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Statements / 2015年3期 7月13日〜9月14日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2015_03
ステートメント
撮っているときに自分は写らない。写るのはつねにわたしではなく、目の前の対象であって、わたしは絶対に写ることがない。ある意味写真はわたしという一人称の芸術ではなく、二人称を相手にした芸術だと思います。カメラは自分に興味をもたなくても、自分の内面を問わなくてもいい装置です。実際に自分を消すというのは難しい。けれど写真はカメラを構えれば、たちどころに自分を抹消することができる。“わたしにお尻があるのが恥ずかしい”と『ある指導者の幼年時代』で書いたサルトルの近代的自意識の問題が、カメラを構えると簡単に消去できる。実際ファインダーを覗いているときに、自分がどんな風に見られているかとか、今この対象を撮ろうと思うその内的根拠は何かとかなんて考えている暇がありません。写真は自分に何も問うことなしに、撮影することができます。自分が撮ったものなのに、なぜそれを撮ったのか分からないなどという無責任なことが言えるのは、写真だけです。絵画だったらそうはいかないでしょう。なにも考えずに成立できる、テーマなんて必要としない。何の根拠もなく成立してしまう写真は、その存在自体が非情に希薄で弱々しい存在だと思います。
ファインダーを覗いているときというのは、自分の存在が消えていますからね。目の前の対象に憑依しやすくなる、狐憑きみたいな精神状態に陥っているときがあります。犬を撮っているときは、犬に意識がすべて集中しているので、撮っているわたしという主体が犬の側に乗り移る。わたしという撮影主体がファインダーを覗き、夢中になって犬を追い続けることで、わたしの意識が犬の中に吸い込まれる。ファインダーを覗くことは、自分の存在を瞬間的に抹消させて、被写体の中に溶解させてしまいます。写真家はだから霊媒師とあんまり変わらない存在ではないかと思うのです。すぐに何かに乗り移れるというのですか、写真家にできることって、乗り移るぐらいのことなのではないでしょうか。覗いている対象をどうのこうのと、対象に対してコントロールができない、対象に対してつねに受け身の態度しかとれない、そんな写真家の存在に決して主体なんて存在しません。霊媒師の内面がいつも空っぽなように、写真家の内面も空っぽです。
いつも何かに“取り憑く/取り憑かれる”なんていう霊媒師的な態度を肯定する写真は、近代社会から見ればとても“悪”な存在なのではないでしょうか。主体性を放棄してしまうというのは、社会における自分の責任を放棄してしまうのと同じことだと思うのです。主体性の確立ってその人の権利ではなくて、義務でしょう?例えば主体と言うものがちゃんと確立されていることが前提として、刑法とかが成立しているわけではないですか。わたしはつねに何かに“取り憑く/取り憑かれる”存在なのだと言っていたら、何の責任も取ることができない。主体のない人に刑法なんて適用できないでしょう。わたしの顔や、わたしの身体は、わたしのものだという同一性に貫かれて社会は成立していると思うのです。わたしと対象の関係が曖昧で、わたしの境界が確立せず、主客の領域が不明瞭なままなら、はたして社会は成立するのでしょうか。そんな近代社会を成立させている根源に、唾を吐きかけたのが写真です。狐憑きや霊媒師が近代に入ると精神病院に閉じ込められたのは、人間の同一性に異を唱える存在だからですし、何だか分からないものと共存することのできる彼らと、分からないものに対しては、必ず病名を付けて、治療対象とする近代とでは、とても共存できないでしょう。
写真が“悪”なのは、日々自分を積極的に喪失しているからです。好き好んで失調状態に陥るというのか。そんな主体の積極的な廃棄というのは、社会的な義務を日々放棄し続けているのと同じことで、それは反社会的な行為だと糾弾されてもしょうがない行為なのではないでしょうか。
撮影のときの精神状態は、体中の筋肉を弛緩させて相手の出す音を、ヨダレを垂らしながら聞き耳を立てていたエルビン・ジョーンズと似ています。ほとんど精神的には惚けてしまったように見えるエルビン・ジョーンズのドラムには、二流のロック・バンドのドラマーのように、“俺がバンドのサウンドを引っ張っている”みたいな、よけいな自己主張がありません。彼はサウンドをコントロールするという、主体的意識を放棄したのです。“音がすべてだ”彼は言いました。写真家にとって重要なのは被写体のように、彼らにとって重要なのは自分ではなくて、つねに音なのです。そして音を出したのは確かにわたしですが、出した音に今度は自分が引きずられて行く。自分なんていうものは、犬に喰われてしまえばいい程度のものでしかない。重要なのは被写体、対象、世界です。すべての音に拝跪するエルビン・ジョーンズのように、世界と対峙するのではなく、世界にひざまずくのが撮影の正しい態度だと思います。
近代社会というのは、主体というのは一つであって、わたしがわたしを所有していて、つねにどんな時でもわたしがわたしであるという自己同一性を前提として成り立っている社会ですから、その同一性を消去して、誰かに勝手に“取り憑く/取り憑かれる”。そんな霊媒師的な行為は、無責任な“悪”の行為です。自分が必ず所有していなければいけない主体を放り投げたり、ウィノグランドみたいに“わたしは空っぽだ”と宣言して消去したりするのは、近代社会にとって危険なことです。日本が近代化し始めた明治時代の初期に神懸かりや、狐憑きや、祈祷師、霊媒師が徹底的に弾圧されたように、自己を放棄する霊媒師的な存在である写真は、だからやっぱり近代社会の敵です。近代的自我の確立のためにノイローゼにまでなった夏目漱石に比べて、写真はその近代自我を簡単に放棄する。秋田の愛人の写真を奥様にプリントさせて平気だった木村伊兵衛とかを見ていると、写真家はまったく近代的な自我に悩んでないなかったと思わざるをえない。
戦争中は軍部に協力して、戦後は絶対的非演出スナップという社会主義リアリズムの引き写しみたいなことを言い始めた土門拳とか、本当に自我が確立されていなかったのではないでしょうか。少しでも自我が確立されていれば良心の呵責とか、転向した自己の思想のあり様とかに考えが及ぶと思うのですが、主体などというものが自己の内面の中で成立していないから、モラルも転向もどうでもいい。動物のようにその場、その場の局面でしかものが考えられない。自己の同一性が放棄されているのだから、過去から現在、未来という一本軸で自分を捉えることができないのです。だから思想という主体が一貫した存在であることを前提としたこんな考えを、写真家は持つことができないのでしょうか。この主体性を放棄した無責任な態度が写真を“悪”の領域に近づけるのです。
近代的テクノロジーが生み出した装置が、近代社会の敵になる。写真はやっぱり近代の鬼っ子ですね。主体の存在を放り投げるなんていう、そのポスト・モダン的な態度は、近代を徹底して遂行した姿と言うのでしょうか。近代が生み出した子供が、近代社会の根底を揺るがすなんて、写真はだから近代の果てに存在するものだと思いますし、すでに近代を突き抜けている。近代の果ては、そんな写真家の“取り憑く/取り憑かれる”のような霊的な世界なのです。そして当たり前ですが、写真の世界は霊的な世界と共通します。そこにいないけれど存在する、かってあったものが現れるという写真は、いないものがそこに現れるという霊的世界と限りなく近似するメディアだと思います。
ファインダーを覗くと対象に乗り移ってしまうなんて、ほとんど狐憑きの世界でしょう。けれど撮影というのは、そんな憑依の連続なのではないでしょうか。好き好んで狐憑きを求める写真家は、霊媒師や呪術師と同じ存在です。シャッターを押す度に相手に憑依し、被写体を何か違うものに変質させる。それは王子を蛙に変えるのと同じで行為で、むしろ呪いに近いでしょう。撮影はだから呪いなのです。現実を撮るたびに、この写した被写体が面白くなるようにと祈っている写真家は、全世界に対して美しくて面白いものになれと、すでに呪いの言葉をかけているのです。 カメラの存在がまた暴力的ではないでしょうか。どんな悲惨な場面でもカメラは感情をこめないで撮れてしまう機械であって、何しろ中枢神経のない無遠慮な機械ですから、一旦ある方向にレンズを向けると、向けた対象のすべてを無分別に、何も選択しないで撮ってしまう。ここは写すのを止めておこうとか、こんなものを撮るのは人としてどうだろうとかの、そんなモラルや恥じらいなんてありませんから。そんな非情な装置の上に立脚している写真なんて、それは絶対に悪い存在に決まっています。だからでしょうか、たとえば良い人物写真を撮るには、モデルにカメラの存在を意識させないで自然な感じで撮るのが、良い人物写真を撮るコツだと言われるのは。カメラの存在は人間にとってうっとうしいものなのでしょう。じゃなければモデルに、カメラを意識させるなとは言わないはずです。良い写真を撮るにはカメラの存在が邪魔になるという写真はそんなアンヴィバァレンツを抱えているのでしょうか。
カメラの存在が剥きだしになると、なんでそんな不自然に写ってしまうのかというのは、カメラはやっぱり日常生活の中では異質な存在で、カメラが日常の中に出てきて、パチパチと音を立てて撮り始めると、なんだか日常が非日常的で、落ち着かない雰囲気になってくる。倦怠期のカップルがその怠惰なセックスをもう一度リフレッシュしようと、行為の最中に写真を撮り始めたりするのも、カメラを導入することで日常のルーティンみたいだったセックスに非日常的な活気を呼び込もうとするのでしょう。それはカメラが全然自然なものではない、非日常的なものだという証拠ですよね。カメラの存在が剥き出しになると良い写真にならないと言うなら、人間が自然に振る舞うには、要するにカメラなんてない方がいいということでしょう?カメラはだから人間にとって反自然的な装置なのだと思いますね。自然に人間らしく生きて行くには、カメラほど邪魔なものはない。
カメラの存在がいつも公にされている北野武やブレッソンの映画は、日常のリアリズムで言えば、とんでもなく非日常的な演技や光景が続発する反リアリズムな映画だと思います。そこにはわたし達の知っている日常の自然な感じがまったく排除されている。人間の自然な日常とカメラの存在は、融和するのではなくて、対立的な関係であって、絶対に交わることはないと思います。カメラの前では日常なんて存在しません。カメラに撮られたすべてのイメージは、非日常なのではないでしょうか。カメラを意識していない人物写真が良いなんて嘘でしょう。ブレッソンや北野武の映画のように、カメラを意識している映像の方が、良い映像ではないでしょうか。なぜカメラを使っている芸術なのに、カメラの存在を隠さなければならないのか。カメラを意識しない写真が良い写真だなんて言うのは、それはただ日常らしく見せようとして、本当はただ日常に媚びているだけなのです。映像のリアルズムに、日常のリアリズムを持ち込むべきではないのです。鈴木清順は言いました。“虚構こそ映画の華”だと。日常らしい、本当らしいなんていうものほど、うさんくさいものはないと思うのです。
カメラは日常に、亀裂を持ち込むための装置なのではないでしょうか。カメラで撮られた日常なんて、本当は全然日常らしくない。それが日常的に見えるのは、その写真を見た人間が、これが日常なのかと勘違いして、日常をその写真のように見ようとするからです。ある名所を見て、まるで絵葉書みたいにきれいだと思うのは、その人の脳みそが写真の遠近法に洗脳された結果なのではないでしょうか。一点透視法という遠近法は、肉眼の自然な見え方を模倣したのではなく、それは絵画が要請する技法として始まった、すごく不自然な技法です。遠近法という制度によって見える自然な風景が、実は不自然な制度によって自然に見せられている。それなら自然な風景というのはあるのでしょうか。人間の肉眼が遠近法というベールを外して、本当に自然な存在を直視することができるのでしょうか。映像のリアリズムの方が、わたし達にとって一番自然なリアリズムではないのでしょうか。映画のように見える、写真のように見える、そんな見え方が人間にとって自然で、日常のリアリズムなのではないでしょうか。
自然で普通な感じのする写真を撮る。カメラの存在を意識させないことで、さりげなくその人の日常を表現するなんて、それはカメラという存在を隠蔽することで成り立つ、ヒューマニズムです。彼らはカメラの存在が邪悪なものだと知っている。カメラはヒューマニズムと敵対することも知っている。知らないのはそんな邪悪な機械をコントロールできると思い込んでいる無意識下の傲慢な考えでしょうか。北野武やブレッソンの映画がそうであるように、カメラで撮れば、それはすべて不自然で非日常的なものに変質してしまうのです。そんな映像の何もかも変質させてしまう性格を、ブレッソンは“奇蹟”と言いましたが、撮影というのは、要するに天からの一撃であり、人智を超えた“奇蹟”だと思います。写真は自然や、日常よりも先行して存在しているものであり、決して人間の日常と寄添うように生きて行くものではありません。日常に先行して、対立するものとして存在する写真は、やはり“悪”の側にあるのではと思います。
ヒューマニズムと善意を前提にしたドキュメンタリー写真もまた“悪”の側に存在する写真ではないでしょうか。善意の気持ちで戦地に出かける写真家は善意よりも、結局は写真の無意識化に存在する“悪”の快楽と好奇心に取り憑かれるのです。カメラは無意識に命令するでしょう。まだ誰も見たことがないような不幸で悲惨な死を撮れと。悲惨な現場を伝えようという使命感が、まだ誰も見たことのない現場を見る快楽に転化していく。使命感と快楽がごっちゃになって、そんな使命感を持つことが快楽になるでしょう。使命感は、悲惨な現場を見る快楽を隠蔽するための便利な言い訳です。ヒューマンで美しい建前によって行使される撮影は、その撮影の快楽を倍に感じさせるでしょう。ヒューマンで正義感溢れた言説に埋没する醜悪な現実。美しい言葉の建前に彩られて撮影するのは、本当に快感が倍増して感じると思います。民族、宗教、人民プロレタリアートの名で行なわれた粛清や虐殺に快楽が伴ったように、ヒューマニズムの名で行なわれる撮影の本質には、つねに快楽が存在していると思います。
不幸で悲惨な死は、ブルジョアや市民階級にとって最大の非日常的な出来事です。彼らが写真に興味を持つのは、安全地帯としての日常生活の場で、その非日常的な出来事を愉快な娯楽とスペクトラムとして享受できるからです。善意で撮影された悲惨な出来事が、刺激的な消費物として商品化される。それができるのは写真が対象から意味を剥ぎ取ることができる装置だからであって、カメラのそんな構造が世界中のあらゆる悲惨な事件を娯楽に変えてしまうのです。映像で見た光景の方にこそリアリズムを感じるようになったのです。カメラは、人間のリアリズム観を変更させたのです。そんな映像のリアリズムの方が、自然で日常のリアリズムに変質した近代以降の人間にとって、戦争や悲惨な事実を享楽的に消費することこそが、自然で日常的な振る舞いになったのです。ヒューマニズムな使命感と善意の意識で戦地に駆けつけるドキュメンタリー・カメラマンも、その構造の中に存在する限り、個人的にいくら正義感を持っていようとも、写真の“悪”に従わざるをえない。むしろさらに悲惨な現実を世界中の人に知ってもらわなければという、ヒューマニズムな正義感がまた新たな刺激的な商品を提供することになり、さらに写真の“悪”を促進します。
写真家にとって、教養のない成り上がりのブルジョア階級や、都市の誕生によって新しく街頭に現れた顔の見えない群衆の存在が、彼らの写真を購買してくれる消費層です。写真家がその黎明期から戦争や、フリークスや、女性の裸という非日常的なものばかり撮っていたのは、そんな消費層のニーズに応えなければならないからです。そんな非日常的な写真が公開されている見世物小屋の幻影ショウや映画館に行ったり、新聞、雑誌、ヌード写真を購買したりするブルジョワや群衆が写真家に期待するのは、戦争、事件、フリークスに裸という非日常的な出来事が写っている写真です。写真家はだから目の前で誰かが悲惨な死に方をしていれば必ず撮らなければならないし、どこかで不幸があれば飛ぶように撮りに行かなければ行けません。貴族がパトロンだった絵描きと違って、写真は最初からパトロンがいなかったので、移り気で、好奇心ばかりが強い、無教養なブルジョワや群衆を相手にしなければ生活が立ち行かなかったために、不幸にもそんな写真ばかりを撮らなければならなかったのでしょう。ましてシャッターを押せば誰でも撮れる写真の性格上、それは誰が撮っているのかという写真家の名前や個別性よりも、何を撮っているのかということの方が重要になる。写真には絵画のように個性がありません。カメラの構造を勉強して現像の科学的プロセスをきちんと踏めば、だれでも同じものができる。だからみんなが見たがる不幸な現実か、女性の裸でも撮るのが、写真家の生まれたときからの使命でした。画家のように、個人の筆さばきやタッチがどうのとは、写真には関係がない。現代写真の父、アッジェだって彼は自分の写真を作品などとは言っていません。画家のための資料として、写真を芸術品ではなくて、商品として売っていたのです。写真家は徹底して個性がない存在です。写真の構造そのものが、写真家から個性を抹消してしまう。写真家には自分なんていうものがないのです。 写真家にはだから内発的な動機が存在しないのです。彼らは消費層のニーズと要請によって撮っているだけで、他には何の動機も存在しない。ウィージーの写真の見事なぐらいの内面の皆無は、誰もがみんな見習わなければいけない、写真家の普遍的な姿です。撮影者に内面がないから、何でも撮れる。躊躇なんかしていられない。使命感というニーズが存在すれば、何でもためらわずに撮影するのがカメラマンです。ドキュメンタリー・カメラマンの高尚な使命感が、こんなものを撮っていいのかなんていうモラルの領域を、簡単に凌駕させます。一般大衆もそんなものは求めないですし、彼らのニーズは、ポルノとバイオレンスです。ともかく非日常的な刺激が欲しい。つねに非日常な対象を写したいと願っているカメラマンに、消費層のニーズに応えなければという善意の使命感が付加されたときに、写真は明らかに“悪”の領域に移行するでしょう。
ウエストンは裸の肉体をフォルマチックに美しく撮ります。けれど人間の肉体を、美しいけれどそれは物質に変えるということでしょう?心や精神を持った人間を物質に変えるというのは、モラルの視点から見るとどうなのでしょう。そしてそんな反モラル的な行為が世界の写真史で絶賛されるということは、写真の世界は無意識下にそんな反ヒューマニズム的な欲望を隠し持っているということなのでしょうか。
日本の写真の伝統的技法と言われるストリート・スナップなんて本当に悪い撮影方法だと思いますよ。許可もなく黙って路上を歩いている人間を撮る。無意識に変な動作をしている人や、顔や姿が醜くて面白可笑しければさらにどんどん撮ってしまう。カメラのボディは見た目がけっこう威圧的です。撮られる側から見れば、威圧的な異物がいきなり目の前に登場するみたいな感じがして、被写体にすごく緊張を強いるそんな暴力的な行為だと思います。そんな威圧的なカメラ存在は、やっぱり非日常的ですよね。愉快な気分で歩いている日曜日の街角で、いきなり何の前触れもなく、凶器のような非日常的な異物が目の前に現れるのです。それに写真に撮られるのって、何だか自分が物質にされたような気がするでしょう。いきなり自分が客観視されるというか、物質みたいにされるというか。他人の視線がわたしの存在を石化すると、サルトルが昔何かで書いていましたが、客観化というのは一つの暴力ですから、いきなり現れる視線の存在というのが、撮られた自分を普段のわたしじゃない、違う何かに変質させられたような気にさせるのでしょうね。
“見ているぞ”なんていう視線がいきなり目の前に出てくるのは、突然路上で平手打ちされるようなものです。ストリート・スナップというのは、ほとんど通り魔とかわらないですね。でもそんな事態を肯定して、撮り続けているストリート・スナップは、写真の中でつねに原理的な位置を示していると思います。通り魔的な平手打ちを肯定しなければ、写真なんか撮れません。マヤコフスキーの言う、“市民社会に対する平手打ち”として、そのストリート・スナップは肯定されるべきでしょう。ストリート・スナップではなくても、写真を撮るというのは、何に対してもいきなりの平手打ちだと思います。カメラの視線は対象を物質に変質させてしまう。カメラの構造自体がもうそんな風に、対象を何でもいきなり客観化してしまうのですから、カメラはつねに暴力的な事態を日々引き起こしているのだと思います。写真家はだからヒューマニズムの敵ですよ。そしてその反ヒューマニズムが写真の基本的な原理なのですから、今更他人の著作権やら、みんなの迷惑も考えようとか写真家が自ら言うのなら、写真なんてやめた方がいいと思います。カメラという装置自体がそもそも反ヒューマニズム的な装置なのですから、そんな装置を使った表現が暴力性を帯びた反ヒューマニズム的な表現になるのは仕方のないことです。
木村伊兵衛はストリート・スナップの名手なんて言われていますが、名手なんていうあだ名は、切裂きジャックや、ボストン絞殺魔、デッセルドルフの吸血鬼、ヨークシャーの切裂き魔なんて言われているのと同じ意味のあだ名だと思いますね。振り向き様にナイフで刺して、そのナイフさばきが上手いとか、金属バットでいきなり脳天に命中させる様が玄人はだしだと言われているようなもので、ストリート・スナップというのは、人間をどうでもいいオブジェみたいに思っている人が採る方法なのだと思います。どう考えても肖像権なんていう他人に対する思いやりなんて考えてもいない。路上で見知らぬ人を尾行しながら、その後ろ姿を撮ることを“尾行写真”と名付けて撮影していた桑原甲子雄とか、そこに顔があるからただただ群衆の中に分け入って、前へ、前へと進み続けるウィリアム・クラインの写真とかは、多分カメラの暴力に取り憑かれてしまったのだと思います。ファインダーの中で見知らぬ人の顔や姿にピントが合って、シャッターを押すときほとんど1秒にも満たない瞬間なのですが、この瞬間を体験するとなんだか全能感をすごく感じる。多分戦場のスナイパーも同じ感触を感じているのではないでしょうか。撮影のことを英語でシュート=撃つというのも良く分かる瞬間です。シュート=撃つという暴力的な雰囲気に彼らは酔ってしまい、止まらなくなったのです。カメラには人をそんな風に酔わせてしまうところがあるのです。ファインダーを覗くと、何も恐いものがなくなる。どんどん撮っていってしまえみたいな、奇妙な勇気を呼び起こしてしまう力がカメラの構造にあるような気がするのです。
金村修

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