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Statements / 2016年3期7月11日〜9月12日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2016_03
ステートメント
燃えるゴミと燃えないゴミの分別がまだなかった時代には、火葬場の棺の中に何を入れても自由だった。天国に行っても愛用品は故人と共にということで、日常的に使用していた金属製のペンダントや万年筆、バッチに指輪。かつらそれに義足すらも一緒に燃やすことが普通だった。故人の愛用品を天国にまで持って行ってほしい。天国に行ってかつらや義足がなかったら不便だろうという遺族の思いやりなのだろうが、補装具を使用する人間は天国に行っても、生まれ変わっても手や足が不自由なままなのだろうか。
火葬炉に入れる直前に故人の愛用のカメラをこっそりと棺に入れているのを見たことがある。あの世に行っても写真を撮れということなのだろう。補装具を使用する人間は来世も補装具を使用するのであり、写真を撮る人間は来世も写真を撮らなければいけない。天国に行っても来世に生まれ変わっても未来永劫その人は、その人のままいつまでも同じアイデンティティー、姿でいなければならないのだろうか。ジョニー・サンダースが歌っていた。“ママ、天国に行っても足がふらつくのかな”。ジャンキーは天国に行っても、どこで生まれかわってもジャンキーだ。別の何かに、絶対に違う何かに生まれ変わるのは、人間には難しいことなのかもしれない。
火葬炉の中から出てきた台車のプレートの上に、よく金歯が残っていたりする。焼け残った骨の中に置かれている焦げた金歯は妙に生々しい。その人の骨よりも金歯の方に生きていた人間のリアリティーを感じる。まして骨と一緒に出てきた黒焦げになった義足は、義足だけがそこでいきなり立ち上がり歩き始めそうなまるで生命のように見える。有機物としての人間の肉体から金属が現れる光景。そこにはある種の異質性を感じさせる。
金属と肉体。物質と骨。火力で砕け散った肉体と原型を崩さない金属の非対称性。それは集中治療室でよく見かける巨大な腎臓透析機とそこから管でつながった肉体が不均衡に対比する光景と似ている。つながらないものが目の前でつながっている異質感。機械と人間が接合した集中治療室の異質感。
集中治療室。機械に支配され、強制的に生かされ続けている肉体が、管だらけでまるで昆虫の標本が緊縛されているかのようにあちこちに配置されている。病室のベッドで管だらけになって、生きているというよりも機械によって生かされ続ける肉体。死ぬことを機械に取り上げられ、強制的に栄養を与えられ吸収される。機械と点滴でいつまで生きていられるのか、先端治療の実験とデーターの収集。生き続けることが問題であり、自分の意思で勝手に死ぬことは禁止される。そこでは機械が主であり、人間は機械が収集するためのデーターの分析対象でしかない。近代医学にとって治療とは自己の客体化であり、分析対象としての物質に変質させられる。分析対象としてのわたし。それはパソコンのディスプレー上に現れたデーターの束でしかない。
検査のたびに絶食を繰り返される。データーを取り、病状を分析するための検査は、確実に患者の命をすり減らすだろう。データーを取ることが優先され、そのためには命が摩滅していくことも厭わない。検査とは命を衰弱させることであり、治療は部品交換のように、それはまるで車の修理みたいに行われる。悪い部品を交換することが治療なら、人間の肉体はつねにリセット可能な機械であり、近代医学は肉体を機械のように扱うだろう。悪い場所を切り取り、必要があればレーザーで抹消する。かつては肉体が必然的に呼ぶ現象が病気であり、病気はだから切り取るべきものではなく、共存するべきものだった。肉体がそれを要求しているのだから。けれど近代医学にとって病気は必然ではなく、外部からやって来た得体の知れない悪く排除すべきものであり、それは機械の故障、アクシデント、外部からやって来た悪魔と同じレベルで捉えられる。
終身刑の人間は、死ぬことで刑を全うするのであり、彼らの人生は死ぬまでその刑に拘束され続ける。それは死ななければ刑の束縛から自由になれず、いつまでも監視し続けられるように、透析機に束縛された人生も、死ななければ機械から自由になれない。機械とつながったまま生きて行くか死ぬか。わたし達の肉体の器官は部品でしかない。治療とは器官を部品として認定することであり、部品の故障として病院で認定されたわたし達は、終身刑の人間のように死ぬまで部品であり機械でしかない肉体を与え続けられる。
管だらけにされる集中治療室の光景は、肉体を部品として扱った近代医学の人間の機械化の果てであり、それは未来派の“戦争は美しい”と虫けらのように人間が死んでいくことを肯定した近代テクノロジー礼賛の理念が実現した場所なのかもしれない。爆撃機。戦車。大砲。爆弾。それらの近代テクノロジーの産物である兵器の姿は確かに美しい。大砲が咆哮し、爆撃機が編隊を組んで爆撃を始める姿を映像で見れば、未来派でなくてもそれはとても美しく感じるだろう。心電図。人工透析機。点滴。手術室のナイフ。近代医療道具もその合理的機能を追求した姿は、機械特有の無駄がなく美しいフォルムを感じさせる。
『天使のはらわた 名美』(田中登)の拉致した女性を病院のベッドで切り刻もうと手にした手術用のナイフの美しさ。近代的な医療テクノロジーは人間を切り刻むときにその魅力を最大限に発揮するのだろうか。そしてそれらが映像化されたときの美しさを忘れることができない。写真は自然を撮影するよりも、近代都市や近代的テクノロジーを撮るために発明されたのではないだろうか。戦争も武器も切り裂き魔の姿も、そして『天使のはらわた 名美』のような病室も、どんなに不吉で不幸な場所も映像はつねに美しくそれを捉える。
近代テクノロジーと対比されることで浮き上がる人間の肉体の無駄の多さ。機械のソリッドさに比べるとぶよぶよして得体の知れないそれは“血の詰まったただの袋”(カフカ)にしか感じられない。集中治療室の光景は、美しいものが得体の知れないぶよぶよしたものを制圧する光景なのだ。肉体は機械に従属してその醜い姿を曝け出す。機械という無機質な物質と有機的な肉体の連結。機械のソリッドさが肉体を切り裂くだろう。『エクソシスト3』の何も起きない病院の廊下の長回しに惨劇を予感するのは、病院の陰影のついた白い廊下のソリッドさが、曖昧でぶよぶよした人間の肉体を消滅させたためか。それとも流血の予感によってテクノロジーに対抗しようという人間の肉体の最後の抵抗なのだろうか。テクノロジーが望むのは、機械に連結させられ従属を強要される人間の惨めな肉体であり、人間がテクノロジーに屈服するその姿なのだ。
透析機と点滴から大量の管を差し込まれた人間の姿は、無残な光景でありながらも、透析機という機械と肉体の不釣り合いな姿が何故かとても美しい光景でもある。多分それは写真に撮られれば、さらに美しくなるだろう。写真は異質な物同士を連結、配置させるメディアだ。近代兵器とその横に横たわる兵士の屍体。自然の中に突然建てられた人工物のビル。電線や看板の渦の中で溺れるように現れる群衆。無機物と有機物の不均衡な連結と配置が写真の美学を成立させる。異質な物を画面の中に再配置するコラージュ。末期の人間の病室にカメラを持ち込むと必ず管だらけの肉体を撮ってしまうのは、管と人間の不釣り合いで違和感を感じさせる光景がまるでコラージュのようであり、写真的にはきっと美しくなるだろうという無意識の予感がそうさせるのだ。
管だらけの人間。それはほとんど生きながらにしてサイボーグであり、すでに死を先取りしている。機械化した人間が最後を迎える姿より、むしろ延命装置と腕にはめ込まれた管にこそ命のリアリティーを感じさせる。
機械と直結した人間。病人とは機械と直結して、連結し、機械に己の肉体の領域を徐々に侵犯される人間のことだ。機械と人間。その関係はいつまでも違和感を持ち続ける。そんな相反する領域が結合するとき、写真はそのような光景を美しく撮ってしまうだろう。整合ではなく違和を感じさせる光景こそが写真の被写体には相応しい。
腎臓を機械で再現するとそれはかなり巨大な機械になり、その巨大さに釣り合わない肉体の貧弱さの不均衡な光景は無残でありながら、けれどその光景には、ほとんどの人間は機械だと言ったグルジェフの言葉を思い出させる。人間は自己の力の1/10の能力も使っていないたんなるポンコツの機械だとグルジェフは言う。多分グルジェフの言う通りなのだろう。巨大な機械で再現された器官の機能が集中治療室という現実の空間に現れるとき、肉体は機械に隷属するだけの単なる肉に変質する。最後は延命装置によって生かされるだけの人生だと機械に宣告される。死ぬまで機械に動かされ続けるのだ。機械と対比されることで露わにされる人間のジャンク性。人間はポンコツの機械なのだ。ろくに起動もせず、能率の悪いしょっちゅう故障ばかりしている機械なのだ。
グルジェフは内臓が機能しなくなっても生きていた。内臓という有機的組織の支配者のコントロールを拒否する。器官は近代医学の見地から見ればそれは機械の機能と同じであり、内臓の機能停止も厭わずに延命装置に連結することもなく生きていたグルジェフは、機械の支配から勝利した人間なのだろう。
肉体の機能が機械で再現できるなら、わたし達は機械の動きで生きているに過ぎない。医学は人間が機械でしかないことを宣告するなら、人間はグルジェフの言うように機械の奴隷だ。機械がこまめに手入れを行えばいつまでも動き続けるのに対して、人間は生まれたときから崩壊の過程を歩み続ける。機械の観点から見ればそれは、人間は単に壊れかけの不良品でしかなく、最初からジャンクな存在でしかないのだ。延命装置や人口透析機の管を血管に差し込まれたその姿は、ジャンク寸前の機械が最後の機能を果たそうと生真面目にあがいている姿に似ている。それはイカれる寸前の車のエンジンの最後の咆哮に近い。肉体が機能の限界まで働かされるポンコツのエンジンとして現れる集中治療室の光景を見れば、人間は機械であり、それもたいして使い物にならなかった無意味な機械だったということがよく分かる。
あらゆる可能性を持ったピカピカだった機械としての肉体を、ある種の人間達は無為な飲食と不摂生を繰り返し器官の機能を故意に故障させ、糖尿病、肝硬変、腎不全といったような、肉体の廃墟化を志向しようとする。機械としての肉体の可能性に賭けるよりも、肉体の廃墟に賭けることが己のアイデンティティーの証明なのだと暴飲暴食を繰り返したあげくの果ての糖尿病化したジャンクな肉体。無為な浪費の結果が現れた病室の光景は、かつて可能性に満ちた美しい肉体の成れの果てであり、その痕跡すら認められない衰弱したその姿は、美しい可能性を無意味に捨てていった浪費の凄味すら感じさせる。機械としての肉体を己の領域に奪還するには病気になるしかないのだ。病気で苦しんで死ぬことが人間の領域であり、糖尿病になっても節制もせずにいつまでも酒を飲み続ける彼らの姿は肉体の蕩尽を思わせる。彼らはあの世を相手に肉体と命を賭ける。破滅的な交換としてのあの世とのポトラッチ。
人間の姿が一番輝くとき。それは集中治療室のときの姿だろう。死ぬまでの最後の時間を持て余しただテレビを見続けるその管だらけの姿。機能停止寸前の脳の働きを、テレビを見ることだけにしか使わないその姿。彼らの一生はただテレビを観ているだけだった。無意味にテレビを観て、笑っているだけで、脳細胞の一欠片も使わなかった。まるで黄金の宝を無造作に海中に捨てているようで、その蕩尽とでもいうような無為な姿が不条理な美しさを描き出す。それはある種の過剰であり、命を侮蔑し、破壊することでしかその命の存在が現すことができないのだろうか。
命を破壊することでしか命を感じられない。生きているときよりも死んだときの方がリアリティーを感じさせるような人間は確かに存在する。生きている肉体よりも火葬場で燃やされた肉体の方にリアリティーが現れ、健康なときよりも集中治療室で最後の瞬間を迎える姿の方がより生命のリアルさが現れるのだ。破壊して痕跡化すること。廃墟になるしかリアリティーを感じない。有効に使うよりも無為に消費し続ける。そのような業を持った人間には、管だらけの姿で集中治療室にいることが一番似つかわしい。
人工呼吸器。透析機。心電図。点滴。機械に囲まれた人間。それらの機械の合理的デザインが催す美しさが対比となり、痩せ細り皺々になった肉体を強烈に露出させる。そのような弱々しく醜い姿が機械に囲まれることで強烈な違和感を空間の中に現出させる。貧弱な最後を迎えようとするその最後の姿が、強烈な存在感を表出する。集中治療室の生。生き生きした存在ではなく、機能不全寸前の存在こそが生を感じさせるのだ。弱々しく貧弱で何もできないジャンク寸前の機械としての生。調子よく走り続ける車よりも、それがクラッシュして路上で横転する姿にこそ車の存在が現れるように、延命装置と人口透析機に連結された生の方がよりリアリティーを感じさせる。
金村修

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