Workshop SiteHomeNewsStatementsReportsExhibitionInformation
Statements / 2015年4期10月12日〜12月14日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2015_04
ステートメント
テーマやコンセプトというロジックに依るのではなく、写真を撮る欲望と快楽に取り憑かれていたダイアン・アーバスは、最終的に写真をコントロールできなくなったのではないでしょうか。知的障害者を撮った最後の写真集『Untitled』を見るとそんな気がします。知的障害者を撮った理由も、彼らを撮ることで社会に何かを訴えたいわけではない。撮りたくなったから撮った、そんな風に見える写真集です。テーマが先行している写真集の場合は、写真はそのテーマに沿って撮影すればいいわけで、言ってしまえば写真はテーマを視覚化するための手段です。文章に添えられる挿絵みたいなものですよね。けれどアーバスのこの写真集は知的障害者を撮ることで、こういうことを訴えたいというメッセージが欠如している気がするので、テーマを視覚的に支えるという、テーマの手段に写真が変質することを拒否している感じがします。テーマがよく見えてこないので、アーバスが知的障害者を何故撮りたいと思ったのか、その動機は謎のままの写真集です。
『An Aperture Monograph』がフレームの中に対象をきっちり収めて、シンメトリー的に表現されているのに対して、『Untitled』はフレームの切り取りや被写体との距離の取り方がかなり曖昧です。対象との関係を思いあぐねているのでしょうか、何だか遠慮がちに距離をとっているような感じがします。『An Aperture Monograph』のような強引さがない。それはフレームの中に対象をきっちり収めるという構図的な発想ではなくて、フレームに入ろうが入らなかろうがどうでもいい、そんな構図やフレームのことよりも、ともかくただ現場でシャッターを押し続けていたいという欲望と、どう撮っていいか分からなくて、確信を持てずに困惑したままシャッターを押し続けているという、そんな高揚と不安が入り交じった気持ちを感じさせますね。ずうっとシャッターを押し続けていたいという気持ちは、確かによく分かります。それにシャッターを押しているときは妙に興奮していて、対象がフレームに上手く収まろうと収まるまいとどっちでも構わないみたいに、フレームのことなんて考えないものです。ファインダーを覗いている快感がそんな気持ちにさせるのかもしれませんが、シャッターを無闇に押していると、シャッターを押すこと自体が妙に気持ちがよくなる。シャッターを押す指が快感を覚えるというのですか。そんな指の快感が、構図のことなんてどうでもいい気にさせるのかもしれません。そして確信を持ちながらも、まったく不安にもなるという二律背反的な姿勢も、撮影現場ではよくあることだと思います。だからたくさんシャッターを押すというのもあるのですが、高揚と不安の両極を行き来しているかのようなアーバスのそんな姿勢が『Untitled』に表われているのでしょうか。 踏み込んでいるような、いないような、そんなどっちつかずの姿勢を維持するのは写真家にとってそれは重要なことだと思います。撮影とは決定ではない。つねに今決断した決定が、すぐその後にひっくり返る。この距離でいいと決断してみても、次のカットで今度はもっと引いた距離で撮影してしまい、後で両方とも見直して、両方OKにしてしまう優柔不断が写真家の特徴だと思うのですよね。コンタクト・プリントを時間が経ってから見直すとみんな面白く思えてしまうし、実際に面白い。ロバート・フランクが落としたプリントで、もう一度あの名作『アメリカ人』を再構成したのもよく分かる話です。写真には面白さの決定的な基準がないのです。撮ってしまったものは、みんな面白いという考えようによっては、選ぶという能動性が欠けたひどく退屈な芸術だとも言えます。作品のクオリティーに対して明確な基準がない写真のその本質に忠実であるなら、アーバスの『Untitled』のように、優柔不断な態度に陥るのは当然のことだと思います。
暗室でのプリント作業にも撮影現場のような身体的な快感というのがあります。バットの中の印画紙に直接触れたり、撫でてみたり、ピンセットで印画紙を摘んだりするときの指や手の快感です。写真だけでなく、文章とかにもそういう身体的な快感があるのではないでしょうか。大江健三郎の生原稿を見たらか“『”が、万年筆で真っ黒に塗られていました。言葉をただ伝えるだけならこんな塗り絵みたいな作業なんてやらなくてもいいと思うのですが。書くとか撮るとかっていう目を使用する比重が多いと思われる作業でも、身体的な比重の方が目よりももっと重要だったりするのです。頭をあまり使わない、体を動かすのが主の作業ですが、写真はどちらかというと頭でテーマやコンセプトというロジックを考えているよりも、指でシャッターをひたすら押し続けていたいという無意味な身体的動作の方が重要だと思いますね。
知的障害者を撮りたいというというアーバスの欲望は、誰にも分からないし、多分アーバス本人にも分からなかった欲望でしょう。欲望や快楽というのは自分の内部にあるものではなく、外部からいきなり何の説明もなくやってくるものです。なんで自分がこんな欲望を持っているのか説明できるような欲望は、欲望なんかではない。例えば無闇にカメラのシャッターを押し続けたいという欲望は、説明不可能な欲望です。説明不可能という意味では、欲望や快楽は無意識的な存在なのでしょうが、ある種の無意識のように日常の抑圧された経験が構成されているわけでもないし、ましてその抑圧が圧縮されたり転移したりして象徴的に現れるわけでもない。因果関係だけでは説明できないのが欲望だと思うのです。アーバスの自伝を読むと彼女には色々な経験があったようですが、それらの経験だけが彼女に写真を撮らせた動機ではないと思うのです。鬱病を煩っているのが原因でフリークスを撮るなんていうそんな俗流のフロイト的な考えで欲望は理解できません。それに欲望というのは知性で分析できるものではない。あらゆる行動パターンに原因があるという考えは、欲望を原因の奴隷にする発想です。
結果や原因と言う因果関係に回収されない欲望や快楽は、ほとんどそれ自体で成立しているように見えます。例えば欲望や快楽に取り憑かれたシリアル・キラーに、殺人を犯させてしまう動機や根本的な原因なんてあるのでしょうか。彼らは殺したいから殺しているだけで、その欲望は自然のように完璧に充足しています。アンナ・カヴァンが『ジュリアとバズーガー』の中での、黒豹についてそれは完璧な存在だったと書いていたように、原因や結果や目的という因果関係から解放された黒豹の存在は、それ自体で完璧なバランスを持っているのです。シリアル・キラーはだから黒豹と同じ存在なのです。彼らの殺人に原因はないし、内面や精神もありません。完璧で美しいバランスを持っている黒豹のような欲望に内面や精神の支えなんているのでしょうか。欲望はそれが成立するための動機や根拠なんて関係なく成立しているのですから、内面や精神や心理なんて必要ではないのです。欲望は気が付くと最初からそこにあるのです。内面や精神が外的な要素で後天的に作られるものなら、欲望は最初から、内面や精神よりも先に存在するのです。欲望が内面や精神を創作すると言ってもいい。ではその欲望はどこから来たのかというと、それは最初からそこに存在していたとしか言えないものです。欲望は人間の存在よりも先に先行しているのですから、それは人間には分からない。
欲望を“わたし”が所有することができません。欲望がどんな風に生まれてきて、育っていくのかよく分からないし、欲望の本当の所在地も分かりません。欲望は“わたし”の内面に、“わたし”の意志で発生するものではなくて、突然どこからか現れて、“わたし”を気が付いたら支配しているもののことです。“わたし”は欲望を所有できない。高橋源一郎の小説『虹の彼方に』の“わたしがするわたしの話の真の所有者を『虹の彼方に』に決定する”ように、欲望は“わたし”の領域に収まるものではありません。『虹の彼方に』という誰も見たことのない彼方の場所にしか存在しないのです。欲望はつねに未決定な存在であって、どこの審級にも存在しないエーテルのようなものではないでしょうか。だからどんな風にも見えるし、見ることができる。見た人によって虹の彼方の場所がまちまちに差し示されるように、欲望は見たいというその人の意識の沿って表われるものだと思うのです。どんな物語的な分析にも文脈にも合致するのですが、どんなにその物語にぴったりとはめ込まれているように見えても、決してその場所にいないのが欲望です。欲望には分析者をある物語の中に呼び込もうとする魅力があるのでしょう。そんな分析者が発見する欲望の所在と原因は、発見したのではなく、実は欲望によって発見されたものです。Aとして現われてほしいのなら、Aとして現われ、Bとして現われてほしいのなら、Bとして現われる。欲望は他者のそんな希望に十全に応えるのですが、その発見された答えの中には決して存在しないのです。分析者が発見した欲望の在り処は、分析者の頭の中を鏡のように映しているだけなのです。
占拠した銀行の中で、人質の行員を前にして“俺は気違いではない。ただ善と悪をわきまえないだけだ”と豪語した梅川照美もまた内面や精神とまったく関係のなかった人でした。彼は善や悪を根拠付ける人間の倫理なんて所詮内面や精神が生み出した幻影だと思ってこんな発言をしたのでしょうか。彼が“善と悪をわきまえない”のは、善や悪を区分けする必要が彼にはなかったからです。善も悪も一緒くたに見える理由は、善悪の概念を形成するための超越的自我が彼には欠けていたからでしょうか。善も悪も同じように見えるというのは、善と悪を区別する場所に立ったことがないということです。例えば自分や他人の行為が善か悪かを判断するのは、自分や他人の行為を一度離してみて、客観的に見る。その生起した行為に対して、距離を取って見ることだと思うのです。距離を取って自分や他人の行為を眺めるというのは、自分の内面に遠近法や他との比較という装置を持ち込むことですよね。遠近法を通してその行為を見て、それを幼児期に形成された超越的自我に照らし合わせて善か悪かを判断する。梅川には超越的自我という父のような存在が形成されていなかったようです。それはだから善と悪を判断するための基点が存在していないことであって、基点が分からなければ遠近法なんていう装置を持ち込めるわけがありません。世界は彼にとって、遠近に欠けたノッペラボウみたいな光景に見えたのでしょうか。
梅川は十五歳のときに最初の殺人を犯したのですが、そのとき母親は徹底的に彼を庇い続けました。“わたしの息子は何も悪いことをしていない。わたしの息子が悪いことをするわけがない。”と何の根拠もなく庇い続けたのです。彼女の発言の中で根拠らしきものと言えば、梅川照夫はわたしの息子だからだという薄弱な理由だけです。“わたしの息子が悪くないのは、それがわたしの息子だからだ”というそれはトートロジーですが、根拠がトートロジー化してしまうとその根拠自体が根拠ではなくなってしまいます。“わたしの息子が悪くないのは、それがわたしの息子だからだ”というその根拠は、“わたしの息子だからだ”を繰り返すだけでして、その根拠はもう根拠とは呼べない代物に変質します。そんなトートロジーで庇われ続けた梅川には、善と悪をわたしの判断で決められると思い込んでも不思議ではない。何しろわたしの息子だから、俺(梅川照美)は悪くないのです。それなら何をしようと構わない。善悪の判断基準は俺にあるのです。善と悪を決定すべき超越的自我がないまま、欲望が剥き出しになる。その剥き出しになった挫折を知らない欲望が、クロウリーの“汝の欲する所を為せ、それが汝の法とならん”とばかりに欲望を無制限に肯定しろと彼に命じてしまったのです。“汝の欲する所を為せ”の梅川にとって依るべき根拠は、ただ自分の意志だけです。そして自分の欲望が世の中の法になる。自分の思い込みと意志だけでそれは、世界を成立させることができるのであり、意志の力を現実化、物質化する魔術師の立場と彼はほぼ同じ位置にいます。
“わたしの息子が悪くないのは、それがわたしの息子だからだ”と意味の喪失した呪言のような言葉を何十回も唱えていればそれが現実に実現してしまう。実現しなくても実現しているように見える。梅川があまりにも楽観的に銀行強盗を計画したのも、すでに彼の頭の中で銀行強盗は成功していたのです。意志の力が現実化、物質化すると思っていたのでしょうか。強盗直前の彼の行動は散髪屋に行ったり、帽子を新調したりとまるで不安がありません。彼は自分の意志を信じていたのです。“汝の欲する所を為せ、それが汝の法とならん”のなら、自分の計画した銀行強盗が万が一にも失敗することがないのです。世界は梅川にとって欲望の対象として表われます。それはコミュニケーションの対象でも、調和する対象でも、親和的な関係として表われる対象でもありません。わたしの欲するものとして表われる世界です。わたしの欲するような世界では、失敗はありません。そしてそんな欲望の対象でしかない世界に対して、善や悪の判断が必要でしょうか。
“わたしが悪くないのは、それはわたしだからだ”という危険なトートロジーに陥った梅川が、自分のやったことはすべて許されると思ってもそれは当然でしょう。だから“善や悪をわきまえない”のです。わきまえるべき理由や根拠というのは、わたしの判断、わたしの意志が決定するのです。わたしのやることがすべて正しいのなら、もう世界には善も悪もありませんし、他者の存在もない。そんな彼が世間に対して一体何をわきまえろというのでしょうか。ニーチェの超人思想に心酔していた梅川にとって、銀行員なんて『権力の意志』に書かれているような愚味な民衆でしかない。愚昧な民衆に何を躊躇する必要があるのでしょうか。現に彼は警察に連絡した支店長を“おまえが警察に連絡したからこうなったんだ”とためらいもなくすぐに発砲し、射殺しました。銀行強盗の失敗は支店長や警察官のせいであり、自分の意志を現実化することを阻む者を、射殺するのは彼にとっては当然の処置でしょう。
超人とはすべての判断を道徳という既成の判断材料から選択するのではなく、どんな先例にも照合せずに、ただ自分の判断だけで決定します。善悪を決定していたそんな道徳がニーチェの言うように弱者の歴史なら、善悪を判断する根拠は、弱者の判断と決定の歴史を参照にするのではなく、強者としての“わたし”が決定するというのが超人です。そしてその判断の根拠はもちろん“わたし”です。むしろ超人というのは、根拠なんていうものを必要としない人種なのです。根拠がなければ決断できないというのは、道徳に頼ることでしか善悪の判断をつけることができない弱者のようなものなのです。 つねに善悪の判断を自分で決定するしかない梅川は、写真家や芸術家とほとんど同じ領域にいますね。写真家も自分の創った作品の善し悪しを、自分で判断するしかない存在です。他人が悪いと言ったからその作品を創るのを止めてしまう人間は、とても写真家や芸術家とは言えません。作品を創作するあらゆる根拠は自分でありますが、けれどその根拠であるべき自分が、『虹の彼方』のように未決定なのです。まして対象への依存度が他の芸術よりも強くて、何も考えないでも意外にいいものが撮れるという写真の場合は、他の芸術家よりも更に自分の存在が薄弱です。写真の場合は、空っぽな“わたし”が日々作品の善し悪しを決定しなければならないのですから、その決定とはその場しのぎのものでしかない。梅川の安易な銀行強盗とそれは、その場しのぎという意味ではあまり変わらない気がします。彼がこの銀行強盗は必ず成功するというのと、写真家がこの写真は素晴らしいというその確信の根拠は、自分が成功すると思えば成功する、素晴らしいと自分が思えば素晴らしいという意志の力であって、そして何でそんな誰の承認も得ていない意志を確信できるのかというと、その理由は五里霧中です。多分その理由はどこにも存在しない。梅川と写真家は、未決定の闇の中でつねに判断と決定を繰り返します。それが成功なのか失敗なのか分かりませんが、欲望がそれを強要するのです。そしてその欲望が何を欲しているのかは、その欲望に取り憑かれた本人にだって分かりません。
彼はつねにサプリメントを飲み、体に良いものしか食べず、毎日体を鍛えていました。節制されたその生き方には、けれど何のための節制なのかという目的が完全に欠けていました。節制というのは、未来に向けて自分が立てた目的を達成するために今現在に湧き起こる欲望を抑制し、節制に励むのですが、そんな努力に励む彼はどんな未来を描いていたのでしょうか。“三十歳までにはデカイことをやる”という刹那的な決意以外に梅川の未来のヴィジョンを示すものがありません。先駆的な覚悟で未来に向けて肉体の鍛錬を励んでいる彼の未来は、三十歳というきわめて限定された未来でしかないのです。そんなもの未来なんかではない。未来なんて考えないで彼は日々節制に励んでいるのです。そして彼の言うその“デカイこと”とは抽象的過ぎてヴィジョンとして成立していない。彼の言う“デカイこと”は、その内実を提示するわけでもないし、“デカイこと”を起こした先人達の歴史に連なろうとするわけでもない。彼の言う“デカイこと”のデカさは、歴史や他者が決定するのではなくて、ただ彼が決定する“デカイこと”なのです。だからその“デカイこと”は、何の比較対象もないので、規模や大きさがわからない空中楼閣でしかない“デカイこと”なのです。
“デカイこと”というヴィジョンに自己の可能性を投げかけるわけではない。彼は何も投げかけません。まだ生起していない未来に向けて自己を投げかけ続けるのが人間の本質だと誰かが言っていましたが、ヴィジョンを成立させるための具体的な目標がないから、いつまでたっても場当たり的にしか動けない。けれど何故か彼は妙に自信たっぷりだし、自分のそんな姿に恍惚としている。可能性がないこと、未来がないこと、彼にとってはあるのは今現在しかなく、点としてしか時間を把握できない。今現在だけが彼の行動原理であり、彼にとって現実は、今現在しか存在しないのです。明日のために今日や、昨日の続きとしての今日があるのではなく、今日のための今日しかない。今日の外延として存在する昨日や明日という概念を持っていないので、今日はまさに誰ともつながりを持たずに特権的に孤立している。昨日や明日という記憶や連想の関係から自由になった今日は、まさに“時の極点”(ワーズワース)です。極点としての時間は計測することができません。点が物理的に直線上を流れるのではなく、ただ点が継起し続けるだけの梅川の計量不可能な時間観念は、ベルグソンの言う“純粋持続”です。
籠城の時点ですでに四人も殺している梅川は、捕まれば当然死刑です。だからそんな彼にとって銀行強盗は、再現不可能の事件であり、一回きりの“極点”です。そんな点としての時間を早川義夫は“線はつながるけれど、点は爆発する”と『ラブ・ジェネレーション』で書いていましたが、梅川の銀行強盗は、点の爆発としての銀行強盗ですね。だから銀行強盗で行内に籠城しても何も対策を練らないし、囲んでいる警察に対しても食べ物以外は何も要求しない。今現在のことしか頭にない梅川は今しか考えられないのです。対策なんていう未来のことなんて知ったことではない。その意味で彼は徹底した超人です。彼のように目的のない生“生命のなかにある過度な感じ、暴力的な、全く生命それ自身のためとしか説明のつかない無目的な感じ”『仮面の告白』(三島由紀夫)を生きるものだけが超人なのです。
今現在しか存在しない梅川にとって弁別や分類などをしている余裕はないのです。彼は考えるのではなく、つねに経験を一義的に優先します。その経験を振り返って反省したり、内省したりしない。何故なら反省というのは今現在の地点よりも高い位置、メタ・レベルの立場に立ち、過去を俯瞰することで可能になる遠近法的な意識ですから、経験を最優先する梅川にそんな過去を眺めるような場所なんてありません。彼には過去も未来も存在しないのです。彼は今日しか生きられない。今現在という瞬間しか生きられないのです。そんな梅川に反省や悔恨なんていう意識が生まれるでしょうか。反省的な意識が欠如した梅川には、理解とか分析という近代的な方法意識も最初から放棄されています。理解や分析は反省意識と同じように、今現在から遅れた地点で発生する意識でして、それは“遅れる”ことで可能になる意識なのです。“遅れる”ことで今現在の経験を相対化すると言うのでしょうか。梅川に今現在の瞬間から自分が立ち遅れ、落ちこぼれるなんていう意識に耐えられるでしょうか。今現在から振り落とされたくない梅川にとって反省や悔恨、理解や分析というのは唾棄すべき概念なのです。
彼が未来を暗示した言葉は、“三十歳までにデカイことをやる”というのと銀行強盗の前の日に雀荘で麻雀仲間相手に“明日は一日中絶対テレビを見ていろ“くらいのことでした。生起していない未来という場所や過ぎ去ってしまい今現在には存在しない過去という場所に立つことができない彼には、未来のヴィジョンや過去を振り返ることで生まれる反省なんていう意識が発生することはないでしょう。つねに経験という今現在でしか生きることのできない梅川にとって、過去を頭の中で再現して、その再現されたイメージを見ることで生まれる反省なんて興味がなかったのです。
“「物質と記憶」では、私という意識の代わりに、私という肉体が取上げられた”『感想』(小林秀雄)ように、梅川にとって重要なのは経験であり、その経験を受肉化する肉体がだから重視されるのです。彼は偏執狂的なくらい肉体の鍛錬に励みました。けれどその鍛錬は永遠に今現在の肉体でいたいための鍛錬です。過去を消去していつまでも今現在でいたい。過去の痕跡を拒絶した永遠の今現在としての肉体です。それは永遠の現在をいつまでも維持することなのです。現在はつねに過去に呑まれていくという通常の持続的な時間に対して彼はどう思ったのでしょうか。中途半端にいれた自分の胸の入れ墨を見て、過去の思い出を回想するときが彼にはあったのでしょうか。マドレーヌや薔薇の匂いを嗅ぐことで一挙に過去のすべてを思い出すプルースト的な記憶の湧出に、彼は敵対するでしょう。彼にはプルーストのように連想も回想もできない。過去とは彼にとって出来事の意味のない連鎖でしかなく、必然性に欠けたその連鎖は、連想や追想、回想のように、体系化されることがないのです。楽しいことがたくさんあったようなのですが(彼はかなり甘やかされて育っています)、それが意味をもってつながってこない。だから過去を回想することで至福の領域に入れるプルーストのそのような時間の持続に対して彼は苛立ち、“三十歳までにデカイことをやる”と周りの友人達に言い続けたのです。
彼はかなりの甘えっ子だったようなので、楽しい思い出もいっぱいあったろうし、それらが過ぎ去ってしまえば、普通そのような出来事は、思い出として記憶の中に備蓄されるのですが、彼はそれらの記憶をなかったものとして扱います。甘美な記憶の海の中で彼は、プルーストのように耽溺することができませんでしたが、悔恨や後悔を覚えることもなかったようです。過去を想起することは甘美なことだけではなく、悔恨や後悔という意識も発生します。例えば死んでしまったという不在の悲しみが、悔恨や後悔の意識を発生させます。悲哀にくれる喪の儀式は、悔恨や後悔に拘泥することで死者との思い出を強く深まらせて、そのことが彼岸と此岸の距離を限りなく近づけるのです。記憶はだからプルーストのように、甘美だけではなく、悔恨や後悔という苦みの感覚を呼び起こします。そんな記憶をなかったものとして扱う梅川に、悔恨や後悔という意識が形成されるのでしょうか。
悔恨や後悔の意識が欠けた梅川に、死なんていうものは存在しません。死のない人間には、生も存在しない。彼が“善と悪をわきまえない”のは、ある意味当然なのです。彼にとって世界はフラットな平面でしかないのなら、生と死、善と悪という領域は最初から消失しているのです。生も死も彼にとって羽毛のように軽い。それなら自分の生死だって彼にとっては軽いはずです。“三十歳までにデカイことをやる”と口癖のように語る彼のその決意とは裏腹のヴィジョンの欠けた軽過ぎる言動は、自分の死をまるで紙屑のように扱っていた証拠です。彼はだから生き急いでいたわけではない。ただ自分の生というものに対して何の感嘆も持っていなかっただけです。
過ぎ去ってしまったものの不在を嘆くのではなく、ただなかったものとして扱うその姿勢は、意識的な記憶喪失です。彼は必然とか原因とか自己とかに興味をまるで持っていなかったのかもしれません。過去や生きることへの執着の欠如と己の肉体に対する度を外れた執着というこのバランスの悪さは、この意識的な記憶喪失が理由なのでしょうか。彼は少年院を出獄するとすぐに故郷を離れて大阪に行きました。それは自分の素性を隠すためと、今までの自分をゼロからリセットしたかったのかもしれません。過去のことはほとんど語らなかったという梅川は、徹底的に過去を抹消したかったのでしょう。過去という不在の存在に縛られたくなかったのでしょうか。
梅川は不在のものに対しては何ら執着心をみせません。彼には不在という体験が欠如しているのでしょうか。例えば赤ん坊がお母さんの乳房をいつまでも吸っている状態は、全能感あふれている状態です。そしてその全能感を供給し続けてくれる乳房から口を離されるとき、その感じていた全能感にある欠如の意識が表われてきて、始めて不在という感情を覚えます。彼はいつまでも全能感を味わっていたかったのでしょう。だから意識的に不在の確認を拒否し、いつまでも記憶喪失を続行し続けていたのです。不在の意識は必ず悔恨と後悔という意識を発生させます。梅川は徹底してその悔恨と後悔という意識から顔をそらし続けていました。不在がなければ、悔恨も後悔も反省も何も生まれません。彼は不在を意識的に拒絶し続けていたのです。 “誰もが、「失われし時を求めて」即座にこれを得るのは、心理生活とは、断絶のない記憶の流れに他ならないといふ事実の経験によってだ。過去は絶えず現在に延びており、現在は絶えず未来を押している。意識にとって、生存しているとは、この持続のうちにあって、自らを育て、自らを創っている事だ。内省が摑むこの根底的な心理事実が、あらゆる内生活の開始であり、原因である”『感想』(小林秀雄)。今現在しか存在しない彼にとって内省が生まれる余裕がありません。内省は過去という領域を定位させることで生まれる意識です。彼に内省が存在しないのは、媒介なしで直接世界を経験して生きているからであって、自分の中に内面を生み出す外部とのズレが、外部とわたしのズレが存在しないのです。全能感にあふれる彼が、不在を意識的に拒否したように、そのような世界とのズレもどこかで拒否しようとしています。もしどこかでズレが生じてしまったら、それはすべて他人のせいなのです。彼はだから本当の意味で子供のようですね。子供には過去も未来もありません。過去や未来というのは、不在を言葉で説明することでつくられた概念です。今は存在していないけれど、かつてはあったと、今はないけれど、これから何かが生起するという過去や未来の概念は基本的に言語によって構成された意識だと思うのです。満ち足りている子供に過去がないのは、目の前から何もなくなっていないからです。食べ物を食べてそれがなくなってしまえば、すぐにお母さんが補充してくれる。お母さんがたまたま席をはずしたら、大声で泣き叫べばすぐに駆けつけてくれる。彼らには目の前のものがないという世界とのズレや不在を言語的に表明する必要がないし、そんな経験もしていないので、彼らにあるのはつねに満ち足りた今現在だけです。その意識は梅川の意識とそっくりなのではないでしょうか。
内省という意識が生まれるのは、目の前のものがなくなるという不在の体験から生まれてくるのです。“いない”という言語がむしろ不在の感覚をつくるのかもしれませんが、“いない”という不在の体験は、今現在という満ち足りた時間に孔を開けるでしょう。不在の体験は、今現在という時間が過去の領域に流れていくことを了解することです。今現在というのは、ある大きな体系的な流れの中の一部でしかないのです。それはアイデンティティーいう大きな体系の中での一部なのです。今現在がアイデンティティーという体系の中で相対化されるのです。それは全能感あふれる輝かしい今現在の特権性が剥奪される瞬間なのです。
今現在というそんな特権的な時間しか生きられない梅川に、時間のそんな相対化が可能なのでしょうか。経験を一度相対化というテーブルに乗せて、吟味や分析したりする必要を彼が感じるでしょうか。点の継起による純粋な持続時間を体感している梅川に時間とは流れるのものではなく、塞き止められて動かない沼のようなものであり、それは断絶です。“心理生活とは、断絶のない記憶の流れに他ならないといふ事実の経験”なら、彼に心理生活が成立することは永遠にないでしょう。“記憶の流れ”を塞き止め、因果関係を断絶する梅川には、時間から派生する心理が存在しない。“生存しているとは、この持続のうちにあって、自らを育て、自らを創っている事”なら、彼が自らを創りあげることもないでしょう。生存のための“この持続”を選ぶぐらいなら、彼は銀行で“ソドムの市”を再現することを喜んで選択するはずです。
ストイックなぐらい肉体に対して節制し続け、つねにいい服を着て、故郷に帰省したら必ず近所に高価な数の子を配って歩くその世間に対するアプローチは、何か見返りを求めてのアプローチではない。彼はアプローチするだけで充分満足しているのです。周りに何かを施すことで周りの人間よりも優位に立つ。他者よりも高い立場に立つ。ただそれだけのことです。意味もなくただいい格好がしたいだけなのです。そんな彼の行動は、ほとんど一人ポトラッチです。
彼が行動する原理は、“三十歳までにはデカイことをやる”というそんな破滅的な消尽しかありません。そしてその行動原理には、未来が存在しない、破滅を無意識に望んでいる梅川にとって消尽こそが欲望だったのでしょうか。誰よりも人の上に立ちたい、いい格好をしたい梅川は、借金をしてまでもチップを渡し、高価な贈り物を贈るという破滅的なポトラッチを続けます。そんなポトラッチを続けている人間にとって最後で最大の贈り物は、自分の生命でしょう。生命はもっとも高価な贈り物です。けれどそんな生命も彼は警察の狙撃グループに簡単に差し出してしまいます。
“世界-内-存在”というのは、その世界に慣れ親しむという意味のようですが、慣れ親しむことのできない世界の内部に存在しなければならない梅川にとってその世界内では、一人でいるしかない。人間の本質や内面や精神は、世界内の他者との関係の網の中で形成されるものですが、関係の網から外れた梅川に本質や内面や精神を形成することが可能でしょうか。慣れ親しむことのない世界で彼は何を形成すればいいのでしょうか。彼に内面や精神なんて存在しないのは、自己の欲望を実現するのには邪魔な概念でしかないからです。彼はだから籠城の最中に母親から説得の電話がかかってきたとき、すぐに切ってしまいました。母親の存在が唯一彼に多少残っていた精神や内面を彷彿させてしまうからでしょう。彼はただあるリミットを超えることでしか、自己の存在を確認できない。そしてそのリミットを超えることで欲望と出会う。
内面や精神を持たない梅川照美は彫像のようで、ある意味金髪の野獣ラインハルト・ハイドリッヒのように美しい。そして帽子をかぶりサングラスをして、猟銃を肩にかけた彼の姿は、カヴァンの黒豹のように美しい姿です。銃で撃たれ血だるまになって仰向けで担架に運ばれる姿があんなに絵になる犯罪者も珍しい。梅川照美やカヴァンの黒豹に内面や精神なんていらないのです。反省や内省なんていう近代的意識に彼らのような美しさはありません。梅川が美しいのは、反省なんていう“さかしら”(小林秀雄)なことを言わないからです。
“欲望というものは機械であり、諸機械の総合であり、機械的<仕組み>である”とドゥルーズは言いました。機械に内面や精神なんてあるのでしょうか。梅川は欲望の“機械”だったのです。欲望とは機械であり、スピノザの言うような“自然”です。彼らはそれ自体で完璧に充足しているのです。充足しているから誰とも慣れ親しまなくても気にならない。機械に親しみなんてありません。慣れや親しみは欲望と敵対します。欲望はそのような関係の網を破壊するのです。特に役割が前提となっている関係性に欲望は敵対するでしょう。例えば家族制度なんかがそうですよね。父-母-子という家族制度は、欲望を抑圧します。父-母-子という役割を演じさせることで、本来無定形である欲望に役割という形を与える。欲望にとってそれは抑圧なのです。関係性を維持するために、家族という共同体のためにその役割を演じます。けれど欲望は欲望の充足にしか興味がありません。欲望にとってそんな“ために”は邪魔な意識なのです。そんな欲望にとって役割に基づいた関係は、欲望を十全に表現できない邪魔な関係でしかないでしよう。形を与えられることを拒否する欲望に忠実について行くことは、あらゆる社会的な関係を破壊することになります。内面や精神を破壊し、アイデンティティーの確立を放棄させ、自分の存在がすり切れてなくなることを欲望は要求します。
内面や精神を欠いているなら、欲望は外部からやって来るのです。“わたしについて来い”と欲望は言うでしょう。自分の意志ではなくて、欲望という自分を超えたそんな外部からの声に誘導されてアーバスは写真を撮っていたと思うのですよね。知性で写真をコントロールしていたわけではないと思うのです。アーバスにとって写真は欲望です。写真をイコール欲望として考えると、欲望をテーマやコンセプトというロジックや知性でコントロールしようとするそのような行為は欲望の肯定ではなく、それは欲望のやっぱり欠如だと思うのです。知性は欲望と対立します。欲望は理解されることに興味を持ちません。理解された欲望というのは、コントロールされた欲望です。それは資本主義社会下での企業の文化戦略に乗せられ、コントロールされている消費欲望とあんまり変わらない。そんな消費欲望は欲望の残骸というか、欲望が欠如した状態ですよね。
知性は欲望を事後的にしか発見できないのです。だからそれはいつも遅れて見出されるもので、つねに何かが足りない感じで発見されます。知性による欲望の把握は、だから欠如という形でしか欲望を表出できないのです。小林秀雄が作品の“感動”を言葉にすると“感想”になってしまうと言いました。知性は“感動”という体験を、“感想”という“感動”の欠如でしか語れないというのと同じです。欠如でしか欲望を語れない知性は、欲望に対していつかルサンチマンを抱くでしょう。それ自体で充足している欲望をコントロールし、自分の支配下に置くために、たとえば写真の場合だったら美学的な構図やフレーミングに、またはテーマやコンセプトというロジックを多用することで、欲望としての写真を知性という人間の領域に引きずり込もうとする。
コンセプト写真やそのロジックが面白いのは、そのコンセプトやロジックが面白いのではなく、コンセプトやロジックという知性で写真をコントロールしたいというその欲望が面白いと思うのです。そしてその知性に対する欲望はまったく知的ではない。その知性への欲望は、知性では理解できない欲望だと思うのです。アーバスは写真を知性でコントロールするのではなく、写真に自分がコントロールされていくことを肯定したのではないでしょうか。写真という欲望が主体になり、わたしが客体に入れ替わる。それは主体が放棄される快感ですよね。わたしが写真の手段になるのです。わたしの内面や精神がわたしを決定するのではなくて、欲望という外部の声がわたしを決定するのです。わたしの主体的根拠は欲望というわたしの外部にあるのです。
金村修

PageTop
© 2011-2014 KANEMURA OSAMU WORKSHOP
Home | News | Statements | Reports | Information |