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Statements / 2017年1期1月9日〜3月13日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2017_01
ステートメント
動画『LIFE IS A GIFT』のタイトルは、新宿伊勢丹のクリスマス商戦のときのキャッチコピーから引用したもので、なぜそれをタイトルに引用したのかというと、“LIFE/生”は“GIFT/贈り物”であると謳うそのコピーに、本来なら交換も流通も商品化することも不可能なはずの“LIFE/生”を、“GIFT/贈り物”という商品に加工して流通させようとする資本主義社会に不気味さを感じたのが理由だった。
動画『LIFE IS A GIFT』は、わたし達の“LIFE/生”を囲む資本主義社会の風景を撮ったもので、劇映画のようにストーリー形式で成立しているのではなく、モニターの広告やショーウィンドウのショットを断片的につなぎ合わせることで成り立っている。それは劇映画が要請する直線的な時間として編集構成されているのではなく、あらゆるショットを入り組んだ形でコラージュ的な感覚で編集構成されている。あらゆるものを商品に転化させようとする資本主義社会の欲望を、動画『LIFE IS A GIFT』は引用とコラージュ的な編集の形式で映像化する。
資本主義社会にとってすべては商品であり、本来なら交換、流通不可能な生でさえも、それらを人的資源として商品化する。資本主義社会に生きるわたし達の生活空間は、人的資源をいつもプールしている仮置き場のような存在にすぎない。家庭というのは労働力再生産工場であり、新しく生まれてくる子供は労働力と新しい消費購買層として学校や商業施設などで組織し直されるだろう。テレビや路上の広告、デパートに代表される商業施設空間は資本主義社会にとって重要な教育空間だ。大量生産システムを基盤として成立する資本主義社会では、消費は美徳とされ、生産された商品を大量に消費することが強要される。大量生産された食べ物を消費させることで資本の側に剰余価値が発生する。そのため街頭では食品や料理の広告が溢れ返り、ブルジョワ階級の利益となるように、わたし達にいつまでも飽食することを資本主義社会は懇願する。
効率を追求するためにアウシュビッツ式システムを援用する食品工場。効率を優先させるそのシステムでは、空間を最大限に使うために動物を目一杯閉じ込め、体も動かせないぐらい狭苦しい小屋で飼育することになる。病気予防のために生まれたときから薬漬けで、短期間で太らせるために運動することを禁止される。それが利潤を上げるためのもっとも効率のいいシステムであり、そこから商品化された食品を今度は大量に消費させるために、飽食は美徳であることをメディアで喧伝する。大量生産システムとは商品が大量に消費されることで成り立つシステムであり、だから大量に生産された肉や卵や加工された食品を、病気になるまでわたし達は食べ続けなければならない。脂と砂糖の組み合わせは特に脳に強烈な刺激を与え、中毒症状を起こさせる。食事は身体の問題ではなく、脳の快楽の追求の場に変質する。それは麻薬の常用とどこが違うのだろう。
飽食の結果生まれた内臓疾患系の病気は、利潤追求のための格好のビジネスになる。資本主義社会は飽食=消費することで利潤を獲得し、その結果病気にさせることで更にそこでも利潤を追求する。資本主義社会の構造的な要因によって引き起こされた病気は、病院を産業として成立させ、そこに新たな剰余価値を発見するだろう。病気が原因で亡くなれば、今度は悲しみという感情を葬儀屋が商品化し遺族に消費させる。あらゆる感情は商品化されるのだ。資本の利潤追求の要請によって自分が病気になるまで大量生産システムの食品を嬉々としていつまでも食べ続けているその姿は、交換不可能な自らの生を、病院産業に剰余価値を生み出す人的資源として積極的に投げ出しているように見える。
わたし達の生活は、資本の力によって生産過程と消費過程の通路として貫かれている。わたし達の生活はすでに産業化され、それはアウシュビッツ式システムで飼育されている動物と同じであり、大量に過食し病気になることで資本の側に剰余価値を与え続ける。その姿は動物工場で殺され、食品にされることで剰余価値を産出する動物と変わらないのではないだろうか。資本の側から見れば、わたし達の生は剰余価値を生み出すための手段でしかないのだ。わたし達の生活は動物工場で飼育されている動物のように、資本によって組織されている。資本主義社会は剰余価値を生み出すための巨大な動物工場であり、わたし達の生や死はその動物工場の中の部品の一つでしかないだろう。
伊勢丹の『LIFE IS A GIFT』のコピーは、脅迫めいているように感じられる。わたし達の生は資本主義社会に与えられた生であり、資本の側から贈与されたその生は、彼らのつくったシステム環境の中でしか全うできないのではないだろうか。ゼンショウHDは会社のポリシーとして“ゼンショウーグループは原材料の調達から製造・加工、物流、販売までのすべてを自社の管理下で行う、ゼンショー独自のMMD(マス・マーチャンダイジング・システム)を構築し、これが経営の根幹を担っています。世界の200の国や地域にゼンショーのMMDをつくり、安全でおいしい食を世界中の人々が手軽に食べられるようにする。その活動を通じて世界から飢餓と貧困を撲滅し、人類に貢献することが、ゼンショーのグローバル展開です”と公言する。資本のグローバルシステムが産み出した飢餓や貧困を、グローバルシステムの力によって解決すると語る。街頭ではコンビニエンスストアが、“あなたの生活のお手伝い”や“町のお惣菜屋さん”や“あなたの台所”としてわたし達の生活空間の中に侵食してくる。ファーストフードやコンビニエンスストアなしでは、わたし達の生活はもう成り立たない。
資本主義はわたし達にとってすでにそれは超越的存在として機能している。わたし達の生は資本によって与えられたのだ。与えられた生は有無を言わせない絶対的な贈り物であり、超越的存在から与えられたその贈り物への返礼としてわたし達の贈与不可能な生を与える。旧約聖書のアブラハムが神に対して自分の息子イサクを捧げようとしたように、資本主義社会はわたし達に人身御供になることを要求するだろう。繰り返される飽食とその結果の通院は、すでに自らを人身御供として資本の神に捧げるための儀式なのだ。
戦争中の1942年に提出された労働党系貴族ウィリアム=ベヴァリッジ卿による『ベヴァリッジ報告』では、第一次世界大戦前の福祉制度を修正して健康保険と失業保険、老齢年金などについて、全国民を等しく対象とするよう求めた。けれどその要求はヒューマニズムからきたのではなく、挙国一致体制を国民に要求するための対価として提出されたのではないだろうか。そしてそのようなイギリスの福祉政策は、国民の意識を決定的に変化させたのではないだろうか。福祉サービスとの引き換えに挙国一致体制へ参加させるそのシステムは、わたし達の生を交換可能なものに変質させる。年金や福祉システムの向上は、挙国一致体制をもっとも重要な形で代表する兵役義務の恩恵として与えられたシステムなのではないだろうか。そのシステムは国家のために死ぬまたは働くという代償によってもたらされるシステムであり、福祉サービスと交換されるその生のあり方は、交換不可能な生を交換可能な存在に、“揺りかごから墓場まで”生を交換対象なものとしてブルジョワに差し出すことだ。
坂本九の『ジェシカ』のメロディーに合わせて、たくさんのプレゼントが世界中を廻るショーウィンドウでの映像は、伊勢丹が贈与不可能な生をまるでサンタクロースのように人々に与えるかのような映像だった。資本主義社会にとってすべては“GIFT/贈り物”であり、悲しみも怒りも贈り物として相対化される。3・11の震災は悲しみと国民の団結というコンテンツに変質させられ、それはすでにメロドラマとしてしか機能せず、原発というリアルな政治的問題は商品化不可能なゆえにそのドラマから排除される。復興は土木関連会社が利潤追求を更に推し進めるための絶好のビジネスチャンスだ。商品化とはすべてを相対化することであり、あらゆるものはコンテンツの一つに成り下がる。文化多元主義がその足元の土台である近代的イデオロギーを疑わないことで破綻したように、資本主義体制を肯定した上での文化の多元性を主張することは、文化をコンテンツへと収斂させ、それは商品化と流通を促進するだけだろう。交換不可能な悲しみが、交換可能な商品に変質されていく。資本主義社会社会はわたし達に交換や贈与が不可能な生を金銭で交換させるのだ。
飢饉状態の50年代の中国で毛沢東は食料をロシアに差し出し、三千万人以上の人間を餓死させてもミサイルとの取引を強行した。彼は近代兵器を手に入れるためなら、人間の生命を差し出すことに何のためらいも持たない。彼にとって人間は交換のための貨幣でしかないのだろう。毛沢東主義とは革命の継続という名のアンチ・ヒューマニズムであり、すべての人間の抹殺を目論む破滅と憎悪の思想なのではないだろうか。核戦争で中国の人口が半分に減っても構わないとか、アメリカの原爆は張子の虎であるとか、宇宙の視点から見れば核戦争における大量の犠牲者の数は大した数ではないと語るのは、革命が成就するなら世界が滅亡しても構わないと思っているように感じる。毛沢東にとってプロレタリアートの解放とは、プレタリアートの絶滅なのだ。彼の革命観は人民の解放ではなく、世界を道連れにして破滅したいという死の衝動が発現されたものなのではないだろうか。
資本主義社会が人間を数値化することで利潤を追求するのなら、毛沢東主義は破滅することのみを目的とする思想にみえる。林彪の人海戦術論や文化大革命での有名なスローガン“人間はみんな死ぬ”。そこにあるのは人間の生に対する無意識的な憎悪であり、資本主義社会のように人間を人的資源として工業化していくのではなく、それは憎しみと闘争状態に人間をつねに置いておこうというイデオロギーのように感じる。
毛沢東に限らず共産主義者は、階級敵というスローガンを重用する。彼らに言わせると階級の敵はいたるところに出現するので、社会主義政権が成立した後でも敵の存在は不滅であり、階級敵の摘発に警戒をおこたってはいけないと語る。コルホーズの失敗によって飢饉が発生した農村で誰も食べることができない環境でも、階級敵としての豪農の存在が摘発される。毛沢東にとって敵の存在は重要な存在なのだ。敵がいなければ歴史は進行しない。敵と争い続けることが毛沢東の唯物論的弁証法なら、敵がいなくなれば敵をつくり続ける。
毛沢東は贈り物としての敵を人民に与えるだろう。彼の言う永久革命とは、死ぬまで敵と戦うことであり、敵は無限に増え続ける。なぜならそれはつねにつくり出されるものだからだ。共産主義者にとって“LIFE/生”は敵と戦うことであり、“GIFT/贈り物”とは敵の存在なのだ。共産主義の内実はだから自己が決定するのではなく、敵が決定する。資本主義社会における“LIFE/生”の存在を“GIFT/贈り物”としての商品が決定するように、彼らの“LIFE/生”は“GIFT/贈り物”としての敵の存在によって決定される。
連合赤軍事件をみれば分かるように、共産主義者はいたるところに敵を見つけ続けるだろう。口紅の使用一つで反革命の烙印を押す連合赤軍兵士にとって、世界はスパイの巣窟であり、彼らにとって本当の敵はブルジョワではなく、共に戦っている同士と解放すべき人民なのだ。精神病院の存在が、すべての人間が潜在的に精神病であることを発見したように、革命はあらゆる人間を反動のスパイであるという事実を発見する。ナチスが敵と味方の領域を厳密に峻別したのに対して、共産主義者にとっての味方とはすべて潜在的な敵であり、彼らには敵味方の境界線を確定することができない。
資本主義社会が日常を祝祭化したように、共産主義者にとっても日常は祝祭に変質される。商品という幻影が現実化され、商品イメージと現実の境がなくなる資本主義社会と同じように、幻影としての敵がリアルな存在として現実化される共産主義社会では、敵との日々の闘争、摘発がイデオロギーと現実の区別を無化させるだろう。日常生活に商品のイメージが侵入し続けることで日常が祝祭化されるように、日常に敵がつねに侵入し続けるというイデオロギーが、日常生活を戦場に変質させる。壁に描かれたスローガンと声高に叫ばれるプロパガンダ。スピーカーから流れる革命歌に囲まれた日常。親兄弟友人恋人すべてが敵に密通しているのではないかという疑惑が、日常に敵の存在がつねに侵入し続けているという幻影をリアルなものにし、日常を敵との闘争という祝祭に変質させるだろう。
スターリン式監視システムは上から下への監視だけではなく、下から上、または横同士の相互点検のシステムであり、すべての人間を不安に追い込むのを目的とする監視システムだ。誰が見ているか分からない。けれど確実に誰かに見られているという意識を日常的に維持させる。内部人民委員に抜擢される人間を、スターリンは一部のエリートだけではなく、下層階級出身者も加えるのは、エリート層に自分が摘発される危機を日常的に意識させるためだ。上層部の視線と下層階級の視線がそこでは対立し合い、対立は互いの存在を敵として認識させる。敵の存在が対立を熱狂に、祝祭に変質させる。文化大革命における吊るし上げ、人民裁判がなぜあのような熱狂を生んだのかといえば、革命において敵の発見と摘発は対立と矛盾の発現であり、二つの矛盾する要因がぶつかり合うことで摘発は熱狂を帯び、それが吊るし上げや人民裁判を祝祭の場に変質させる。
上層部の摘発が厳しければ厳しいほど、下層からの摘発は熱狂的な祝祭として現れる。それは憎悪を維持し続けさせ、憎悪を祝祭に転化される。それがスターリン式の監視システムなのだ。毛沢東が革命は暴動だというのは、それが祝祭だからであり、地主を暴行し殺害する貧農の行動を賞賛したのは、革命はつねにやり過ぎてしまう過剰な祝祭として現れることを要求する。革命下における民衆の日常は、敵の摘発、粛清という祝祭の日々を強要されるだろう。資本主義社会の祝祭が商品イメージへの熱狂なら、共産主義社会の祝祭は流血への熱狂として現れる。 毛沢東の弁証法に対する考えは、二つのものが一つになるのではなく、一つのものをつねに二つに分裂させる一分為二理論として表現される。社会は静止状態ではなく、エンジンのように動き続けている動的状態であり、動き続けるための要因を矛盾する二つの要素の対立状態に求めるため、つねに対立状態をつくり続けなければならい。文化大革命時に反動分子や国民党のスパイ、米帝の走狗を摘発し続けたのも、それが本当に存在したというよりも、そのような存在を毛沢東が必要としたのであり、一を二に分割するという毛沢東の理論は、つねに敵の存在を要求する。毛沢東の理論はロシア皇帝の暗殺をロシア皇帝直属の秘密警察が指導していたというサヴィンコフの『蒼ざめた馬』と似ているのではないだろうか。敵はいつもつくられる。
毛沢東に敵と味方という境界線を引くことができるのだろうか。彼の中で敵と味方という概念はすでに破棄されているのではないだろうか。敵は味方であり、味方はつねに敵であるというその状態は、敵と味方が互いにそのシステムを支えているので、誰が敵で味方なのか誰も確定することができない。敵と味方の境界線は流動化される。固定された領域はなく、誰が敵か味方を決定する選択機能がそこでは失調状態に陥る。敵か味方かを確定することができない、選択と確定の不可能性。共産主義者にとって主体的な敵味方の選択がそこには存在しない。スパイ摘発の英雄として天安門で毛沢東に激励された人間が次の日にはスパイだということで牢獄に入れられたエピソードは、敵か味方という選択とその確定は毛沢東にも決定できないことの証明なのだ。それは不条理の彼方から来る。理解できない恩寵のような突然の贈り物とし決定される。
贈り物というのはいつも突然にやって来る思いもよらない一撃なのではないだろうか。例えば生命というのは望んで得られたものではなく、突然やって来るものであり、気がついたときにはすでに生きている。それは不条理の彼方から送られてきた贈り物だ。贈り物である生命は、けれどそれは決してありがたいものでも、好きで選んだものでもない。それはもっと受動的な出来事であり、要するに好きで生まれきたわけではない。好むも好まぬも関係なくそれは突然送りつけられる。贈り物とはつねに強制であり、選択の自由もなく突然やって来る。拒否する選択肢はあらかじめ禁止されている。
金村修

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