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Statements / 2015年1期 1月12日〜3月16日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2015_01
ステートメント
モット・ザ・フープルのリーダー、イアン・ハンターが『ロックンロール黄金時代』の裏ジャケットに“ロックンロールは敗者のゲーム”だと書いていた。彼の言う“敗者のゲーム”は、世の中で敗北した人間がロックンロールというショウ・ビジネスの世界で、もう一度頂点を目指し、成る上がる“敗者のゲーム”を起動させようと目論んでいるのだろうか。それともこの世界で敗北することを目的とし、敗北すること自体を肯定するために敗北するゲームを始めようとしているのだろうか。イアン・ハンターは敗北に何か積極的な意味を持たせようとしているのだろうか。
50年代のアメリカのビート・ジェネレーションの作家や黒人のジャズマン達はアメリカ国内において敗北することを意識的、積極的に選択し始めた。ビート系の詩人は“You are not Win 君は負ける”という詩を書き、チャーリー・パーカー達はベニー・グットマン楽団に代表されるダンス・ミュージックの王道としてのビック・バンド・ジャズからドロップアウトし、発狂したチャイニーズ・ミュージックだとニューヨーク・タイムスに揶揄された、踊ることを拒否するようなビバップの奏法に熱中する。敗北が意識的に選択され始め、チャーリー・パーカーのバックをつとめていたベースのチャーリー・ミンガスは、50年代からの活動を振り返った自著伝のタイトルを『負け犬の旗のもとに』と、敗北することを自らのアイデンティティの根源として肯定的に捉え、小説『Wrong Good-by』の中で矢作俊彦はチャンドラーをもじって、アメリカと別れる方法は今だに発見されていないと書き記したように、彼らはアメリカ的な勝利者の価値観に対して負けるという敗者の選択を積極的に引き受けることで、アメリカに永遠のさようならを言おうとしている。
アメリカの金融資本はイアン・ハンターの言う“敗者のゲーム”とは違い、それは勝者のゲームであり、彼らアメリカ人はそのゲームから降りることできず、いつまでも賭け金を払い続け、勝ち続けることを強要されるだろう。金の保有量がゲームの最終的優劣を決定するという金本位体制下での単純な勝敗システムをベトナム戦争以降、莫大な戦費を手持ちの金の保有量では維持できなくなったアメリカが世界に対して、金の保有量という実体に裏付けられた金本位体制の棄却を宣言する。裏付けが放棄されたことで金融資本の新しいゲームは、優劣の結果を徐々にフィクション化し、誰が一体最終的な勝者なのか確定できなくするだろう。勝敗の行方が見えなくなったアメリカの新しいゲームは、誰が勝利者なのか確定させないままゲームを続行させることで、ゲームの参加者をテーブルから降ろさせない方法を生み出した。
ゲームのルールを支えているアメリカの金融資本は、ニクソン政権で金本位体制からの一方的な離脱を宣言することで、金の貯蓄量による実体的な価値を放棄し、何の裏付けも保証もない非実体的で賭博的な、投機的な資本主義に移行し始めた。アメリカの金融資本は何の保証もない投機的なブルジョワのゲームを、世界中の人間が無条件に信用して喜んでこのゲームに参加するのだと根拠もなく思い込んでいる。未来永劫この投機的ゲームが続き、いつまでも無限に繁栄し続けるだろうという根拠のない楽観が、このゲームを支えている唯一の根拠だ。未来はいつまでも続き、永遠に繁盛するというその根拠は、すべての人間がその根拠を信じているという無責任な他者への信頼と期待で、ブルジョワの投機的なゲームは支えられている。無限の未来の先までゲームはいつまでも続くという根拠の無い、無責任な虚構としてのゲーム。誰も見ることも知ることもできない、無限に続く未来という虚構の端点を設定し、その虚構の端点を確定的で実体的に存在する未来の場所だと捏造し、ゲームのルールを規定する超越的で普遍的な視点を確立する。ブルジョワは誰よりも早く先取りされた未来をでっち上げ、誰も知ることのできない未来を知っていると全ての人間の前で宣言することで、彼らはあらゆる階級の上位に立つことができるのだ。
彼らの語る、根拠のない非実体的な未来は、どこにも存在しない透明な未来であり、その透明性ゆえにあらゆる階級から超越することが可能だった。何かを入れる容器は、その機能上、何もない空っぽで透明な状態が望ましいわけであり、実体的な存在は容器としては限界があるのに対して、透明な存在はすべてのものを引き受けることができる。天皇制の中心が空無で空っぽな存在であることによって統治が可能だったように(三島由紀夫が東大全共闘の前で、君達が天皇陛下万歳と唱和してくれれば我々は君達と共闘するだろうと言ったように、天皇制は空っぽで空無な制度だからこそ、極右から極左まで、すべてを取り入れることが可能だった。治安維持法を適用した共産主義者に死刑を宣告したことは一度も無いとドイツのヒムラーの前で豪語した内務大臣は、その理由をすべての日本人民は天皇陛下の赤子であり、日本人の情を示せばイデオロギーに関係なくみんな分かってくれると語ったように、天皇制下では、ブルジョワもプロレタリアートも全て平等な存在であるという、イデオロギー的対立を無化する空疎な制度が露呈される。実体のない天皇制がその空っぽさにおいてなにもかも受け入れ、超越的存在としてあらゆる階級の上に君臨する)、空虚で透明な未来を捏造したブルジョワはあらゆる階級の超越的規範としてわたし達の前に現れるだろう。
投機的資本主義下に生きるわたし達は、その超越的なゲームの規範を知らず無意識に内面化する。未来は信用できず、貨幣は将来的にはたんなる紙になり、火をつければ燃えて消滅する屑だと知っていながら、その屑の貨幣から離脱することができないのは、他者が貨幣を有効な価値であると信用しているだろうと憶測し、その憶測と想像の束縛からわたし達が逃れることができないからだ。他者はこのルールを守るだろうという信頼と期待を基底にすることで形成される社会で生きるわたし達は、目前の他者と、まだ見ぬ他者という存在と非在の視線によって自己の存在を決定する。他者の思考を憶測することなしにわたし達は行動を起こすことができるだろうか。わたし達の存在は他者がこう考えているだろうという根拠のない憶測によって、ありもしない非在の他者と想像上の他者によって規定されている。この根拠の無い憶測が強固な超越的規範としてわたし達の内面に現れるだろう。
超越的視点はゲームの参加者全ての人間にその視点を内面化させることで、彼らにそのゲームから自主的に降りることができるという選択肢を抹消する。誰が勝つのか負けるのか勝負を決める尺度はつねに更新され、勝敗の決定は永遠に宙づりにされたまま未来の果てまで引き延ばされる。わたし達はポーカー・テーブルの上で永遠に賭金を払い続けなければならない。アメリカの投機的資本主義を戯画化したマーティン・スコセッシの『ウルフ・オブ・ウオールストリート』で上司の証券マンがディカプリオを前にして、“客を観覧車から降ろすな。いつまでも観覧車に乗せて廻し続けろ”、“客には儲けた金を絶対に現金化させるな。儲けた金は次の投資先に投資させろ。いつまでも電光表示板の虚構の数字で満足させろ”と語る。顧客を無限に観覧車の中で廻し続け、証券マンだけがその儲けた金を現金化し実体を手に入れる。顧客はいつまでも電光表示板か帳簿の数字の中だけで自分は投資マーケットの中の勝利者であると自己満足しながら、儲けた賭金を見ることもなく死んでいくのだろう。
彼らアメリカは、金という実体的裏付けを棄却したことで、貨幣が無限に世界に増殖することが可能な条件をつくり出す。実体的裏付けを棄却したということは、貨幣は限界というリミットを放棄したことであり、限界を知らない貨幣は世界の果てまで飛躍するだろう。実体を棄却した貨幣はどこにでも現れ、何にでも取り憑くことができる。実体が無いものは、無いが故に何にでも、誰にでもなることが可能なのだ。
貨幣は電光表示板か帳簿の中にしか現れない幽霊のようなものだ。幽霊というのは存在していないにもかかわらず、存在してしまうというその二律背反的な性格を有するものであり、彼岸という非在の絶対的他者と、かっては生きていた者として此岸に現れ、現実化された相対的他者という二重のレベルを持った存在として現れる。絶対的他者と相対的他者という二重のレベルが幽霊の中では同居する。貨幣もまた誰もがそれが永遠に流通し、商品に対する請求権を普遍的に持つものとしていつまでも存在することは不可能なことだと、いつか紙屑になる可能性、非在の可能性を抱えながら、誰もがそれを欲望するだろうと想像し、実体化する。それは幽霊のように二重のレベルを内包しながら存在するのだ。彼岸という非在としてしか、此岸に現れることのできない幽霊の存在と、いつか紙屑になる可能性、非在の可能性を抱えながらでしか存在できない貨幣との共通する、非在を抱え込むことで存在する二律背反性。存在は非在によって規定されているのだろうか。非在であるが故に絶対的な他者として振る舞うことのできる幽霊と、記憶の確定記述の束を想起させる相対的他者としての幽霊の現実性の二重のレベルが一人の幽霊として実際に出現するその事態は、ほとんど貨幣のアナロジーであり、誰もが欲望するであろうという空想的で非在の貨幣の他者性と、欲望されるが故に実体的な存在だと錯誤される現実的な他者性という矛盾する二重のレベルが貨幣には同居する。非在のあの世の者でありながら、この世の記憶を持ち続ける存在だと理解される幽霊と、ジャンクな本質が露呈され、非実体的で無価値な存在であると知りながら、実体的なものとして欲望され続ける貨幣。実体がないのに実体的な者として現れる幽霊的な性格を持つ貨幣が交換過程を司る。
映画『ウルフ・オブ・ウオールストリート』のディカプリオ達は、貨幣の幽霊的な二重性を信じないが故に破産したのだ。彼らは利益を現金という実体に交換することに主眼を置き、自分達は幻想の観覧車に乗ろうとしなかった。貨幣は実体化されてしまったらただの紙屑でしかなく、電光表示板の上でいつまでも輝き続けることでのみ、その幽霊的な魔力を発揮する。電光表示板の数字を信じない者、電光表示板の数字を現金という実体に交換しようとする者は、資本主義の未来を信じようとしない者だ。儲かり続けるというバラ色の未来を信じない者が増えれば、やがて資本主義は恐慌を引き起こすだろう。観覧車に乗り続けることを拒否されれば資本主義は、たちまち崩壊してしまう危うい制度なのだ。いつまでも廻り続けなければならない、交換され続けなければならないという流通と消費のパラノイア達がブルジョワの資本主義を支える。資本主義はディカプリオ達のように、電光表示板の非実体的数字を、現金という確実な実体として獲得しようとしたことに対して、天罰を下すだろう。神が実際に現れないからといって信仰を捨てるような信者に天罰が下るように、むしろ神はこの世に現れない、いつまでも永遠に非在だからこそ信仰はより強く信心される。彼らは無限の未来という非在を信じなかったから罰せられた。現金という実体は資本主義の幽霊性、超越性と現実性を捨象してしまう。銀行の帳簿上の数字を一気に現金という実体にすることで恐慌が引き起こされてしまうように、資本主義を維持するにはディカプリオの上司が言うように永遠に観覧車に乗り続けていなくてはならないのだ。実体化された貨幣はその価値を喪失してしまうだろう。実体的なふりを続けながら、一挙に実体化を要求されるとその非実体的な本性を露呈させてしまう貨幣の二律背反性的性格は、貨幣は実体化されずに、無限に交換され続ける交換過程の中でしかその価値を訴え続けることができない。貨幣の性格として、それは元々実体のないものなのだから、それを実体化するということは、貨幣に対する背理であり、裏切りなのだ。
貨幣それ自体は何の価値もない。貨幣が価値を持つのは交換可能なものとして、交換された事後にそのことが証明された結果、その貨幣は価値としてマーケットにおいて承認される。貨幣はだから自身ではなく、交換が成功したことで、他の全ての商品に対して請求権を持つということが認識される。マーケットで貨幣の価値が認められるのは、常に事後的な結果においてなのだ。貨幣は先天的に価値を持つことはできない。
実体がない故に物の交換価値を表出するし尺度として抽象的な貨幣が選ばれる(使用価値という実体を持った物が貨幣の役割を遂行できないのは、実体を持った物が貨幣の替わりを行うと、例えばx量の商品A=y量の商品B、またはx量の商品A=z量の商品C、またはx量の商品A=z量の商品D、または‥というように無限の併置がx量の商品Aに要求される。使用価値という実体を内包したx量の商品Aは、実体という限界があるが故に、貨幣のように交換を司る抽象性と同一性を持てずに、無限に併置を続けざるをえない。使用価値を内包しているという前提が、x量の商品Aの具体性を止揚できず、貨幣のような同一性を獲得することに失敗する)。x量の商品Aという具体性を廃棄した貨幣は、無限の外延を獲得し、世界のどこにでも現れることができるようになる。使用価値を内包したx量の商品Aの具体性は、その具体性故に、貨幣のように具体性と抽象性という二重のレベルを持つことに失敗する。
資本主義社会が王制と敵対したのは、王制は王という個人的な実体を必要とする制度であり、19世紀の産業資本の勃興と、それに伴う資本の世界的な流通という観点から見れば王という個的な人間の実体は流通を防ぐものでしかないだろう。資本の世界的な流通を可能にするものは実体ではなく、幽霊のような非実体を存在基底として持つ貨幣なのだ。王という人間の肉体を持つ者は、生命という有限性に規定され、無限の未来を持つことができない。それに対して幽霊=貨幣は生命という有機的限界を持たないが故に無限の未来を捏造することができる。ドラスチックに流動する資本に必要なものは、無限の未来という虚構を全世界に説得し、信用させることができる貨幣であり、電光表示板や帳簿の中でしか自己の存在価値を表明できない幽霊のような貨幣が資本の期待に応えるだろう。幽霊=貨幣はまるで実体的で確立された存在者として振る舞い、全世界をペテンにかけるのだ。
価値のない貨幣が使用価値を有する商品と交換可能だということは、無価値のものと価値のあるものが等価形態の関係を結べるということであり、本来対立し、非対称的なはずの二項の関係が、何故対称的な関係を結べるのだろうか。マルクスが労働力の存在に等価交換の破綻の綻びを見出せると語ったように、無価値な貨幣と使用価値や労働力を有する商品の等価交換は、本来なら非対称的な二項関係でしかないものが等価に交換されるという欺瞞を露にする。貨幣と商品という一見穏やかな等価交換の裏側に、ブルジョワは非対称的な二項の関係を価値の不均等な関係に固定させ、その格差の中から利潤を得ているのではないだろうか。ブルジョワ民主主義の平等という観念は、この不適当な交換関係を隠蔽するために発明された観念だ。マーケットでは無価値なものと価値を有するものが何の問題もなく交換され、無価値な貨幣が交換のイニシアチブを握っている。貨幣という無価値なものと、商品という価値を有するものの交換可能性は、幽霊が生きている人間と交換されるようなものであり、幽霊と人間の非対称的な交換は、肉体という剰余価値を発生させるだろう。幽霊が交換によって血と肉を得る。価値の幽霊、残骸である貨幣は、自分では何もできない幽霊が交換によって血と肉を得るように、等価交換の過程から剰余価値を得るだろう。
金の保有量の多寡で決められた勝敗のルールが変更されたことで、わたしはこれだけの金を保有しているという実体的な裏付けよって、自分で自分の価値を表明できる金本位体制の単純で分かり易い価値尺度に、他者の承認という新しい尺度が取って替わるだろう。誰かがわたしをこれだけの価値がある人間だと承認してくれるという、他者の根拠のない期待と信頼によって価値が決定される。他者の根拠のない期待を求めることは、その期待を更に大多数の他者が承認してくれるだろうという、他者の他者、他者の他者の他者‥という無限の非在の他者への期待と信頼が前提となる。無限大に膨れ上がった無数の他者が、わたしを価値のある存在だと言ってくれることを何の根拠もなく信用することが資本主義の基底に存在する。不可視の他者に承認されること。期待と信頼と承認の欲求が合わせ鏡のように乱反射する。投機的な資本主義の中で生きることは、無限大の他者がわたしを承認してくれるという歪な幻想の中で生きることだ。
ブルジョアの資本主義は、わたし達には自らの価値を、自ら表現することはできないことを教示するだろう。わたしの価値を承認するのは他者なのだ。自己による価値表現の不可能性が、価値決定を機能させるための重要な下部構造であり、わたし達はわたし達が何であるかを表明することができないことが構造的に要請されている。無価値であることが前提であり、無価値でなければ価値は決定できないという価値のパラドックスをブルジョアの資本主義はわたし達に強要する。先天的に無価値な存在であるわたし達は、交換過程によって価値が決定されるだろう。相対的価値でしかないわたし達の存在は、一般的等価形態=貨幣によって価値を与えられるのであり、だからわたし達はマーケットの外で存在することができない。いつまでも交換のメリーゴーランドに乗り続けていなくては、わたし達はこの社会の価値から脱落してしまうだろう。アメリカの投機的資本主義下でゲームを続ける人間は、だからそのゲームから降りることができないのだ。ジェットコースターのような観覧車に乗せられてアメリカ人は二十日鼠のように一生廻り続けていなくてはならないだろう。ぐるぐる廻り続けることだけが、彼らに許される唯一の選択だ。
無根拠な期待と信頼が渦巻く中で、アメリカ人は勝ち続けなければならない。彼らは地球上全ての人間がこの価値決定システムに則って動くことに賛意を示していると思い込み、そのシステムの中で勝負のやり取りを行うことを承諾することを世界的なレベルで強要する。無限の他者がこのゲームを肯うことを同意してもらわなければ成り立たないし、全ての人間がこのゲームに参加することを望んでいると何の根拠もなく彼らは思い込んでいる。ゲームから離脱しょうとする人間は、彼らにとって共産主義者か無政府主義者としか思えないだろう。それは体制を破壊するための危険分子として抹消される(正当な等価交換を要求し、利潤の存在を許さない共産主義者が、特にアメリカで敵視されるのは私的所有制度の解体だけではなく、貨幣の解体が問題なのではないだろうか。ポルポト派が貨幣の破棄を実行したとき、それが成功するのを一番恐れたのはアメリカだろう。共産主義者は最終的には貨幣と剰余価値の廃棄を目的としている)。投機的資本主義は全ての人間の根拠の無い期待と信頼によって成り立っている。彼らの語るヒューマニズムや民主主義は、この投機的システムを機能させるために必要なイデオロギーでしかないのだ。奴隷解放はヒューマニズムから発想されたのではなく、大量生産を要求するアメリカの独占資本が安価な黒人労働力を必要とし、そのために地主階級に独占的所有されていた黒人奴隷を解放させ、より広範なブルジョアのマーケットに流入させるために発想された。アメリカ的民主主義が謳う平等は、マーケットの要求に応えるための平等であり、マーケットにおいて人間の労働を商品としての労働力に転化するには、労働に付随している意義や意味を削ぎ落とし、すべて同一なものにしなくてはならない。人間を価値付けされていない、無価値なものとして平均化させる、そのために必要な平等なのだ。全ての人間は無価値な存在であるということにおいて、その意味で全員平等なのだ。資本主義体制下でのブルジョワ民主主義が謳う平等は、わたし達から価値を奪うことであり、差異を廃棄させ、同一な労働力商品としてマーケットに流通させるための同一化の強要であり、何もかも一緒くたにするマーケットの圧縮作業を経た後、わたし達はマーケットで労働力として貨幣と交換され、その貨幣との交換が成功することで初めて価値を持ったわたしとしてその存在を承認される。
交換過程を経ることによってしか、わたしの価値は証明されない。わたしとは資本主義社会では相対的価値でしかなく、わたしの価値はわたしが承認するのではなく、無限の他者を代表する存在だと認められた一般的等価形態=貨幣という他者によってしか承認されないのだ。価値は先天的、内在的に存在するのではなく、一般的等価形態=貨幣という他者によってしか表現できない。わたしとはだから貨幣のことであり、人が何故貨幣に執着するのかは、貨幣の量がわたしの自己実現の量であり、貨幣がわたしを表現するから、わたしは貨幣に執着するのだ。金がない人間は首がないのと同じであり、先天的に無価値な存在であるわたしの自己実現は貨幣によって遂行される。
イアン・ハンターの言うような、ロックンロールに代表される“敗北のゲーム”は、誰からも期待も信頼もされないことを希望するだろう。それは多分勝つことも負けることもないゲームであり、勝敗を求めるブルジョワのゲームが価値基準を確定することを要求するなら、“敗者のゲーム”は価値のシステムに疑問を持ち、その価値基準をつくり出すシステムそのものを放棄する。確定された勝敗のルールに則ったゲームは勝者と敗者の存在を構造的に要求し、勝敗の格差を作り出す(何故金のある人間が勝者で、金の無い人間は敗者だと決めつけられるのか。その勝敗の判断の基準は誰が決めたのか)。勝者という価値の根拠は、ゲームの構造が決定した根拠であり、ブルジョワのゲームの中で、わたしは勝敗の決定をすることができない。
わたしがわたし自身で、勝手にわたしを価値付けることは構造上不可能なのだ。価値表明にはつねに他者が必要であり、マルクスによれば例えば20エレのリンネルが、上着一着によって表示されるとき、20エレのリンネルが相対的価値、上着一着が20エレのリンネルの価値を表示する等価形態であり、20エレのリンネルは20エレのリンネル自身で価値を決定することができない。20エレのリンネルはつねに上着一着との関係によってのみその価値を表示できる。価値とはだから先天的には存在することができず、何かとの関係、差異によってしか存在することができない。価値が価値として成り立つところの基盤は、実は空っぽの、何もない無価値な場所なのだ。構造の中心は空っぽで空無な虚空であり、何もない空無が価値判断の中心となってその機能を起動させるだろう。ブルジョワは何もない場所から価値をつくりだす。
価値付けようとする行為が、ものの無価値性を露呈させる。価値付けを必要とする存在は自己の無価値を前提にしているのであり、先天的に価値を有しているなら何故他者に価値付けを要求しなければならないのだろうか。価値付けとは価値のパラドックスであり、価値付けされればされるほど、価値付けを要求する者の無価値性を暴露するだろう。イアン・ハンターの言う“ロックンロールは敗者のゲーム”は、価値の復活を目的にしたゲームではなく、価値の廃棄を目指す。
金村修

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