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Statements / 2016年4期10月10日〜12月12日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2016_04
ステートメント
『テロルの回路』の著者、松田政夫によると、革命歌『インターナショナル』の出だしの歌詞、“立て 飢えたる者よ”は、誤訳に近い翻訳であって、“立て 地に呪われた者よ”が歌詞の正しい翻訳だと書いている。
“餓えたる者”の問題を身体の問題だけで考えてみれば、胃袋の欲求が満たされれば問題は解決される。“餓えたる者”の問題は、生産物の公平な分配という経済システムの改善で問題は解決されるだろう。けれど“餓えたる者”の存在は、そのような経済改良主義では解決できない問題を孕んでいるのではないだろうか。“餓えたる者”の存在は、“地に呪われた者”と同様の存在だという翻訳者の意識的な誤訳かもしれない。“餓えたる者”の問題が、資本主義システムがもたらす必然的な帰結なら、“餓えたる者”は、“地に呪われた者”と同様の解決できない問題を抱えた存在なのではないだろうか。
“地に呪われた者”が先天的に大地から呪われている存在なら、“餓えたる者”とは、システムによって生み出される“餓え”を先天的に強制される存在だ。それは一部の限られた人間だけが飢えるのではなく、先天的に“餓え”を生み出す資本主義システムは、システムを構成するすべての成員に、その“飢え”を強制するだろう。資本主義のシステムが、“餓えたる者”を必然的に生み出すシステムなら、“餓え”という呪いは、すでにそのシステムに住んでいる成員の無意識化に先天的に刻印されていることになる。
資本主義システムに関与しているすべての成員が“餓えたる者”や“地に呪われた者”になるのか。“餓えたる者”や“地に呪われた者”を追放する側になるのか。彼らの居場所は、天国になのか、地獄なのか。それは誰にも確定できない。システムの恣意的な発動によってその位置が確定されるのであって、その立場はつねに揺れ動き続ける。
システムの恣意的な操作によってある場所が天国か地獄かに揺れ動く、そのいい例が、サイクス=ピコ協定によるオスマン帝国への恣意的ででたらめな国境線の分割だろう。イギリス、フランス、ロシアによる中近東の資源をめぐる秘密協定が、中近東をその後、地獄の場所に変質させることを誰が予測できただろう。帝国主義国家によるオスマン帝国の恣意的な国境線の分割は、資源の獲得を目論む資本主義システムの必然的な一つの帰結であり、ブルジョワは自らの利益のためには、そこに住んでいる人間、民族、歴史の存在を公然と棄却する。イスラエルの国家戦略と、中近東におけるイスラエルの政治的な重要さを認識した欧米諸国によって、パレスチナに住むアラブ人が追放されたように、資本主義システムの中では、誰もが“餓えたる者”や“地に呪われた者”になり得るだろうし、どの場所も地獄に変質する可能性を抱え込んでいる。
『インターナショナル』では、プロレタリア階級の存在が“地に呪われた者”として定義されている。“地に呪われた者”は、生まれたときから災厄の刻印を押された者であって、プロレタリア階級が“地に呪われた者”とのアナロジーで語られるのは、経済問題や所有関係だけでは解決できない災厄のような何かが、階級の無意識化に存在しているからではないだろうか。プロレタリア階級は、だから“地に呪われた者”として定義されたのではないだろうか。
『インターナショナル』で“地に呪われた者”と歌われるのは、資本のシステムに内在化され、市民化されたプロレタリア階級のことではなく、そのシステムの外部に存在する人間だ。プロレタリア階級というのは、社会システムの内部ではなく、外部の人間として、希望のない不毛な荒野のような存在として、『インターナショナル』では、認識されていたのかもしれない。
不毛な荒野のような存在に、帰る場所がどこにあるだろう。プロレタリア階級が先天的に災いの刻印を押された階級であるということは、生まれた土地から追放されることを余儀なくされる階級であり、彼らの帰るべき場所はどこにもない。
“地に呪われた者”にとって、土地という、人格を形成する上で重要な場所との関係が、最初から敵対的な関係として現れる。“精神は普遍を目指し、けれどそれはローカルな場所に帰属する”なら、彼らの精神にとって帰属すべき場所は、敵対的な関係として現れる。最初から呪われ、敵対され、追放される場所に、精神が帰属しなければならないのなら、プロレタリア階級の精神には、呪いという原罪の刻印が先天的に押されているのではないだろうか。
わたしを形成し、育成するべき場所が、わたしを呪っているなら、“この国で黒人であること、それを意識するということは、ほとんどいつも激怒しているということだ”とアメリカの黒人小説家ジェムズ・ボールドウィンが言ったように、 わたしは世界と親和的な関係を持つことができない。場所は敵意に満ちた空間として現れる。精神が場所に帰属するのなら、“地に呪われた者”の精神は、敵意と悪意に囲まれた空間に帰属する。それ以外の場所が、彼らには存在しない。
社会が敵対的な場所として現れるなら、わたしにとって、自分の存在もまた敵対的なものとして現れるだろう。在日であるジョニー大倉が、“なんで自分みたいな人間を産んだんだ”と子供時代にいつも親に叫んでいたように、在日として生まれたという事実が、自分ではどうにもできない原罪としてわたしの前に現れる。
だからわたしは、わたしに苛立ち、わたしの中でわたしと折合いをつけることができない。ジョニー大倉が何度も自殺未遂を試みたのは、わたしの存在がわたしにとって、とても不条理な存在だからだ。生まれてきたという事実を、選択できない不条理な事実として受け入らざるをえないのが“地に呪われた者”なのだ。
ジョニー大倉にとって父親が突然暴れ、“なんで俺はここにいるんだ”と叫び始めるのが、毎日の家族の食卓における夕食の始まりだった。なぜここにいるのか。それは誰にも分からない。原罪とはだから理不尽であり、それは突然向こう側から取り憑く。けれどそれは偶然取り憑いたわけでも、たまたま運が悪かったわけでもない。資本主義システムの必然的な一つの帰結として、彼の父親にそれが取り憑いたのだ。
世界は理不尽な事態で溢れている。理不尽な暴力に襲われることが、例えばアメリカに住む黒人にとっては、日常的な出来事として定着している。アメリカの南部地区では、角を曲がる度に白人が待ち伏せして襲われるのではないかという恐怖のために、道を歩くのに、呼吸をひそめて歩くような感覚がいつのまにか常態化してしまうとある黒人作家は書いていた。なぜそのような暴力に晒されるのか。それは黒人が黒人であるからという意味以外に何もなく、黒=悪という根拠のない原罪を、黒人は日々強制されている。
それは知識がない人間達のたんなる偏見なのだろうか。白人の偏見を教育によって取り除けば問題は解決されるのだろうか。黒人が黒人であるだけで悪であり、それは決して償うことのできない負債だという幻想は、無教養な個人による偏見ではなく、資本主義社会のシステムが与える偏見なのだ。資本主義社会のシステムは、そのような偏見を必要とする。例えば資本の本源的蓄積時代としての南部アメリカの奴隷制社会。その奴隷システムを維持するのに必要なのは、黒人とは“地に呪われた”悪魔だという偏見であり、そのような偏見が彼らを奴隷としてアフリカから連れてきて、ただ同然で働かせ、いつまでも搾取し続けることを正当化する。資本主義社会のシステムは、そのような偏見を必要とし、剰余価値のさらなる追求のためにその偏見を助長させる。
資本主義システムは、外部をつねに内部化する運動であり、黒人という外部の存在を労働資源という形で加工し、奴隷化し、労働力として内部化するためには、偏見が必要とされるだろう。資本主義は、すべての対象を資源化する。それは例外なく遂行され、人間であってもそれは例外の対象になりえない。人間を人間ではなく、一つの資源として加工、変質させる正当な理由付けとして、アメリカの白人は神に選ばれた民族であり、黒人は呪われた悪魔の種族だから、彼らをわたし達の利益のために奴隷化するのは神の摂理だという偏見が必要になる。
土地に呪われた人間には、帰るべき土地=共同体が存在しない。農民が土地という共同体に根付いているのに対して、土地から追放されたプロレタリア階級は、農民のように守るべき何かがない。“失うものは鉄鎖”だけという彼らにとって、“鉄鎖”を破壊することだけが、己のアイデンティティーの表明なのだ。破壊によってしか自己を表明することができない彼らにとって、唯一の表現方法が暴動であり、暴力によってしか自己の存在を証明できない階級が、プロレタリアートなのだ。
なぜ彼らが、住んでいた土地から追い出されなければならないのか。重工業社会に生産体制を転化した社会に必要なのは、最新のフォード式大量生産システムで働ける労働力であり、生産体制の変更によって利潤を生まない存在として見捨てられた農民が、都市に流れ込み、プロレタリアートに変貌していく。農民として生きていけなくなった彼らが、安価な労働力として、資本主義社会の労働市場に登場する。彼らが土地から追い出され、都市の工場システムに流れ着くかしか他に道がないのは、重工業を中心にすえた産業資本主義システムの必然的な帰結なのだ。労働力の流動化は、労働コストの削減になるため、彼らを土地から追い出し、死ぬまで流浪の生き方を強いる。
資本の本源的蓄積という資本主義の原罪が、彼らを土地から強制的に切り離し、流浪化させる。資本主義の原罪が、彼らを“地に呪われた”悪魔に変質させるだろう。土地から切り離された彼らは犠牲者でありながら、彼らの自己責任で土地から切り離されたように語られる。
電気使用量の増加は、高度に発達した資本主義社会の要請であり、更なる電力増産を進めるための福島への原子力発電所の設置だった。社会の要請で設置された原子力発電所の事故によって、被爆した福島県民は離散し、流動化されるか、誰も被爆した人はいなかったかのように無視され、土木資材や労働力は福島の復興ではなく、東京オリンピックの準備に優先的に使用される。
広島で演説したオバマ大統領は、原爆をアメリカの軍事行動ではなく、空から突然降ってきた悲劇というような美学に転化させた。福島の被爆を同情と憐憫と、国民の団結の象徴の対象として扱うことで、ブルジョワは資本主義社会の矛盾を、“がんばれ福島”というメロドラマの美学によって覆い隠し、その美学をさらに商品として消費し続けるだろう。彼らは国土の破壊でさえ、それを商品として流通させる。被爆した福島を新しい悲劇の商品としてラッピングし、日本中のあらゆる場所に無数の“がんばれ福島”の標語が現われることで、福島は団結を象徴する商品として消費され続ける。
帝国主義戦争の結果としての広島への原爆投下は、シェークピアの悲劇か、イヨネスコの不条理劇かのように語られ、電力増産という資本主義の上部構造を支え続けた福島が、“がんばれ福島”という同情と憐憫によってメロドラマ化される。国内に立ち入り禁止区域が存在するという事実は、災厄が現前化されたことであり、土地が“呪われた部分”として可視化されているにもかかわらず、メロドラマの対象に変質させることで、資本システムの必然性が生んだ破滅的な事態が、美しいけれど空虚な言説に覆い隠される。
呪いを除去することはできないだろうが、呪いを鎮めることができるのだろうか。“地に呪われた者”の呪いは、一つの過剰であり、市民という社会システムの内部でその呪いを回収し、浄化させることは不可能なのではないだろうか。
プロレタリア階級は、市民社会の外部に位置し、その姿は富裕層や市民階級には見えない存在だ。彼ら“地に呪われた”プロレタリア階級は、エンゲルスの『十九世紀イギリスの労働者階級の実態』によると、病院にも行けず、教育も受けられず、その存在は市民社会から忌み嫌われ、ゴミのように扱われるか、そこに人間として存在していないかのように扱われるという。“アメリカにおける黒人は、透明人間のように扱われている”ように、それは忌み嫌われ、そばに寄っただけで何か災に取り憑かれるかのように対処される。
プロレタリア階級は最終的には、市民社会と敵対するだろう。彼らプロレタリアートは外側の人間であり、市民社会が理解する人間のルールに合致しない存在なのだ。エンゲルスによれば、朝から酒を飲み、賭博に熱中し、ミルクの代わりにジンを子供に与える彼らの常識は、市民から見れば家畜以下のモラルでしかない。産業資本主義を基底から支えるプロレタリアートは、市民社会から見れば調教されていない動物であり、劣等の存在として理解される。
いち早く近代化した日本では、東南アジアの有色人種は不合理な迷信を信仰する未開の人種であるため、畜生並の労働力として扱って良い存在となるだろう。朝鮮人は不逞鮮人、中国人は不逞支那人というように、基幹産業の重要な労働力として連れてこられた彼らは、つねに調教されていない動物か、劣等民族としてしか扱われない。劣った民族の存在を国内や国外に作ることで、欧米社会から遅れている意識を持った日本人のコンプレックスを緩和する。同じ東アジアの一員だという意識が、もう東アジアの一員ではないというもう一つの意識を呼び起こし、東アジアの中で特別な位置を獲得するために中国や朝鮮に対する差別意識が生まれるだろう。
資本主義社会では、己のアイデンティティーを数値以外に確認できない。あらゆる人間の人格や本質を、金銭という数値に転化する資本主義社会で、己のアイデンティティーに特別な価値を付加するために、差別が手軽な手段として利用される。あなたは時給九百円の価値しか持たない人間、けれどあなたは不逞人ではなく、日本人だという価値を、差別というシステムがあなたに与える。時給九百円という数値の中で相対的にしか存在しなかったあなたのアイデンティティーに、日本人であるという絶対的な価値が付加される。
日本人が、朝鮮人や中国人より優秀だという根拠は何もない。なぜ日本人が優秀なのかという正当な根拠がそこに必要なのではなく、数値以外の価値を付加されることが重要なのだ。価値は差異が生み出す。資本主義システムは、マーケット上ではすべてが平等な商品として扱われる。日本人でも朝鮮人でも、そこに差異はない。そこに民族の優劣という検証できない神話が入る隙間がない。わたしは交換可能な部品でしかない。交換可能な存在のわたしのアイデンティティーは、どこにあるのだろう。時給九百円の労働力商品ということ以外に、わたしを表明するものがない。時給九百円という価値以外に何もないことが、時給九百円のわたしには堪えられないのだ。時給九百円以上の付加価値を求めて、彼らは差別に奔走するようになるだろう。わたしは万世一系の皇室を頂く神州不滅の日本人だという、根拠のない神話的な価値が、差別システムによって時給九百円の労働者に付加される。
差別を増長することが、わたしのアイデンティティーの確認でもあるのだ。時給九百円というのは、資本主義社会が剰余価値を生み出すために労働コストを削除した結果であり、そのようなシステムに疑問を持つのではなく、そのシステムになぜか認められたい気持ちになる。労働力の搾取によって生み出された剰余価値とは、資本主義の原罪なのだ。時給九百円とは、だからわたし達の額に刻印された原罪であり、おまえは時給九百円の価値しかない人間だとシステムによって決定された不条理な現実なのだ。そのような資本が生み出した不条理な現実を受け入れ、根拠のない神話的な価値を肯定するために差別が必要とされる。
利益を生み出すために大陸から連れてきた在日を、資本主義社会は“地に呪われた者”に変質させるだろう。ジョニー大倉の幼年期の話のように、在日朝鮮人は“地に呪われた者”だ。けれどそれは、安価な労働力による産業システムの設立という、資本の本源的蓄積が要請したものであり、資本主義社会のシステムから必然的に演義された結果なのだ。
在日を“地に呪われた者”という負の存在に固定化することで、日本人は正の存在価値を持つ民族だということを定義することが可能になる。日本人は在日のような負の存在ではないという非対称的な関係項の中で、自分の存在を正の存在として位置付ける。
日本人の特別な優秀性とは何かと問われたとき、確定的に答えることができるだろうか。日本人が他の民族に比べてなぜ価値のある民族かということは、在日の負性との比較でしか、照明できない。価値はそれ自身で、価値を表明することができない。日本人という価値が、在日の負性との対比、差異で生み出されるなら、在日の存在は、“地に呪われた者”として永遠に固定されなければならない。差別とはだから構造的な要請なのだ。
ローカルな場所に帰属する共同体の成員にとってそのアイデンティティーが、共同体の記憶を共有するということで成立するのなら、そのような記憶を全面的に破壊したのが、資本主義社会なのではないだろうか。東京の共同体にとっての記憶は、戦前の関東大地震とその復興過程で一度壊され、八十年代バブルの地上げで、ほとんど何も残らないぐらい破壊されたのではないだろうか。
資本主義社会は共同体の記憶を破壊し、人間を“地に呪われた”存在として変質させる。共同体の記憶は破壊され、わたしの帰属する記憶はすでに廃墟化されている。わたしには、わたしのことを時給九百円の人間だと言う以外に何も残されていない。時給九百円の記憶以外、いったい何を共有できるだろう。 人種とはあるものではなく、なるものだとヒットラー言った。ゲルマン民族もアーリア人種も要するに彼にとって、それは“なるものだ”というフィクションでしかなく、彼らナチスは、共同体の記憶の上で成り立つ政党ではなかった。“血と土を基礎とした新しい貴族”という血と土の神話は、彼らの作り話でしかないのだ。彼らは無から民族の神話を作り上げたわけであり、人種になるということは、そんな神話がどこを探してもあるわけがないことを知りながらも、信じることなのだ。ファシズムの作り出した民族の神話とは、ペテンであることは百も承知で、そのようなガラクタのような妄想を信じることで生み出される。
ナチスに結集したのは、ある意味では当時のドイツ社会でアウトサイダー的な立場の人間のように見える。失業した伍長に、就職先のない博士。同性愛者。服装倒錯者。オカルト。血を見るのが好きなだけのサディスト。ユダヤ人からの略奪と売春婦のヒモを生業とするチンピラ。彼らもまた“地に呪われた者”であり、帰属すべき場所をナチスに選んだのは、公然と暴力を行使し、街頭で他民族を侮辱、罵倒して拍手喝采を得られるからだ。彼らは英雄に憧れ、特別な価値を持った人間に見られたいという欲望で生きている。彼らは戦争とホロコーストいう破壊と破滅に、帰属すべき最後の場所を見出す。ゲルマン民族。アーリア人種論。彼らにとって帰属先の神話の真贋は、どうでもいい問題だ。彼らのスローガンである民族の復活を、そんな民族がどこにも存在しないことを承知で掲げている。
国土の破壊を、ワーグナーの『神々の黄昏』と同一視することで、破壊されるドイツの現実を美学として享受するナチス。彼らナチスは、自身の破壊と破滅を美的な対象として享受できるほど、社会と自分自身から疎外されている。現実は、彼らにとって敵対的な場所として現れるのであり、破壊と破滅だけが“地に呪われた者”である彼らを浄化するのだ。
“地に呪われた者”にとって、世界はこのようなものではないという否定形で現れながら、その否定する対象によって自己のアイデンティティーを成立させる。偉大なゲルマン民族やアーリア人種は、ユダヤ人との差異とその否定によってしか自分達の偉大な民族的性格を記述できず、自らの本質を肯定的に書き記すことができないのだ。他者を否定し、破壊することでしか己のアイデンティティーを証明することができない。
巨大な失業者とアウトサイダーの群れであったナチス党を支持した人間は、世界革命とプロレタリアートの独裁ではなく、自らが神に選ばれた優良な民族であることと、悪魔の手先としてのユダヤ人を排除することを選んだ。民族とはフィクションであり、マルクスの言う階級が現実的な社会概念なら、彼らは階級という現実ではなく、民族というフィクションによって自らのアイデンティティーを形成することを選んだ。
わたし達ドイツ人民はプロレタリア階級であるという所有関係を基底にした定義ではなく、“わたし達ドイツ人はユダヤ人ではない”、“わたし達ドイツ人は非ユダヤ人である”という否定形と無限判断で己を定義することを選ぶ。“〜ではない”という否定形か、“Aは非Bである”という無限判断によって自己が形成されることを選んだのは、わたしに本質が何も存在しないからだ。わたしとは何かと積極的に記述できないわたしは、要するに空っぽな存在なのだ。そんな空っぽな自己のアイデンティティーは、つねに他者との違いか、非〜という否定的な言説によってしか規定できない。わたしがわたしを規定するためには、否定や非の使用以外に、自分自身を積極的に規定する方法を知らない。
民族の定義を共同体の記憶に探るのではなく、フィクションに依存するという選択は、自己の本質を散文的な社会的事実で構成するのではなく、夢と妄想で構成することになる。わたしは時給九百円の労働者という身も蓋もない散文的な記述を、彼らは拒否するだろう。むしろ剰余価値の産出のための労働コストの削減という資本主義の搾取に疑いをもたず、時給九百円でも民族の一員であるという誇り、最低賃金で民族へ奉仕するという自己犠牲的な神話の中で生きることを選ぶのだ。時給九百円のわたしは、最低賃金しかもらえない無能なわたしであるという散文的な事実の中で生きるのではなく、最低賃金でも粉骨砕身で働く総力戦の兵士としてのわたしという妄想の中で生きる。
ロバート・ジョンソンは、悪魔と取り引きすることでギターとブルースを覚えた。ブルースは悪魔の音楽であるのは、悪魔と取り引きしたことがブルースの起源に先天的に刻印として押されているからで、だからブルースは原罪の音楽として存在する。けれどプロレタリアートは悪魔と取り引きしたわけではない。国家によるエネルギー政策の変更(例えば石炭から石油。農業から工業社会への変更)によってその土地から引き離され、流浪化し、最終的にはどの土地にも帰属できない人間として“地に呪われた者”化された。彼らは資本システムの要請によって呪いという災厄の刻印を押された存在であり、“地に呪われた者”としてのプロレタリア階級は、失業と流動を常態化され、その土地に根付くことを許されないという原罪を無理やりに抱えさせられた存在なのだ。
資本の本源的蓄積という略奪を基底に置いた資本主義のシステムは、原罪を抱えたシステムであり、そのような原罪を抱えたシステムはつねに“地に呪われた者”の存在を要求する。ネイティヴ・アメリカンの虐殺の上にアメリカの資本主義システムが立ち上がっているように、“地に呪われた者”の存在は資本主義にとって必要な存在なのだ。
差別が、資本主義システムが必要によって生み出した構造的な問題のように、ブルジョア階級は強奪し続ける最下層の存在を構造的に必要とする。第三世界の貧困問題は、システムを改良すれば解決できる問題なのではなく、システムの必然的な帰結であり、それは資本主義の構造的な要請なのだ。(例えば先進国で物価が安いのは、第三世界の労働コストの削減によって実現できた現象である。先進国において安くものを享受できるということは、第三世界の貧困化が常態化し続けることを無意識に肯定するということだろう)。
労働力を流動化し、長期雇用という安定を破棄し、企業を共同体から切り離し、世界中に流動化させることで、コストを徹底的に削減しようとする。生産拠点と雇用を共同体の場所から失った彼らは、流動化する以外に生きて行く術がない。帰属すべき場所はどこにもなく、いつまでもさまよい続ける“地に呪われた者”という原罪を抱えさせられる。ブルジョワ社会は、彼らの原罪の結果をプロレタリア階級に押し付ける。プロレタリア階級は、資本主義の原罪が可視化された階級なのだ。
利潤の追求は、プロレタリアを流動的下層労働者状態に押しとどめ、あらゆる土地から引き離し、流浪化させる。それは『インターナショナル』が歌った“地に呪われた者”のように帰るべき場所も行く場所も与えない。アフリカの土地から無理やり引き離された黒人が、アングロサクソンによって黒い悪魔に擬されたように、共同体の喪失によって帰属する場所を喪失した人間は、無理やりに原罪を抱えた悪魔に擬されるだろう。
神を概念定義するときに必要とされるのが、神の補完的役割を担った悪魔の存在だ。神というのは確定記述できるような存在ではなく、見えないけれどいる、としかいえない定義や本質を超越した存在だ。そのような神の存在を概念定義するには、神の輪郭を外側から形成する悪魔の存在が必要になる。外側を形成することで内部を完成させる。神とはこうであると積極的に言えないのに対して、悪魔とは反モラルであり、不義であり、闇であり、というように、こうだと本質をはっきり記述できる。神と悪魔とは違う。神とは悪魔ではない。悪魔は否定的判断の材料として存在する。神とは反モラルでない者、不義でない者、闇でない者。神とは非悪魔であるというように、悪魔によって神の存在が定義される。
悪魔とはだから神にもっとも求愛される者であり、ブルジョワ階級もまた彼ら“地に呪われた者”をもっとも必要とするだろう。彼らの存在なしで資本主義社会のシステムが回り続けることができるだろうか。“地に呪われた者”はブルジョワ社会における滑剤であり、滑剤であるがゆえに、ブルジョワ社会はそれを手放すことができない。いつまでもその滑剤を増産し続ける。 ブルジョワ社会の滑剤としての“地に呪われた者”の存在を唾棄することが、プロレタリアートであり、滑剤ではなく、システムの機能を失調させるものとしての“地に呪われた者”がプロレタリアートなのだ。飢えを胃袋の問題として考えれば、プロレタリア階級の役目は、たんなる経済主義闘争で終わり、それはシステムの内部の問題として処理されるが、飢えの問題を呪いという問題として解釈した『インターナショナル』のプロレタリアの存在は、経済的システムの問題では解決できない、災厄としてのプロレタリア階級として現れる。災厄はプロレタリア階級の存在を、幽霊のような存在に変質させる。災厄は見えない刻印であり、ブルジョワ社会の内部で解決不可能なまま取り憑く。社会が破滅しない限り、その災いを取り除くことができない。
災厄を持って生まれた彼ら“地に呪われた者”は、社会の内部ではなく外部の存在だ。社会の外部という資本システムには見えない領域に存在している。マルクスがプロレタリア階級を『共産党宣言』の中で幽霊に例えたように、彼らはシステムの外部に存在している人間なのだ。そのような幽霊的な存在が革命の主体なら、共産主義革命は生産物の配分システムの是正という問題だけでは解決できないのではないだろうか。階級的無意識として“地に呪われた者”という刻印が現れる者だけがプロレタリア階級であり、大地に祝福されない者としての自己を肯定すること。“共産主義は愛にならず、共産主義は敵を叩き潰すためのハンマーなり”と毛沢東の言うように、プロレタリア階級にとって暴力と破壊だけが、自身の呪いを鎮めることができる。
金村修

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