのは、交換が可能になることを前提にした外部のことであり、けれどそんな交換可能な外部を、わたし達は本当に外部だと呼べるだろうか。
交換不可能な外部を排除することで貨幣システムが成り立つように、通常の編集も物語のシステムに回収できないショットはそこから排除される。システムの外部は存在しない。そこには交換不可能なものや、つなげられないものが存在しないように、すべてのものはシステムがスムーズに動くように均一化される。つながらないこと肯定する鈴木清順のショットは、物語的なシステムに回収されない外部として現れる。
貨幣はすべてのものを交換可能なものに変質させる。貨幣システムにとって交換不可能なものは存在しない。一般的等価物としての貨幣は、世界中のあらゆる未知のものを相対的等価形態に変質させ、価値を授けるのだから、貨幣に交換されないものは、価値がないものとしてシステムに存在することができない。あらゆるものを交換可能な商品に変質させる貨幣システムは、世界を交換可能なシステム体系の中に閉じ込めるだろう。
けれど本当に貨幣システムに外部は存在しないのだろうか。世界には交換不可能な外部のものが存在するように、映像にも絶対につながらないショットが存在する。映像の編集技法は、あらゆるショットはつながるというつながりの体系の中に閉じ込めることであり、鈴木清順の編集はそのような貨幣的な体系を破壊する異質性を孕んでいる。
ショットの関係は等価ではない。ショット同士はもともと互いのために存在しているのではなく、独立した存在だ。相撲と野球を同じスポーツだということでそれらを一括りできるだろうか。相撲と野球がスポーツという枠組みの中で互いを比較評価できないように、ショット同士は比較評価が不可能な関係だ。比較不可能なショット同士がつながるとき、そこにスムーズなつなぎが必要だろうか。鈴木清順の『殺しの烙印』では宍戸錠と真理アンヌ、南原宏治の誰が殺し屋としてナンバーワンかと、序列化することができない複数の関係を序列化しようとする。比較不可能な殺し屋達の存在をナンバーワンという等級で比較、序列化しようとする物語の要請に対して、宍戸錠と真理アンヌ、南原宏治の関係は相撲と野球の関係のようであり、その関係は数値化できない比較不可能な関係だ。誰がナンバーワンかという物語の要請に、鈴木清順はつながらない編集で応える。宍戸錠と真理アンヌ、南原宏治の序列化不可能な関係は、ショットの関係を序列化することができないという鈴木清順の映像観に基づくものだと思う。そのような序列化不可能なもの同士をつなげることができるのだろうか。つながらないものをつながらないものとして、鈴木清順は当たり前のように映像の中に提示する。
唐突に無人の廊下を1分くらい映した『エクソシスト3』。それは物語の進行を壊してまでも廊下を写したい欲望に忠実に従った結果だったのだろう。ショットを止めてみたい欲望が映像には存在する。つながれたショットがエンドマークに向かって直線的に流れる。そのような直線的な時間の流れの中に映像の欲望は存在しない。それは起承転結の物語が求める欲望であり、すばらしいショットが撮れたら、そのショットをその場に永遠に凍結させたいという静止の欲望が、映像の欲望なのではないだろうか。小川紳介の『100年刻みの時計・牧野村物語』の唯一の欠点は、エンドマークが最後に出て映像が終わってしまうことだという批判も、映像をいつまでも凍結させたいという静止の欲望から出たのだろう。
1/24秒に切り刻まれた映像の時間。映像は現実の動きや時間の流れを滑らかに再現することができない。1秒間を1/24秒毎に分割し、進んでいくという時間の流れが現実の世界にあるだろうか。映画用フィルムでは1秒の時間を成立させるには、24コマの静止画像を必要とする。1秒間に24コマの静止画像が反復される。1秒間に24コマの静止画像が動くという映像の時間は、止まっているものが動く、すべての動いているものは止まっているという「ゼノンの飛んでいる矢」に似ている。そしてそのような時間の動きが、現実の時間の中に存在しているだろうか。
鈴木清順的な編集に根拠というものがあるのならそれは、つなぎが自然な動きに見えるということではなく、なるべく不自然に見えるということを根拠にしているのではないだろうか。ショットとショットの結合に滑らかさを与えないことが鈴木清順の編集なのだと思う。通常の編集は現実の自然さを準拠として、自然に流れるようにつなぐことを目的としているけれど、むしろ編集は不自然で現実的でないことの方が、映像的には自然のような気がする。『国民の創生』でのリリアン・ギッシュの映画史上初といわれるクローズアップは、前後のショットとつながっているわけではなかった。むしろそれはわざとらしいくらい不自然で、映像の流れを止めている感じさえ受ける。流れを止めてまで美しいものを見せたいというその写真に近い欲望を、物語の流れの中に無理矢理に導入したように感じる。滑らかにつながることよりもそのような欲望が先行する『国民の創生』。素晴らしいショットが撮れれば、つながらなくても構わないというところに映像の欲望が存在するような気がする。
映像は現実の動いているものをカメラで1秒間24コマに静止させ、静止させた画像を映写機でスタートさせるというストップとスタートのシステムでできている。そのようなシステムが映像にスタートとストップという動きと中断の欲望を形作ったのではないだろうか。写真が動きをストップさせるという現実の時間を中断させる欲望なら、映像はストップさせたものをスタートさせるというシステムが形作った欲望が存在する。現実の時間を静止させ、それを切り取り、映写機で現実の時間の流れとは違うものに変質させる。静止画としての1/24コマを映写機で動かすことで動きを与えられる映像は、静止画像というストップを含んだ持続だ。映像は静止画の集積であり、現実の動きをストップさせることを前提に映像の動きは成立する。止めることで動き、動いているけれど実は止まっている。「ゼノンの飛んでいる矢は止まっている」というそんなパラドックス的な欲望が映像を支配しているのだろうか。
映像の時間というのは中断を含んでいることであり、それは1/24秒毎に時間が断絶される。1/24秒毎に断絶された時間は、現実の持続の時間のようにつながらない。むしろつながらないことで、映像はつながっているように見える。1/24秒毎にジャンプし続ける映像の動きは、現実の動きと同期しない。けれど肉眼の動きもまた映像のように、1/24秒よりも細かくジャンプし続けているのではないだろうか。細か過ぎて脳にも理解できないくらいのジャンプを続けている。ものを見るときは、肉眼から脳に信号が伝わるときに知覚できないくらい小さいタイムラグが存在しているような気がする。視覚というのは基本的にジャンプカットでできているのかもしれない。本来ならつながっていない映像と人間の視覚の運動は似ているのではないだろうか。 「アクションの一致とは、ふたつのショットに渡ってひとつのアクションが生起している時に、そのアクションが滑らかに、時間的空間的ズレ(伊藤大輔の言葉を使えば「空隙」)が生まれないようにショットを繋げる編集上の技法である。アクションの一致は物語世界の時間的連続性を途切れさせない点でコンティニュイティーの確実さが生まれる」。(『「伊藤話術」とはなにか---伊藤大輔論序説』板倉史明)。ジョナス・メカスのぶつ切りされたような細かいショットのつなぎは、マイブリッジの走る馬の連続写真を思い出させるがマイブリッジの馬の整然とした動きよりも、ギクシャクしたズレを感じさせるメカスの映像の方がかえって連続性を感じさせる。メカスの映像が「物語世界の時間的連続性」とは違う時間的連続性を求めているからだろう。マキノ雅弘が撮る男女のラブシーンは、まるで踊っているかのように回り続ける。男女の動きが止まることで成立するラブシーンは、回り続けることで成立しなくなる。ラブシーンという恋愛を巡って動き続けていた男女の運動が成就する瞬間をマキノ雅弘はいつまでも遅滞させる。映像にとって動かないことは死ぬことだ。いつまでも回り続けるマキノ雅弘の編集は、「物語世界の時間的連続性」とは違う時間を感じさせる。マキノ雅弘のつなぎは現実の時間的連続性を参照しない。現実と違う映画だけの世界を参照にする。
それらしく見える、自然に見えるというのは、映画が積み上げてきた編集の歴史的な結果であって、クローズアップにしろ、切り返しにしろ、アクションつなぎにしろ、それは現実を模倣するためではなく、もう一つの現実を作り上げるための編集やテクニックだったのではないだろうか。放っておけばなんでも撮れてしまうカメラの無秩序さに、起承転結という時制を与えることで、とりあえず大多数の人間の支持を映画は得た。起承転結という時制の流れが人間の視覚にうまく適応したので、その方法が主流になっただけで、それは決して現実の忠実な模倣なのではない。現実を模倣するふりをすることで、映画はもうひとつの現実という要素を隠蔽してきた。映像の編集を決定する根拠は、現実の世界には存在しない。ある種のイメージ映像のように、人間の感覚に根拠を置くものでもない。アクションつなぎは、ショットを割ることで動きを滑らかに見せるけれど、その滑らかさは映像の世界の滑らかさであり、そこには現実の世界との断絶がある。むしろショットはつながらないことが基本であり、つながらないものがつながったかのように見えるのは、たんに人間のこころの動きが見た幻影なのではないだろうか。ショットはただそこに独立してあるだけで、どこにもつながらない。
映像に因果関係は存在しない。因果関係に回収されないものが映像のショットなのだ。個別のショットをつなげる編集が因果関係を前提にするのではないなら、編集は無限につなげることができるだろう。どれをつなげてもいいだろうし、そこに間違いは存在しない。編集とはだから無責任な跳躍であり、根拠のない断定なのだ。
アクションつなぎというアクションを自然に持続しているように見せる編集方法に対して、わたしの映像作品『Animals(For Garry Winogrand)』の編集は、ショットが自然に流れない。対立したショットは、対立したままつながれる。個別のショットが結合する根拠というものはなく、ばらばらなままつながれていく。映像というのは、もともと現実の世界をばらばらにすることだったのではないだろうか。カメラのフレームで現実を切り取ることは、秩序を持って構成された現実の世界を再構成し直す。つながっているように見える現実の世界を、恣意的につなぎ合わされたパッチワークの世界だったことを明らかにする。現実がパッチワーク的に構成された世界なら、映像もまたもう一つのパッチワーク化された世界なのだ。
盲目の人間がなにかの拍子で目が見えるようになったとき、世界は遠近法を欠いたノッペラボウのようなものに見えるらしい。遠くのものと近くのものの距離の識別ができず、すべてのものが迫ってくるように見える。ものが迫ってくるような恐怖感から自分を守るために、人間は肉眼で受けた情報を脳で遠近法的な秩序で構成し直す。そのような肉眼の遠近法的防御を欠いたカメラは、パンフォーカスという手前から遠くまでピントを合わせるという肉眼にはありえない視覚体験を人間に強要する。カメラの視覚は人間にとって脅威だ。それは人間の視覚の秩序を破壊し、遠くのものと近くのものが識別できなくなるという混沌の世界に現実を引き戻そうとするからだ。遠近の差異が棄却された世界では、人によってものの見え方がばらばらになり、そこに視覚の共通項が成立しなくなるだろう。
視覚の秩序が棄却されるということは、共通の視覚体験を共有することが不可能になる。誰がどのようにものを見ているのか予測や判断が成立しない。けれど元来映像はだれが画面のどこを注視しているのか予想ができないものだった。画面の背景を見ているのか、中心の人間の顔を見ているのか、それと手や足を見ているのか、ピントの合ったところか、合っていないところを見ているのか、人によってばらばらで、どこにも共通項がないのが映像だった。監督の意図をはっきりと伝えるために、クローズアップ技法や画面の中心に主題を持ち込むことで、観客にここを見ろという方法が確立される。けれどそれでも映像は監督の意図を裏切り続けるだろう。カメラは意図とは関係のないものを写しだす機械だ。
金村修

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