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Statements / 2016年1期1月11日〜3月14日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2016_01
ステートメント
カットバック、アクションつなぎ等々の多様な技法を駆使したモンタージュが生み出す映画の時間は、ドラマを成立させるために遡行する現実の時間を任意に切り刻み、つなぎ直します。それは基本的にフィクションの時間だと思うのです。無数のカットがつながれることで、虚構の物語を成立させる。そんなモンタージュの技法は、映画という虚構の世界を成立させるための重要な技法だと思うのです。それに対してワンシーン・ワンカットの長廻しは、モンタージュほど時間を好き勝手に操作できない。どちらかといえば現実の時間や空間や場所に拘束されがちです。それは映画をもっと演劇の領域か、現実の記録の領域に近づけてしまうのでしょうか。
長廻しの時間はモンタージュ技法であらわされる時間と違って、もっと現実の生の時間の領域に近いと思います。アンゲロプロスの『旅芸人の記録』では、十二分間のワンシーン・ワンカットで六年間の時間経過を強引にあらわしていましたが、カットのつなぎ合わせで表出されるモンタージュの時間と違い、その十二分間は現実の生の十二分間の時間感覚に近いので、何だか嘘っぽいけれどリアリティーがあるという、虚構と現実が混濁するようなショットでした。それはフィクションなのですが、時間の流れ方が現実の流れ方に近い。カットを割らないでカメラを廻し続ける長廻しは、例えば三分間カメラを廻し続けたら、三分間の現実の時間の流れがフィルムの中に定着される。そういう意味ではモンタージュが生み出す時間とは、まったく真逆の現実の時間だと思うのです。
モンタージュは時間の操作を可能にしますが、廻し続けられたその三分間の長廻しは現実に経過した三分間の生の現実の時間でして、モンタージュが生み出したフィクションの時間ではない。長廻しはだからフィクションとしての映画の中に、生の現実の時間を導入することではないでしょうか。フィクションとしての映画の時間に、リアルな現実の時間を導入することで、長廻しは映画のフィクションに対して亀裂を入れることなのではないでしょうか。モンタージュによって成立する映画のフィクションに対して、現実を導入することでフィクションの城壁の中で守られている映画に亀裂を生じさせる。映画を映画だけの世界に囲い込むのではなく、映画を現実の世界と地続きの関係に持ち込むのです。映画の中に現実を、現実の世界に映画を浸透させていく渾然一体とした感覚を長廻しはあらわそうとします。
現実のある一部を囲い込むカメラのフレームは、囲い込んだ対象から現実の時間を簒奪するでしょう。対象から時間を奪い、無時間的な存在に転化させます。そしてフレームによって切り取られ、停止させられた対象がフィルムに定着されることで今度は、映写機のモーターで停止させられた対象が動き始める。それが映画の時間の始まりなのですが、そんな映画の時間は基本的に静止した映像を映写機で動かすことで生み出された機械の時間です。映写機によって、つなぎ合わされたカットが自動的に流れ出す。現実の時間が持つ不可逆性を根底から突き動かすのがモンタージュです。現実の時間の流れに逆らって、それはカメラによって切り取られた現実を、好き勝手に貼付け、再構成し直すのです。写真が時間を凍結することで、時間を過去に戻ることが可能な、逆行可能の時間に転化します。モンタージュは時間を自由に組み替え、すべての映像が今-現在にあらわれたかのような虚構の現前性を強調します。それらの技法を駆使することで、二十四分の一という自動化された単調な機械の時間が、スペクタクルな時間に変貌するのです。
けれど映画にそんなスペクタクルな現前性が必要なのでしょうか。少し極端な例ですが、例えばウォーホルの映画は何も起こりません。眠っている男やエンパイア・ステート・ビルディングをカメラが据え置きのまま写しているだけです。現実の時間がただ経過していくだけの映画です。それは何だかベルトコンベアをずうっと眺めている、流れ作業に従事している工員のような気分になります。映画の時間はそんなベルトコンベアに代表されるような、インダストリアルで退屈なものなのでしょうか。ウォーホルの映画を“退屈の監視人”だと佐々木敦が書いていましたが、映写機という機械が正常に動いていることを監視する。そんなインダストリアルで単調な退屈こそが映画の本質なのかもしれません。映写機という大きな機械が中央に鎮座している映写室を中心にして成立する映画館の空間は、人間ではなく機械が中心であり、機械が写し出す映像を真剣にみんなが見ている姿は、機械に支配された空間であり、それは何だかフォード式の工場で働いている機械に牛耳られた工員の姿とよく似ているような気がします。
ウォーホルも長廻しを多用する映像作家ですが、彼の長廻しもまた、映画の虚構に対して生の現実を映画の中に導入することだったと思うのです。そして生の現実というのはつねに退屈なのですが、自動化された機械の時間が前提となって成立する映画もまた、基本的には退屈なメディアだと思うのです。高度に機械化された工場での人間のやる仕事といえば、その機械の動きを見張っているだけです。そんなフォード式工場の持つ固有の退屈さを映画もまた内包している。それは人間が機械に従わざるを得ない悪夢のような退屈さです。その退屈さに耐えきれなくなったときにモンタージュ等々の技法を使って映像をスペクタクル化するのだと思いますが、ときにはその悪夢のような退屈さに取り憑かれた映像作家もいるのです。ウォーホルもその内の一人なのでしょうが、アジェも同じ場所を飽きることなく、何度も死ぬまで撮り続けていました(ベレニス・アボットもできることなら、死ぬまでニューヨークを撮りたかったと言っていました。写真家というのは単調な繰り返しを好む人が多いのでしょうか)。
彼らは退屈な反復に取り憑かれたのでしょうか。機械の単調な反復が快感だと最初に提示したのがクラフトワークだと思うのですが、リズムボックスという機械に人間が合わせていくことで、人間が機械化する快感だけではなく、それは人間と機械の領域が地続きになってしまう面白さに取り憑かれたのではないでしょうか。人間が機械に対して主ではないし、かといって疎外論のように人間が機械の従になるわけでもない。機械と人間の境界が曖昧になるのです。それ現実の世界と映画の境界が曖昧になっていくような感覚と似ているのではないでしょうか。機械と人間、虚構と現実の境界が曖昧になっていくとき、その場に居合わせた作家的主体もまた自己のアイデンティティーをそこで維持し続けるのは難しいでしょう。虚構なのか現実なのか判断不可能なメディアに対して、主体の位置を確保するのは困難なことだと思うのです。現にクラフトワークはステージの上では、シンセサイザーのスイッチを押す以外に能動的なことは何もしていなかった。そんな風に作家的主体があやふやになって消滅しようとする瞬間に現われるのが、カメラの記録機能なのだと思います。『眠る男』はカメラの記録機能に徹底的に依存した映画です。むしろ記録機能しかない映画とでも呼ぶべき映画だと思います。
写真撮影もそうですが、撮影を続けていると自分が撮っているという意識が怪しくなる。撮影において自分がイニシァティヴを握っているという感覚がだんだん崩壊していきます。自分が撮っているのか、機械が撮っているのか、または風景に撮らされているのか。現実を見ているのか、ファインダーに写ったものを見ているのか、そんな境界が曖昧になり易い。ある意味では、世界は最初から映像化されているのかと思うときもあります。映像と現実の関係が逆転してくる。現実があるからその現実を写真に撮るのではなく、写真に撮ったからその現実が立ち現われてきたのではないか。またはどんな現実も写真のように見えてしまう。現実はすでに写真なのかもしれない。だから写真のような現実をもう一度まるで複写するかのように撮影する。主体と客体としての世界とのパースペクティヴな関係が逆立ちしているような気が、撮影にはつきまとうのです。
ウォーホルの『眠る男』に対して、撮りっぱなしだとか、現実をそのまま写しているだけだという批判がありますが、けれどフィクション性の欠片もない映画というのもすごい映画だと思います。カメラの記録機能だけで作られているわけですよね。それは機械の機能に忠実に作った映画でして、映画の下部構造たるカメラの存在を前面に打ち出す唯物論的な映画です。ひたすら機械の機能に忠実に撮る彼の映画は、作家的主体が欠落したままです。けれど映画においての作家性というのは一体どんな機能を担うのでしょうか。作家性はけっきょく映画の本質を担う機械の退屈さを覆い隠すために機能するのではないでしょうか。近代社会が退屈さを隠蔽して日常をイヴェント化したように、近代テクノロジーと相似的な関係にある映画もそのテクノロジーの退屈さを、ドラマや作家性の名において隠蔽し、スペクタクル化しょうとしているのではないでしょうか。
レンズを向ければすべてを記録してしまうカメラの記録性は、ほとんど暴力と同義です。悲惨なものも、楽しげなものもすべて分け隔てなく記録してしまう。カメラの記録機能には自重や反省という言葉がありません。何の躊躇もなくどんどん撮ってしまう。映像に作家性やドラマという性格を刻印しようとするのは、そんなカメラの記録機能が持つ暴力性を隠蔽させるためなのではないでしょうか。ほうっておけば何でも撮ってしまうカメラ対して、作家性やドラマという人間性を加味することで、その暴力性を飼い馴らそうとしているのです。『眠る男』はそんな記録機能の暴力性を最大限に剥き出しにします。カメラを八時間眠る男に向け続けることによってあらわれるただの眠っている男には、ファンタジーやフィクションが捏造する夢がない。そこにあるのは、カメラは目の前の現実をただ写すという無慈悲な記録機能だけがあらわれるのです。
五十年代の撮影所システムは映画から作家性を追放して、言われた企画を黙々とこなす(映画には最初から作家性なんて存在しませんでした)。ベルトコンベアの流れ作業に従事する熟練された工員のような監督を排出しました。撮影所システムの制度は、映画を限りなくフォード式の工場システムと近似させます。それは娯楽としての映画の裏に存在する近代テクノロジーが支配している退屈さであり、彼ら監督たちはそんな退屈さを文句一つ言わずに引き受けるのです。彼らは作家的主体性や、ドラマを完成させた達成感なんて興味も持ちません。そういった作家性やドラマという装飾を破棄して、剥き出しのカメラの暴力性を受け止めるのです。彼らはものがどこまでも写ってしまうカメラに熱狂していたのではないでしょうか。ともかく画面を作りたいという欲望が作家性やドラマよりも先に存在していたのではないでしょうか。脚本作りの淡白さに対して、画面作りへの手間ひまのかけかたは、スケジュールの日程を考えても異常です。
五十年代の映画状況はジャンルがまだ活性化している状況でした。ジャンル固有の法則で映画を撮る。年間に何百本もの同じジャンル映画を撮り続ける。忠実にジャンルを遵守し反復し続けることでそれは、物語の説話体系が意味をなさなくなり、やがて単調なフィルムの物質性が顔をあらわすでしょう。彼らは物語という言語体系や、理解に訴えかけるのではなく、ウォーホルさながらにスクリーンの上をフィルムという物質が機械的に流れるだけでいいのではないかという唯物的な世界をあらわそうとするでしょう。三隅研次の『大菩薩峠』が面白いのは内容ではなく、目が見えなくなり、体も不自由になった市川雷蔵の身体の束縛された動きや、洪水(標高の高い山頂に、何故か洪水が来るのです)がフィルムであらわれたときの水の物質感です。大量生産された時代劇の面白さは、この先何が起こるか分からない的な物語の快楽ではなく、無内容に形式化された映像を反復して見続けるという退屈さに快楽や面白さを感じるようになる。それはフィルムが無内容にただスクリーンを流れ続けることに快楽を感じる『眠る男』のような物質的経験です。一秒間に二十四分の一コマで動くカメラの機械的な自動性や、フィルムの物質性に快楽の焦点が移っていくのです。よく映画は視覚ではなく触覚芸術だという言われ方がされますが、それはフィルムのざらつく感じが触覚性を喚起させるので、そういう風に言われるのでしょう。映画の触覚的経験は映画をドラマではなく、フィルムという物質的側面に快楽を感じるということなのです。
写真を成立させるのに必要なことが作家的主体性ではなく、正確に動く機械の機能性や、フィルムや印画紙を正しく扱うための科学的知識や物質性であるように、大量にB級映画を排出していた五十年代の監督もまた、作家的主体や物語の重点を置いていたのではないと思うのです。年間に何百本も撮られ続けることで、ジャンルの反復が生み出す物語の説話機能の停止。物語が有効に機能せず、カメラの記録機能が役者を無意味なフォルムに成り果てさせる。そんな映画の姿を肯定していたのではないでしょうか。それはモンタージュの生み出す虚構性ではなく、カメラやフィルムという映画表現の下部構造が生み出した、記録機能の暴力性と、フィルムの退屈な物質性を愛していたのではないでしょうか。
彼らはドラマを作ることよりも、画面の細部をどうするかに夢中だった。テレビドラマでは考えられないことですが、彼らはワンカット毎に照明を変え続け、コントラストをつけるためには木の葉っぱ一枚一枚に色を塗り続けるそんな手間暇を惜しまないぐらいに画面にこだわっていたのです。そんな映像の細部にこだわるといのは、映像を物質としてまた、触覚芸術として考えていたからでしょう。ストーリーの観念性ではなく、セットや、小道具や、場所や、空間という現実の細部にこだわる。それは現実が生み出した退屈な物質的スペクタクルです。現実の物質的な退屈さを隠そうともしない五十年代の監督達は、ウォーホル的な退屈さを肯定するでしょう。
小津安二郎の撮る工場の外観(その工場の風景を探すために、三ヶ月ぐらい毎日八時間歩き続けたそうです)のミニマル性や、『秋日和』での誰もいない階段や娘の部屋のショットは、意外にウォーホル的な退屈さと共鳴しているのかもしれません。それは物質的な退屈さが画面に露呈することの共鳴です。
テーブルに置かれた手前と、後方のビール瓶が同じ高さになるという現実のパースペクティヴを拒否して、映画的パースペクティヴを要求した小津安二郎は、まるで工場製品を完璧に管理する製造責任者のようです。工場製品として小道具や役者の身体を見ていた小津安二郎は、人間をフォルムとして見ます。そしてフォルムでありながらも、小津は対象を抽象化しない。対象はフォルムに還元されながらも、それは抽象化されたフォルムではなく、抽象化に抗い続け、具体性を手放さない頑強なフォルムなのです。背景の障子や、窓枠、たんすがフォルム的に再配置されながらも、その物の物質性は手放さない。工業製品のようなフォルムでありながらも、個別的具体性を放棄しない小津安二郎の映画は、フォルムの持つ抽象的な美学な領域には決して回収されないのです。
彼らは物語ではなく、カメラや、録音機や、映写機という機械に対して忠誠を誓ったのです。映画とは人間が作るものでも、人間を撮るものでもない。記録機能の破廉恥な暴力性を無条件に肯定し、フィルムやカメラの無慈悲な物質性を無言で受け入れることです。それは物質固有の退屈さを賛美し続けることなのではないでしょうか。
『眠る男』はただカメラの録画機能に忠実なだけで、そこにはフィクションの欠片もありません。けれど見ているうちに、何だかそれは現実なのかフィクションなのか分からなくなる瞬間があります。本当に寝ている人間を八時間写しているだけのノンフィクションの映画なのですが、たとえ本当の現実を撮っていても、映像は何故だか知りませんが、写した対象を曖昧にさせる力があります。『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』でのハイジャックした飛行機が爆発するニュースフィルムの映像を見たとき、なんだかフィクションのように感じました。それは現実にその爆破現場を見るよりも、映像を見る方がリアリティーを感じる。現実とフィクションが逆転する奇妙なパースペクティヴ感におそわれるのです。わたし達が認識する現実というのはそれ自体がすでにフィクションなのか、それとも映像は現実とフィクションの領域を曖昧にするのでしょうか。
映像は現実とフィクションの境界を曖昧にさせます。映像と現実は地続きなのです。そしてわたし達の認識できる現実は、リアルな現実ではなく“もう一つのイマージュ”なのかもしれません。すると映画は現実を再現したイマージュではなく、イマージュを写したイマージュなのではないでしょうか。イマージュの二重化が映画なのでしょうか。人間の肉眼自体が一つのフレームなのであり、現実が最初にあるのではなく、わたし達の目前には現実よりも、フレームが先行して存在しているのではないでしょうか。フレームを通して現実を見る。それはだからつねに虚構しか見ていないのかもしれない。フレームを通さなければ現実をまともに見ることができないのが人間の肉眼なのではないでしょうか。そういう意味ではわたし達は最初から倒立したパースペクティヴの世界の中で生きているのです。
退屈の極みと言われる『眠る男』もスペクタクルから完全に自由にはなれません。途中に現れる猫の存在が単調な『眠る男』に対してスペクタクルを与えるのです。フレームを横切るようにして現れる猫の存在は、フレームの外から表われ、画面の真ん中を横切り、フレームの外に消えていく。加藤泰の映画にも何人もの侍が対決し、刀を振りかざしながら、フレームを出たり入ったりするアクションシーンがありますが、フレームの存在が映画に画面内と画面外という二つの領域を生み出します。それは虚構の領域としての画面内と、現実の領域としてのフレーム外という分断を導入します。虚構と現実が行ったり来たりすることが、映画が本来的に持っているスペクタクル性なのではないでしょうか。画面の中に収まりきるのではなく、画面の外を想起させることで、画面に内と外という二重の領域を出現させるのです。画面の二重化が映画に運動を生み出すのではないでしょうか。
ウォーホルの画面を横切る猫は、加藤泰の映画の侍たちと同じくらいアクション感を感じさせます。フレームを横切るというその運動が、映画にアクションを与えたのです。フレームの内と外を出入りすることができるのは、映画だけです。画面内にいる人間の動きをただ撮っているだけでは映画にならない。フレームを横切ること。映画にはフレームの外があるのです。そのフレーム外の現実もベルグソン的に言えば、もう一つのイマージュなのかもしれませんが、少なくともフレームの存在は、単数でしかない画面=イマージュを複数化することに成功したのです。長廻しの技法が虚構としての映画の時間に、現実の時間を対立させることで映画のフィクショナルな時間を分断したように、フレームの存在が単数として成立する映画の画面を複数化したのです。フレームはだから対象を一つの枠の中に収め込んで美学化する装置ではない。現実のある部分を切り取って一つの枠に収斂するのではなく、現実を複数化するための装置なのです。それはつねに対立を呼び込むための装置なのです。虚構と現実、または虚構ともう一つの虚構を対立させるための階級闘争の場を出現させるのがフレームの役割なのだと思います。
『ションベン・ライダー』(相米慎二)の全編にわたるワンシーン・ワンカットの長廻しを見ていると、フィクションという壁に守られていた映画の時間に、現実の生の時間が入り込むことで、映画のフィクション性が揺れ動き、時間の感覚が曖昧になる。その揺れ動く曖昧さが、劇映画が要請するクライマックスに向かって直線的に進行する物語の時間を棄却するのです。終わるような、終わらないような宙づりの感覚をおぼえさせる『ションベン・ライダー』に結末なんて必要ではないのです。『ションベン・ライダー』の要請する時間は、直線的に流れるという近代的な時間ではなくて、もっと原始的な時間なのではないでしょうか。それは川のながれのように上流から下流に向けて遡行する時間ではなく、沼地のように動いているのか動いていないのか分からない(ソクーロフの『精神(こころ)の声』が沼に棲息する鯰のような、そんな遅滞した時間を感じさせる長廻しでしたね)、微妙に揺れ動く時間のような気がします。
円環するような原始的な時間を持つ『ションベン・ライダー』の時間は、凡庸な映画の起承転結の時間では収斂できません。劇的なシーンが何もなく、ただ人物がロングショットの長廻しで画面の中に小さく蠢いているだけの映画ですが、それは起承転結に代表されるようなクライマックスに向けて時間が直線的に流れるという偽造された映画の時間とは、無縁な時間でした。木場の貯水湖に浮かぶ材木の上を走りながら、追いかけ合うシーンを筆頭に、フレームの中を人物が出たり入ったりするだけの映画なのですが、それはフレームの中という虚構の世界と、フレームの外という現実の世界が分断されたことで互いの領域を行き来できる。そのことが内と外を連続させ、虚構の時間と現実の時間が混濁してくる。フレームの外は当然見えませんが、フレーム外の現実をつねに想起させ続けます。そしてクライマックスに向けた直線の時間に収斂させるのではなく、長廻し特有の現実の生の時間、もったりとした時間が映画の時間を遅滞化させる。時間がいつまでも続くような『ションベン・ライダー』の長廻しは、スピーディーなカット割りで得られる壮快感ではなく、いつまでも時間が引き延ばされていくような快感をおぼえます。最近の映画の早過ぎるカット割りは、この時間の遅滞化に耐えられないのでしょう。三分以上の長廻しは、スピーディーなカット割りから見れば異常なぐらいに鈍いのでしょうが、映画はカット割りという虚構の速度と、長廻しという現実の鈍さが同居しているメディアなのだと思います。オーソン・ウェルズの『黒い罠』のトップシーンでの爆弾が破裂するかもしれないという状況設定の中での十二分間強の長廻しは、その長廻しの現実の速度が表象する鈍さにはらはらするのです。オーソン・ウェルズは虚構の速度と現実の鈍さを行き来できた監督なのだと思います。それは現実を排除することで映画的虚構を成立させるのではなく、現実と地続きに連続化することで、両者の時間をシンクロさせながら映画的虚構を成立させたのだと思いますし、速度に対して遅滞を導入するのが長廻しなのではないかと思います。
フレーム外とフレーム内という二つの領域を生み出したフレームは、さらに写した対象の現実の時間を凍結します。凍結することで停止された無時間の写真。そして凍結されたことで痕跡化された写真は、未来ではなく過去に向かって逆行し続ける。停止と逆行。そんな二つの領域をカメラのフレームが生み出すのです。現実の時間は写されたその瞬間に強制的に停止させられ、過去の領域に貯蔵されます。映像は写したその瞬間から対象を過去の領域に送りこむのです。それは現在をつねに過去化させる。現在を過去に刷新する。写真の時間は逆行的な時間です。過去に向かって遡及していく写真の時間は、つねに現在を痕跡化するでしょう。現在を回顧する基点として設定し直すのです。過去を振り返り続けることしかできない写真は現在に対して、つねに喪に服し続けているのです。現在に対してそれは黙祷し続けることであり、後悔し続けることであり、拘泥し続けることです。写真家とはだから現在と対象に対して、喪主的な立場に立ち続けることであり、永久に告別を執り行う存在ではないでしょうか。無数のさようならを写真は、繰り返し生み出し続けるでしょう。現在と対象に対してさようならを言うためにシャッターは切られ続ける。写真家は現在と対象に対してさようならしか言えない無力な存在なのです。わたし達にできることは、喪の儀式を執り続けることだけではないでしょうか。無期限の喪中に服し続けるのが写真家だと思うのです。
金村修

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