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Statements / 2016年2期4月11日〜6月20日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2016_02
ステートメント
写真は細部や断片しか撮れない、それらをただ積み重ねていくことしか写真にはできない、写真は全体性を獲得することができないと言われる。全体に対しての細部。細部に対する全体の優位性。けれど全体と細部は対立する概念なのだろうか。全体と細部を分離して考えることそのものが、近代科学が持ち込んだイデオロギーの結果ではないのだろうか。全体と細部という二分法が抽象的な分離法であり、細部という存在がすでに全体に所属していることが前提となっているのなら、その細部はすでに細部ではなく全体だ。あの建物のある部分、建物の細部という言い方は、その細部には建物の全体をすでに含んでおり全体性を獲得している。全体から細部を分離しよとする二分法は分析の概念であって、細部をより細かく分析していけば全体をより詳しく把握できるというのは幻想でしかないだろう。徹底して細部を詰めていけばはたして全体が出てくるのだろうか。全体と細部という分け方は無意味であり、むしろ細部と全体はトータルに通底しているのではないだろうか。写真はだから細部や断片を撮っているのではなく、つねに全体を撮っているのであり、何を撮っているのかという質問は無意味な質問だと思う。建物を撮っている、人物を撮っている、風景を撮っているという言い方は世界からある一部分を分離し分析しようとする観察的な姿勢であって、写真家にとって撮っている対象はつねに全体でありそれは世界だ。
その全体というのは理路整然とした体系を持った全体なのだろうか。ロジックとしての全体に対して中世の魔術師達の言う天体としての全体性や星座のようなアナロジーによって構成された全体性が存在する。それらの全体性は近代的なロジックで作られた全体ではなく類推と霊感によって作られる。近代的ロジックで成り立つ全体性は観察と分析という上位レヴェルで対象を観察する方法で成り立つのに対して、類推と霊感による魔術的世界観は渾然としたまま世界とトータルにつながっており、対象の上位レヴェルという外部に自己の立ち位置を見つけることではない。彼らは世界に巻き込まれている存在であり、類推と霊感によって直感的に世界を捉える方法は、観察と分析というスタティックな方法とは違いアクティブに世界とつながろうとする。 写真家は撮った対象と共に世界の中に所属する世界内存在であり、写真家は世界の外部に立つことができず、“撮る/撮られる”という主客の関係のように対象の上位レヴェルに立つことができない。対象を見ることが対象に見返されることであるなら、撮ることは対象よりも上位に立つことができず対象と同じレヴェルにいつまでも存在するだろう。ウィノグランドの自分が何を撮っているのか分からないような非観察的なスナップ写真。ウィノグランドにとって自分が所属している世界を観察、分析することはすでに放棄されている。現実の出来事と同伴して走り続けるしかない彼にとって、世界はロジックとして把握することができない。全体をロジックとして把握するには、世界を体系化することのできる言葉の力でしか把握することができないだろう。写真はウィノグランドのようにアクティブに世界と勝手に同伴しトータルに世界とつながる能力を持ちながらも、ベッヒャー夫妻のようにロジカルに対象を体系化する言語的な機能も備えている。何が写っているかを説明するのは言葉の機能であり、対象を整理し分別して提出することが言葉の機能なら、言葉と写真は近似的な関係にあるだろう。ベッヒャー夫妻の写真が言葉の方法に近いのは、基本的に写真にはロジックを組み立てるために対象を細分化できる機能を先天的に持っているからであり、写真はだから“写真だけ見ればいい”といったヴィジュアルだけで成り立つのではない。ヴィジュアルに特化した写真はそれ自体何の意味もないたんなる断片だ。言語化可能なものしか写真は写すことができないのだから、言葉の支えのないところで写真に何が写せるだろうか。写真は言葉の領域に存在する。むしろ言葉の支えなしで自身を支え続けるのは不可能なのだ。写真は言葉のように世界を整理し分別しロジックとして体系的に世界を捉えようとするだろう。
例えば言葉と文法を使わないで目前の対象を、全体のどこに位置しどのように世界と関わっているのかとトータルに捉えることができるだろうか。全体を想起させるのはつねに言葉と文法であり、目前の現実を分かりやすく分節化するためのシステムが必要になる。言葉と文法は世界を理解するためのシステムであり、システムとしての言葉と文法の統御作業によって細部をつなぎあわせ全体として再度構成し直すのだから、言葉と文法のコントロールによって対象はどんな風にもつなげられる。それは象を建物と思わせることも、象がそこにいるという現実に対して、そこに象などいないという認識に変化させることも可能だ。言葉と文法がなければわたし達はよく分からない断面をただ見ているしかないのだ。ゲッペルスも言っているように必要なのは内容ではなく修飾語によるコントロールであり、世界はシニファンとしての言葉と文法で認識を支配できる。
カメラは目の前のものすべてを撮れるわけではないように、肉眼もまた目前の現実すべてを把握できるわけではない。カメラが肉眼と決定的に違うところは、肉眼で見るよりも写した対象をより徹底的に細部まで写せることであり、またはピントを浅くすることで、肉眼で見たものとはまるで違う細部を表出することもできる。むしろ全体を断片化し細部化するのがカメラの機能であり、全体と細部という二分法を補完するための装置として機能する側面をカメラは持っている。近代的イデオロギーの産物とし世界を分析、理解する側面を持つことができる写真は、馬が走るところを連続撮影したマイブリッジの写真が、馬がどのように足を蹴り上げて走るかという分析に利用されたように、写真は持続としての世界を一気に静止させ分析の対象として世界を再構成する。
写真に全体の概念を付与するのは、その写真を見た人間であって、写真はただ細部しか表すことができない。写真がファシズムにもコミュニズムにも利用されたのは、ヴィジュアルとしての写真には何も意味がないからだろう。ヴィジュアルに特化した写真はたんなる断片や細部でしかなく、それを使用する人間の立場によってどのような意味も付与することができる。 写真には何も意味がないのだから、それ自体で世界に流通するのはほとんど不可能に近い。写真が世界に流通するには言葉が必要であり、写真が写真だけで自立しようとするなら、それはたんに現実を切り取った無意味な断片でしかない。写真の自律というモダニズムな考えは、写真をただ二十世紀の新しい芸術の一ジャンルとしてしか機能させないだろう。写真に新しい可能性があったのは、今までの芸術と違った利用方法で使用することができたことであり、更に写真はどこにでも流通することが可能だったことだ。写真をいかに利用するか、どのように流通させるかが、写真の成立にとって重要な条件になる。
“画面に見えるものしか見ないはずだ”とフランク・ステラがブラック・シリーズで絵画が絵画だけで立ち上がるために絵画以外のあらゆる要素を排除して、純粋な絵画を追求しようとした。画面に見えるもの。それは二次元の平面であり、二次元の平面性に徹底的にこだわった結果が、平面性を支えるキャンバスという物質を発見する。写真もまた自律にこだわった結果が、写真とは関係のない写真の外部を発見するだろう。画面から言葉や意味を追放しようとしたモダニズムは追放したはずの言葉や意味を再度呼び込み、それらに支えられることになる。写真は永遠に言葉や意味が問われるだろう。文明を成り立たせるにはある種の野蛮性が必要だと毛沢東が言ったように、正反対の要素がものを成立させるときに必要とされるのだ。二次元のイメージを成立させるには三次元の物質の要素を必要とされる。毛沢東の『矛盾論』によれば相反する要素がものを成り立たせるのであり、純粋に一つだけで自立する矛盾のない存在は考えられない。
宮本常一や岡本太郎の写真が今でも通用するのは、文化人類学という写真にとっての外部を導入したからであり、彼らは写真を文化人類学的な記録として利用、使用するという写真とは関係のない概念を写真の中に持ち込んだ結果、それらの写真は今でもノスタルジアの対象から逃れるテキストとして読まれることができる。文化人類学の調査資料のために記録され利用される写真。目的のために手段化された写真の姿は、写真の自立を踏みにじんだ行為に見えるだろう。けれど写真が生まれた二十世紀初頭ですでに芸術における作者という特権的な主体に対して否を突きつけた写真が、なぜ主体の立場をもう一度獲得しようとするのだろうか。作者の特権的な主体性を否定した写真にとって、写真は利用されて何の文句があるのか。芸術の能動性を否定した写真は積極的に利用、使用されるしかないことを認めたメディアなのだ。
写真にその存在価値があるとしたら、それは使用され利用される過程にあるのであって、何かのためではない写真のための写真、無重力の空間の中で浮かび上がるマラルメの言うような地球のような写真は、モダニズムのイデオロギーの中でしか存在しないだろう。使用されることで流通する。写真は使用されることであらゆる場所と関係を持つことができるだろうし、そのような関係によってしかその存在を表すことができない。額に収められることで芸術としての自己のアイデンティティーを発見した絵画と違い、利用され流通されることで写真は己のアイデンティティーを発見する。
モダニズムに囚われた写真家にとって、写真の使用という概念は写真の純粋性を破壊するものであり、言葉という汚れの中でドブにまみれて生きているようにしか見えないだろう。ドブの中で言葉という汚れにまみれてしか生きていけないのではないだろうか。写真はマラルメの領域の中では生きていけない。写した被写体でしか評価されない写真にどんな自立があるのだろう。写真は被写体の後ろに誰にも気づかれずに予感のような形でしかこの世界に表れることができない存在であり、その存在は命名された言葉の裏に見えない形でしか存在することができない。建物、人物、またはその写した場所の地名等々でその写真は語られるのであり、その意味では写真がその輪郭を最初に表すには、まず言葉という写真の外部によってその存在を規定されるだろう。
写真の成立は写真以外の様々な現実から成り立っている。エドガー・ヴァレーズの“現代作曲家は黙って餓死することを拒否する”という宣言は、作曲をその根底で規定する構造は美しいメロディや斬新なリズムではなくて、“飢死”という身体の領域こそが作曲を規定する重要な下部構造としてこの宣言は書かれたのではないだろうか。音楽を成立させる下部構造は身体の問題であり、それは毛沢東の言う革命とは飯を喰うことだと書いたことと同じように、作曲にとって重要な問題は観念ではなく具体的な日常が問題になる。それは個人の霊感や秘密結社的な次元に存在していた芸術や革命を“飯を喰うことだ”という日常と身体の領域に解放することであり、天才と凡人、前衛と民衆という二分法を棄却するだろう。作曲を成立させるもの。それは音楽だけの問題ではなく、“飢え”という音楽の外部にある身体の要素によって決定されるのであり、元々“飢え”を感じる胃袋がそこに存在している日常の次元と作曲は不可分な関係だった。音楽が祭儀や労働から始まったようにそれは決して天才的作曲家による霊感の次元ではなく、日常と環境に密着した芸術だった。
胃袋と作曲を直結させることは作曲に対して身体という、相反する要素を持ち込むことであり作曲家を野垂れ死させる社会に対して“拒否する”という姿勢は、審美的な音楽の内部に対して外部としての政治を持ち込むだろう。本来不可分な関係だった芸術と政治の関係を、芸術から政治を、政治から芸術を追放して分離し孤立させ固定化した状態にしたのが近代社会であり、芸術と政治がトータルな地続きの関係として捉え返すことが“黙って飢死にすることを拒否する”ことなのだ。音楽を日常や政治と分離し純粋に楽音だけを分析しても分かることは何もない。音楽はピタゴラスによれば天体であるし、音階は重力を説明するものだった。宇宙の原理を音階によってグルジェフは説明し、クロウリーは無意識下の能力を引き出すために音楽を利用した。音楽はアレゴリーとしてあらゆるものと連結するだろう。廃墟がアレゴリーとして機能するのはそこに存在するすべての細部が換喩法として現実のあらゆるものとつながる可能性を持っているからであり、音楽もまた無音の状態ですらそれを音楽として示唆することができるのは換喩的に世界とつながっているからだ。作曲をトータルなものとして、世界と隣接したものとして考えること。音楽は楽音だけで成り立つのではなく楽音以外の日常的な騒音や無音、音と音の隙間や関係性、または音を発生させる社会的環境によって成立する。近代社会によって分離された音楽と政治に対して、“黙って飢死にすることを拒否する”姿勢が音楽と政治をトータルに結びつける。
社会環境が生産力によって成り立つのなら、二十世紀先進国社会の生産力の担い手は工業プロレタリアートであり、主要な生産力としてのプロタリアートを囲み再生産し続ける環境が都市であるなら、作曲の中に都市的な要素が自然と入り込むのは、環境とトータルにつながっている音楽にとってそれは当然の結果だと思う。ストラヴィンスキーはオーケストラの演奏に大砲の音が入るスコアを書き、未来派は工場の騒音を楽曲の中に積極的に取り入れる。共産主義社会とは電気のことだと言ったレーニンの発言のその五十年後には、アコーステック楽器を基本にした音楽は主流から外れ、電気で増幅されたノイズまじりの音楽やアンプのハウリングやフィードバックを多用したノイズそのものの音楽が主流になる。街頭のざわめきや機械が吐き出す騒音という都市と近代産業の成立が音楽の構造を変化させる。
ビートルズが犬にしか聴こえない周波数をレコードに刻み込んだのは、音楽を人間だけのものではなく、あらゆる場所に解放されることを目指したからだろう。“死ぬことを拒否する”ことは、死という人間の身体の限定から音楽を解放することであり、音楽を人間の手から奪還する。レコードという録音物が音楽の主流になってきた六十年代後半において音楽は何度も反復されるべきゾンビのような生を強要されるようになり、ミュージシャンは死ぬことができなくなった。彼らは永遠に生かされ続けるだろう。死ぬことができなくなったミュージシャンはいつまでも生き続けさせられる。百年も経てば画像が腐って消えていくことが当然だったはずの写真もまた高度に発達したデジタル技術によって、像が消えてしまったフィルムからも像を復活させることができるようになり、写真は宿命の領域から追放される。写真もミュージシャンと同じように自然な死を迎えることができなくなった。ネガを焼却するという積極的な消滅を選ぶ以外に自然に消えて死ぬ権利を失ってしまった。
“それは写真の問題と関係がない”と断ち切るのではなく、写真は音楽と同じようにすべてと関係するだろう。写真はアナロジー的な存在であり、例えば被写体の車の正面が人の顔に似ているとか、つねに何かを連想させ続ける無根拠な類推と直感によって世界とつながっていく。被写体は無限に類推され、対象が他の対象を連続的に呼び込む。そこには体系的なつながりの根拠があるわけではない。それは偶然と場当たり的な思い込みに支配された類推が跋扈する世界であり、世界をロジックとして考えることや、対象の本質については誰も考えることができない。写真には被写体の本質が写っているわけではないのだから、その対象を掘り下げて考えるよりも思いつきのような類推によってその解釈が変える以外にどんな読み方があるのだろうか。
内部を成立させるための条件として外部の存在が要請されるのは当たり前のことであり、“それは写真の問題と関係がない”わけがないだろう。身体が身体だけで成り立つのではなく外部の領域が必要とされるように、写真が成立するためには外部の領域がつねに必要とされる。現実の被写体だけではなく、流通から売り方までと、交換過程の問題を抜きにしては、写真の成立は考えられない。交換価値を無視し使用価値だけで商品が語れないように、写真が写真だけで成立するというのは価値の源泉を労働力にだけしか見ないのと同じことでしかないだろう。写真は外部と関係することでその価値を表出する。外部がなければ内部は存在しないし、“それは写真の問題と関係がない”という物言いは所詮写真を空虚な実験室の中に閉じ込めているだけにすぎない。
写真は本質が存在しないメディアだから、被写体によってその本質をカメレオンのようにつねに変化させる。それは原理が存在しないメディアであり、写したものの後ろに予感のような形でしか己の姿を表せない写真に原理が存在するだろうか。むしろ何にでもつながることができる写真にとって原理が存在しないことが写真の原理であり、被写体の影のような形でしか表れることができない写真は、単独ではなくつねに被写体の代理という形でしか表れることができない。写真はだから誰かの代理としてしか存在できない貨幣と似ている。貨幣が貨幣単独で存在することができず、いつも何かの代理としてしかその存在を表せないように、貨幣と写真は近似的な関係を持つ。
自身だけではその姿を表すことができない貨幣は、何かの代理としてしか存在できないにもかかわらず、交換過程の中心に居座っている。つねに何かの代理でしかない実体が空っぽで何もない透明な存在であるはずの貨幣が、実際の交換過程では媒介物としてその姿を隠蔽しながら交換過程を支配しているように、現実とイメージが等号であり、現実と寸分も変わらないイメージを代理するものとして写真は了解される。写真は忠実な現実の再現として、まるで透明人間のように当たり障りのない姿に擬態するだろう。現実とイメージという本来なら非対称的な関係が対照的な関係だと偽られるとき、写真は現実の忠実な代理であるということでイコールの役割に徹して、決して己の姿を表さない。現実とイメージを無媒介につなげようとするが、貨幣が代理的存在であり透明な媒介者を装いながらも交換過程においてはその姿が支配的な形で表れるように、写真もまた媒介物でありながらもそれは透明ではないノイズとしての物質性を露わにするだろう。平面を追求したステラの絵画がキャンバスという三次元的な物質を発見したように、現実の忠実な再現である写真が、フィルムの化学的変化によって印画紙に焼き付けられた物質であるという事実が例えばロバート・フランクなどの写真によって姿を表す。
写真は被写体の名前や意味と共に表れながらその名前や意味を最終的には棄却しょうとするだろう。三次元的な現実を二次元のフラットな表面にフォルムとして解体しようとする。けれど被写体の名前や意味を最初から写真とは関係のない要素だと切り捨てることは難しいのではないだろうか。写真はとりあえず言葉と共に表れることしかできないし、言葉を切り捨てて表れることができないのだ。どんな写真でも写っている被写体に名前や代名詞が付着しているように、それはつねに言葉と共に表れる。現実に存在しているものすべてに言葉が付いているように、建物を撮れば建物が写っている写真、人物が写っていれば人物の写真だと言われるのは普通のことだろうしそれを無視することができないのではないだろうか。建物の写真、人物の写真と言われるように写真は言葉の領域に所属することでしかその姿を表すことができないのだ。
写真が写真だけで成立するという美しいイデオロギーが存在する余地は、もうどこにも存在しない。写真は言葉や交換過程という経済の領域の中で泥まみれになることでしか存在できないだろう。そこでは作家名というのはたんなる商品名と変わりがなくなり、作家という特権性はブランド商品の著名性とさして違わなくなる。作家の名前は商品の保証としてしか機能せず、ロバート・フランクやウォーカー・エヴァンスという魔術的な響きと美しさを持った彼らの名前は、ブランドの商品名と同じものとしてしか機能しない。アート・マーケットではフランクと日本のどうしょうもない写真家の写真が同じ三十万円で売られており、三十万円で売買できるというマーケットの枠組みの中では、両者は等価な物として扱われる。フランクとこのどうしょうもない写真が等価なものとして扱われるのだ。芸術を支えていた作家性という魔法は等価交換の枠組みの中で無残な死を迎えるだろう。
写真を写真だけで成立させるという美しいイデオロギーは作家的主体を美しく葬ろうとした。それらの主体の死はとても美しく、けれど資本主義社会における作家の死はどうしようもなく不純で汚辱にまみれた死しか選択肢がない。マラルメのような作者の死はポスト・モダンというイデオロギー上の美しい夢でしかなく、商業主義の汚辱にまみれることを肯定しながら死んでいく以外にどんな死があるのだろう。
元々写真は同じ化学薬品や工業製品を共有し合っているので、個別性がつきにくいところがある。むしろ最初から匿名的要素が強かったメディアであり、今更作家の死と言われても、写真は最初から作家的主体が死にかけていたメディアだった。むしろ作家的主体を構築することの方が難しいメディアだった。資本主義社会においては作家的主体というのは虚構のキャラクターにしかすぎず、そのようなキャラクターは時間が経てば必然的に消えていき、後には写真だけが残る。時が経って名前をはずして写真を見れば、それはもう誰の写真だか分からない。
写真は本来工業製品だから、アノニマスな機能を先天的に兼ね備えている。商業主義はアノニマスな存在になることを写真に許さず、作家というブランド名を固持し続けるだろうが、著作権が切れた売れない昔のジャズがアンソロジーという名のごちゃまぜのオムニバスに編集されて、チャーリー・パーカーなのかデクスター・ゴードンなのか区別がつかなくなった一山いくらの売り方を見れば、商業主義は売れなくなればあらゆる著名な写真家からその個別性を剥ぎ取り相対化しジャズのように一山いくらのアンソロジーとして売却するだろう。美しい作者の死はそこには存在しない。セール品を処分するようなそのような無残な死を写真は肯定しなければならなくなる。言葉の支配を排除して誰もが好きなように見ることができる開かれたテキストとしての写真。そのような美しい作者の死は、今では反対に作者の延命作用としてしか機能しないだろう。何年も経てば写真はセール品として見切り処分される。そのような死が工業製品としての写真にはふさわしい最後だと思う。
金村修

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