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Statements / 2014年4期 10月13日〜12月22日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2014_04
ステートメント
物語を滑らかに進行させるという観点で映画の撮影方法を見ると、こまかくカットを割ることや、物語と関係のない風景を写すというのは、効率的に物語を進めることに対しての妨害なのではないだろうか。ヒッチコックの『サイコ』の有名な殺人が行われるシャワー室でのショットや、ジョナス・メカスの『ワーロック』の、友人の子供が驢馬と遊ぶ姿を0.5秒ぐらいでどんどん細かくカットを割っていくショットは、物語の立場に立って、物語の効率を考えれば、カットを細かく割ろうが、長廻しで一気に撮ろうが物語の道筋にはなんの関係もなく、むしろ話の筋を遠回りさせて邪魔なぐらいだ。 『イージーライダー』のほとんど退屈といってもいいような代わり映えのしない直線の道路をオートバイが走って行くショットは、物語の効率を考えれば無駄なショットなわけで、経済的効率を考えるならカットされるような非効率的なショットが、この映画ではかなり重要なショットとして使用されている。ステッピン・ウルフの『ワイルドで行こうぜ』の、どこかの工場でこれ以上のコストの削減は無理なぐらい効率化され、大量生産的に作られたような、誰でもコピー可能の典型的なハードロックが鳴り響くなかを、無意味にだらだらとアメリカ南部の道を走りつづける非効率的なオートバイの二人組という音楽と映画の齟齬感。ホーリー・モダン・ラヴァーズのチープなコラージュ感あふれたつぎはぎだらけのカウボーイの音楽が、マリファナでトリップしたピーター・フォンダとデニス・ホッパーの、過去を回想するショットにぴったりとはまる。幻覚を映像で再現しようという不可能な努力が、かえってフィルムの切り貼り=編集によって映画は物語を語るという事実、映画の時間は直線的に流れるのではなく、切り貼り=編集によって時間が表出されることをあらわにしてしまった。
いかにもドラッグを使用しています的なチープで嘘っぽい、ロジャー・コーマン風の幻想的なフラッシュバックシーンに、物語の進行を忘れてぼんやりと映像だけ見ていると妙にリアリティーを感じるのは何故だろう。フィルムのコマ落としのフラッシュバックシーンと、ひたすら反復するアメリカの道路を写すだけで、この映画はよかったような気がする。オートバイが通り過ぎて行くショットは出演者の誰かが見ているという主観ショットではなく、場所と時間の経過を説明するための客観ショットなのだろうが、何度も同じような場所でオートバイは走り去って行くので、経過説明のためというよりも、このショットは反復と退屈に焦点を合わせていることを観客に感じさせるために使用しているのかと思わせる。どこに行っても同じ光景のショットなので、時間の経過を感じさせない。ボルヘスのいうような直線の迷路に観客がはまったかのように感じさせる。アメリカは広いということを説明するために、こんなに退屈なシーンを何回も見せるのだろうか。同じ光景を見つづけることはやがて快楽に変わることを証明するために何度も反復しているのだろうか。
空と道路と岩地とオートバイという同じような光景を反復することで、もののディティールが浮かび上がる。空と道路と岩地とオートバイは意味としては同定されているが、反復されることで、そのディティールはつねに変化しつづける。反復することで差異が生産されるのだ。『イージーライダー』は写ってしまったディティールが反復されることで、物語の経済的効率性を裏切る映画だ。カメラというなんでも写してしまう機械は、気がつけば物語をディティールの山のなかで窒息させようとするだろう。映画は物語がなくても、ただオートバイに乗ってその光景を撮影していればそれだけで面白いものができるのだ。たとえばアンディ・ウォーホールの『眠る男』。ただ眠る男を6時間撮りつづけたこの映画で、眠る男の前を猫(この映画唯一の登場者)が横切ったときの観客のどよめきは、トビー・フーパーのチェンソーの男が登場するときのどよめきとほとんど同等の驚きだ。映画は物語がなくても猫が通り過ぎるだけで充分に観客を驚かすことができるのだ。
路上をオートバイが疾走するショットと、ピーター・フオンダとデニス・ホッパーがマリファナでハイになって過去を回想するショットを0.5秒ぐらいでつなげ合わせたフラッシュバックシーン。前者は実際のオートバイのスピードに合わせて見えてくる光景を撮っているのに対して、後者は編集時にフィルムをこまかく切断して再構成することでフィルム自体のスピードを上げて、現実の肉眼では経験することのできないスピードを表出しようとする。オートバイという乗り物に乗ったカメラが写すスピード感と編集作業であらわれるスピード感を比較すると、前者はオートバイがとどこうりなく一定にスピードを出す、正しく機能する機械のスピード感が前提であるのに対して、後者は編集で中抜きしたりコマ落とししたり切り貼りしたりすることで、日常の人間が感じる正常なスピード感ではなく、変調を起こした機械のスピード感、正しく機能しない、間違って作動している機械のスピード感を表出している。
映画は間違った機械のスピード感を最初の頃から肯定していた。コマ落としや早送り、逆回転という技法は初期の頃からかなりの頻度で使用されていた。チャップリンやキートンなどの無声映画では機械の変調で、工場の大きな歯車が工員を演じている主人公をとんでもない事態に巻き込むという話は、常套句のように何度も使用されている。それは近代社会を批判するための演出なのだろうか。機械のスピードに人間が合わせることを強要する社会から失敗してはじき出された人間を笑い者か、近代社会に適応できない前時代の寂しい人物として、無声映画は感傷と憐憫の対象にするのだろうか。観客の動員をつねに考えていたチャップリンの映画にはそういう感傷や憐憫を戦略的に使用していた側面があった。けれど近代と前近代の対立を感傷や憐憫として捉えることは、結局機械対人間というつまらない構造を反復するだけだろう。むしろ無声映画は機械対人間、物質対肉体、物質対心理のような、それこそ近代が発見した二元的構造を廃棄しようとする。無声映画は機械と物質に対立する肉体や心理を抹殺するだろう。近代が発明した人間という概念に対して、人間の側ではなく物質の側に映画はつくだろう。無声映画は肉体や心理を蹂躙するため、人間よりも機械の優位について語ることを選んだ。もし人間の肉体や心理の表出を映画が肯定するなら、映画は舞台の再現だけやっていれば充分だったはずだ。映画において俳優の演技が舞台の再現を目指さなかったのは、映画は生身の俳優の肉体や心理を肯定しなかったからであり、俳優を一人の人間としてよりも機械の部品のように扱うだろう。
映画の技法とは俳優の心理をあらわそうとするために発明されたのではなく、機械の変調、故障、破壊を肯定的に表出するものとして発明されたのではないだろうか。リリアン・ギッシュの顔があんまりにも美しかったからカメラが思わず彼女の顔に寄ってしまったという、まるで現場で起きてしまった事故を肯定するものとしてクローズ・アップ技法が発明されたように、映画的技法は最初から事故や変調を肯定するために発明されたのではないだろうか。失敗=アクシデントは否定されるべきものではないし、成功との対比で語られるものでもない。映画の歴史はアクシデントの累積であり、それは技術が更新されることでアクシデントを克服し、成功するための苦闘の歴史ではなく、成功という概念を無化するアクシデント。アクシデントを積極的に呼び込む磁場、あらゆるアクシデントを現場に呼び込むために日々更新される召還の秘術として映画の歴史は語られるだろう。
エイゼンシュタインのモンタージュ理論が、物語を時計のような直線的時間に合わせて語るためのメソッドというよりも、普通に長廻しで撮っていれば舞台の直線的時間の再現になってしまう恐れがあるので、その直線的時間を切断し、ずたずたにすることで舞台の時間とは違う、映画独特の時間を発見するために考えられたのではないだろうか。映画はじつはそんなにスムーズにつながっているものではない。ショットAとショットBが、ショットCによって止揚されるというモンタージュの弁証法は、AとBを対立的に、そして互いのショットが孤立したものとして捉えることで成立する。そのためにショットAとBとCのあいだには互いのショット同士の絶対的な分離/切断がなされていなければならないだろう。そして分離/切断されたショットがいくら次のショットで止揚されるからといって、違和感なくスムーズに流れて行くものだろうか。AとBを止揚したショットCは次のショットDとまた対立的関係に入りショットEによって止揚されなければならず、止揚しては対立し、また止揚しては対立するその無限の反復を肯定するエイゼンシュタインのモンタージュ理論は、あらゆるショットをつなげるための理論ではなく、すべてのショットをつなげずに違和感を維持して、切断されたまま映画を進行してさせていくための理論なのだ。
『サイコ』のシャワーシーンのショットの割り方は、最後の殺人に向けて劇的な盛り上を感じさせるようにつなげているのだろうか。なにか不穏なことが起きそうだという雰囲気で、全体のつなぎがなんとなく滑らかな感じで進行しているようにみえるが、シャワーのホースやバスルームのカーテンのアップを筆頭に、シャワー室での殺人を形成するためのショットは、滑らかに時間が流れていくようなつながりを目指しているというよりも、現実に流れている時間を分断し、断片化を目指している気がする。互いのショットがつながることを拒否しているような感じがあり、『サイコ』のシャワーシーンでは滑らかな時間の進行を見ているというよりも、断片化された写真が意味もなくただ洪水のように流れているのを見ているかのようだ。
シャワーシーンのショットの割り方は、時間の流れを感じさせない。映画がもっている直線的な時間の流れがどこかでねじれてうまく流れない。ラストで精神科医が犯罪の原因を回想的に語るシーンに、なにかとってつけたような感じをうけるのは、直線的な流れを感じさせない『サイコ』において精神科医の回想が起きた結果を過去に直線的に遡行して原因を探求し、その因果関係を説明するショットが異質にみえるからだ。『サイコ』は写真のように時間が止まってしまった映画なのだ。それはどこにもつながることができないので、意味を形成することができず、ばらばらの大量のショットを前にして観客は映像の海に溺れるしかない映画なのだ。
一つ一つのショットが時間的つながりをもたないで進行する。それは過去・現在・未来という時計的な時間の流れに対する違和感の表明であって、映画の時間が未来や過去に向かってまっすぐ進んで行かないなら、映画の時間感覚はジェームス・ベニングの『ステンプル・パス』のように時間が無限にのびていくのか、ロベール・ブレッソンの『ジャンヌダルク』のようにショットが何度も反復することで時間がぐるぐる廻っているような感覚におそわれるのか。
時間が適切に分節化されないために、ぎくしゃくとした時間を露呈した『サイコ』の時間感覚は、統合失調症に近い感覚だ。フレドリック・ブラウン(内田樹訳)のいう統合失調症の時間感覚“分裂病患者にとっては言語が、ひいては時間が分節されていないため、接続すべき過去も服従させるべき未来も彼/彼女は持たない。そこでは永遠の現在といったようなものが展開される。したがって、分裂病的な経験にあっては、通時的な時間によって保証されるような自己の同一性も保持されない。外界を再認する機能がうまく作動しない、このことは現在の経験を圧倒的に鮮明にし、物質を前面に押し出すとともに、外界を不可解で、幻覚的なものに変える。過去と現在を調節できずに、方向を失ったままで、物に行く手をふさがれて、人は一体いかにして前進することができるというのだろうか”。 ジョナス・メカスの映画は過去と現在が編集によって行ったり来たりする。映画が編集という技法を発明したのはフィクションをもっともらしく語るためであり、フィクションにリアリティーをもたせるためにいろいろな編集方法を映画は発明した。並行モンタージュ、カットバック、フラッシュバックやアクションつなぎ等々。時間軸を基準にして編集する方法もあれば、通常の時間軸を無視することでドラマチックに盛り上げる方法もある。けれどヒッチコックもメカスも、物語を滑らかに進行させるためにこれらの技法を使用したのではなく、つなげないために、時間の流れをぎくしゃく感じさせるために、“通時的な時間によって保証されるような自己の同一性”を破壊するために、失調した時間を体験させるための編集を選んだのだ。滑らかにつながらないことで目の前の映像が“現在の経験を圧倒的に鮮明にし、物質を前面に押し出す”のであり、その物質が前面に出た映像で、観客は目の前のことしか追いかけられず、つねに目前の圧倒的な映像を追いつづけるだけで物語を忘却する経験を強要されるだろう。だからヒッチコックやメカスを観て一体なにが言えるだろうか。見終わったあとは切れ切れに映像の断片を思い出すだけで、そこに解釈の入る余地があるのだろうか。
ベンヤミンは近代社会のスピードに肉体を適応させていくためのメソッドとして無声映画を語る。それは社会や機械への正しい適応ではなく、近代的人間は社会や機械のあらゆる変調、事故、故障を呼び起こし、あらゆるアクシデントを待望することを要求するだろう。映写機という機械を使用することが前提の映画というメディアには、機械のもつ避けられない宿命としての故障、事故、変調、破壊を隠蔽したままでいることができない。むしろ映画はそういった突然変異的な事態を最初から想定し、歓迎していたのではないだろうか。なぜチャップリンがあんなに大衆にうけていたのか。それはべつにペーソスの漂う人情劇だけが突出してうけていたわけではなく、機械が正しく動くことよりも『モダンタイムス』のように機械が発狂することを観客は無意識に肯定していたのだ。現に『イージーライダー』のラストは、散弾銃で撃たれたオートバイが路面に転倒することで、とどこおりなく進んでいた正常な機械、乗り物の時間が突然変調する。その瞬間がこの映画の最大の山場であり、このショットがあるから当時の観客に支持されたのだろう。
『断絶』のラストショットでジェームス・テイラーがレースの始まる直前の運転席から、フロントガラスの向こうに見えるゴールを睨みつけているその背後に、ひび割れ変色したアメーバーのような現像ムラかなにかが画面の全体にあらわれる。それはやさぐれた日々をおくる賭けドライバーのジェームス・テイラーの心理をあらわしたのではなく、現像ムラというフィルムの突然変異的現象が映像の物質性をあらわにすることで、ジェームス・テイラーの感傷を嘲笑い、即物的な死に突っ込ませるための狂気に転化させる。アクセルを踏むジェームス・テイラーの目はあきらかに発狂しているようで、このままアクセルを践みつづけ、ゴールを超えてどこかに衝突してもいいという破壊衝動すら感じさせる。
車を運転する者は、どこかで事故を無意識に望んでいるのであり、矢作俊彦の『マイク・ハマーへ伝言』のラストのように、運転席で腐った苺のようにドライバーの頭が潰れている姿ほどダッチ・ジャージに相応しい姿はないだろう。“横転したダッジが、前方を滑っていた。腹で雨を受け、トップが水びたしの路面に白煙を引き摺りながら、サーフィンみたいに滑って行く。ときおり、ボディの隅をフェンスにぶつけ、そのたび、ホイルや、モール、サイド・ミラーのたぐいが吹きちぎれる”。人間がひしゃげた天蓋やホイル、モール、サイド・ミラーと等価物になった姿は、車を運転する者、誰もが無意識に望んでいる姿なのだ。人間と車を一体化するのが自動車事故だ。車と事故の関係は、シャム双生児のように離れることができない関係であり、事故のない運転なんてそれはマスターベーションと同じものでしかないのだ。出会いがなければ恋愛が生まれないように、事故がなければ車なんて存在しない。車のアイデンティティは事故が決定するだろう。
車と事故の関係は恋愛のように互いが互いを求め合う。街頭レースというしょぼいレースとはいえレースカーに乗るということは、恋愛のように盲目的に、熱狂的に相手/事故に出会うことを求めることだ。『断絶』における現像ムラというフィルムの意図的失敗は、予事故、破壊、死、惨劇を予感させる機械の隠れた本質を剥き出しにするだろう。すべての機械、特に車やオートバイに乗る者は、機械の究極的な変調を、事故、破壊、死という機械とそれに関与した人間の行き着くところまで行った状態をどこかで望んでいるのだ。変調した現像ムラがジェームス・テイラーの心理を破壊する。『断絶』のラストはフィルムに写った像がまともに定着されず、このままなにも写らないショットで終わるのではないかという、映画にとって究極的な事故(なにも写っていない)の出現すら予感させる。なにも写っていない素抜けのフィルムが映写されたらどんな気分がするだろう。大けがをしたのに血が流れない、交通事故で倒れた人間を見るような、あの不思議な感覚を思い起こさせる。ひかれても、ぶつかっても血が流れなかったらなんて気持ち悪いのだろう。あるべきところにものがない気持ちの悪さ、なにもないこと、なにも写ってないことの惨劇、それは奇妙な死の予感を感じさせる。
なにも写ってないこと。たとえば写真の場合、なにも写ってない印画紙が展覧会場に飾ってあれば、その白紙の印画紙には無残さを感じるよりも、印画紙の特有の紙の物質感を感じ、なにも写っていない印画紙に物質的な美しさを感じるだろう。けれどなにも写っていないフィルムがスクリーンに上映されたら、そこに美しさを感じるだろうか。そこにフィルムやスクリーンの美しい物質性を感じることができるだろうか。印画紙という物質的基盤がある写真に対して、映像はスクリーンに投影されるイメージだから物質的基盤をもてない。スクリーンになにも写っていないということは、映写機の光以外になにも表出することができないのだ。印画紙という物質にイメージを定着させる写真は、幽霊というよりも死体に近い存在だ。それに対して物質的基盤をもたない映像は、幽霊そのものであり、スクリーンの上であらわれては消え、止まることもできずにただ流れていく。瞬間的にあらわれて消える映像は、写真のように留まって見ることもできず、その留まることをしらない流動性が、映像をますます幽霊の領域に近づけだろう。
『断絶』の現像ムラは、しがない賭けドライバー役のジェームス・テイラーの一生が感光材を塗られたトリアセテートのようにぺらぺらした可燃性の物質と等価であることを観客は知らされる。彼の人生は排気ガスよりも軽く、排気管と彼の命は交換可能なものとして扱われる。ジェームス・テイラーもデニス・ウィルソンも『断絶』のなかではクルマの部品のことしか喋らない。彼らはヒッチハイクでついてきた女の子も、排気管やシリンダーよりも軽いものとしてしか見ていない。彼らには機械の方が重要なのであり、それが人間と機械が対立したときは機械の側に立つという映画の本質をあらわにする。映画は登場する人間よりも機械の方を重要に扱ってきた。ジェームス・コバーンよりも有刺鉄線に突っ込む装甲車や機関銃の連発音のほうが美しいし、007のジェームス・ボンドよりもトヨタ2000GTガブリオのほうが見栄えがよかった。『憎いあんちくしょう』や『栄光のル・マン』では、ヒロインの浅岡ルリ子よりもXYジャギュアやダットサン510の方が祐次郎のパートナーとしてお似合いだった。リュミエール兄弟は『列車の到着』で乗客よりもホームに侵入してくる列車にピントを合わせ、『工場の出口』では工場に出入りする人間を撮るというよりも、映像の中心はカメラのフレームと、カメラのフレームを絶えず横切る人間の動きだ。『列車の到着』の主人公が列車であり、『工場の出口』の主人公がカメラのフレームと人物の動きであるように、生身の人間は映画においてはもう主題にはなれない。ティゾルフ、ストップモーション、低速度撮影、多重露光という元祖SFX的技法に、編集方法としては中抜き、クロスカッティング等々、初期の頃の無声映画の観客は物語の内容よりも、機械の技術と動きを重要視していた。メリエスは映像の魔術師と呼ばれ、人間は機械の魔術的な動きにその座を奪われたのだ。映画は機械の優位を説く。映画は機械の領域にいるのだ。映画は最初から機械の味方だ。初期の映画は内容よりも映写機の早回しや早戻しの方に観客は興味をもっていて、海に飛び込む人間が早戻しでまた崖の上に戻ったり、極端に映写のスピードをあげてみたりと、みんな機械の動きに夢中だった。映画に物語なんて誰も求めなかった。観客は機械の動きを、それも正常に動く機械ではなく、突然変異的に動き始め、なにをしだすのか分からない機械の動きが見たかったのだ。映画は物語の世界に属するのではなく、映写のスピードを変調させ、失調させ、発狂させ、最後は観客に破壊を予兆させる機械のものだ。ジミ・ヘンドリックスが演奏の最後にストラキャスターを壊したのも、音は楽音の側ではなく、機械の側にあるということを証明するためだ。
映画はあらゆる事故を肯定する(事故は機械の側からみれば悲劇ではなく、日常的な出来事だ。“安全第一”、“世界の願い交通安全”、“おみやげは無事故でいいのお父さん”なんていう標語は機械と事故の関係に対する侮蔑であり、もっとも唾棄すべき標語だろう)。とくに車やオートバイの事故を。事故を起こす者は映画のなかでは特権的な階級だった。彼らにとって死は祝福なのだ。凡人に『今は死ぬ時だ』という時間は一生やってこない。彼らにとって車は家の延長であり、なんのアクシデントもないまま無風状態で運転したいだけだろう。
スピード事故で死ぬこと。昔からスターは車のスピード事故で死ぬのが当たり前だった。一塊の肉の塊でしかない人間を、スピードは違う世界に連れて行く。それは個別的存在としての人間を境界線に連れ出すことであり、スピードを加速することは“固有の時間を加速させる権利”を行使し、行使されたスピードの果てにある“固有の時間”のリミットをあらわにするだろう。“固有の時間”のリミットを超えたその先は、固有名を廃棄した匿名の“物質の時間”が待っている。それは人間には知ることのない時間であり、死の領域にいるカメラ=機械だけが経験できる時間なのだ。中枢神経が欠如したこの機械だけが物質=死体を撮ることができる。ナダールが風呂場で溺死の真似をするセルフ・ポートレートを絵ではなくカメラで表現したのは、カメラと写真だけが死を物質として捉えることができる機械であり、固有名をもった人間を匿名の物質の世界へ送り返せるのは写真だけだということを彼は直感的に分かっていたのだ。写真はすでに死んでいるのであり、プリントされた写真は人間には知ることのできない時間をあらわしている。溺死した死体を写すにはカメラはぴったりのメディアだ。20世紀のテクノロジーは死と死体を写すのにふさわしい機械を発見した。
物質という死の時間を先取りしてこの世界に存在する写真は、誘惑者としてわたし達の前にあらわれるだろう。映画や写真が死の場面や死んでいく瞬間、特に事故や殺人にまきこまれて死んでいく瞬間に固執しているのは、カメラだけがそれを撮れるからであり、生から死の領域に人間を誘導するものはカメラと映像と写真なのだ。死の誘惑に引きずられたナダールや実際にカメラの前で死んでいった無名の数々の人達。ダイアン・アーバスはなぜ最後にセルフ・ポートレートを撮らなかったのだろう。バスルームで血だるまになった生から死へ移行する瞬間を彼女なら馬乗りになって“とっても美しい顔だわ”、“なんて素敵な姿なの”、“ねえ、いまの気分はどう?”と言いながら撮っただろう。ウィージーの撮ったニューヨークの路上で殺されたギャングのように、写真に撮っておけば死後何度もその姿で蘇生することができる。彼らは新しい肉体で、印画紙という可燃性の肉体で今度は生まれ変わる。ボルサリーノにイタリアンスーツであたまを撃ち抜かれたまま蘇る。ダイアン・アーバスがセルフ・ポートレートの自殺写真を撮っていれば、バスルームで血だるまのまま蘇った彼女は、もう一回この世界に生き返るってくるのではなく、死んだまま無限に生きるという死者としての生を強要されただろう。
誰もがスピードを加速するのは、肉体のリミットに直面したいからであり、取り返しのつかない事態を微妙に避けつつも、生から死へ移行するその瞬間の少し前の、その先の扉が開くかもしれないぎりぎりのタイミングを経験したい。取り返しのつかない事態に直面した『気狂いピエロ』のベルモンドはその扉を間違って開けてしまい、“こんなバカな”とつぶやく以外になんの手の打ちようもなかった。黙って惨事を引き受けるしかなかった。けれどそれは不幸なことなのだろうか。事故はいつも誘惑者のようにあらわれる。一気にアクセルを右足で床まで踏み抜けと、ガードレールを乗り越えて崖の向こうまでダイブして鳥みたいに飛んでみろと、車はあなたの耳元で囁くだろう。クラッシュした車の運転席で粉々にあたまが割れたわたしの死体こそが機械としての車のパートナーにもっとも相応しい。ボードレールの書いたように、わたしのいなくなった世界が、わたしにとって一番幸せな世界なのだ。写真や映画はつねにわたしを除外する。わたしのいない世界を撮るために映画や写真があるのだ。ベルモンドが爆死した後の地中海の光景はわたしがいなくなった後の光景であり、『軽蔑』の呆気なく死ぬブリジット・バルドーの無残な交通事故も、わたしの死んだ事故現場でクラッシュしたクルマの残骸とわたしの死体が散らばっているようで、それはとても美しい。惨事を起こした後の、わたしがいない光景を映画は先取りしてわたしに見せてくれるだろう。“私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる”ように、わたしのいなくなった世界こそが車があるべき場所なのだ。
“固有の時間”のリミットを超えるため、ダイナマイトを巻き付けるベルモンドの取り返しのつかない姿や、バルドーの血まみれでハンドルにもたれる死体はみんな“物質の時間”を生きている。それを写すのはカメラでしかできないから、映像や写真はとりつかれたようにそれを撮ってしまうのだ。映画は肉体のリミットを超えた場所を写す。『イージーライダー』の二人がトラックの助手席の人間に散弾銃で撃たれて呆気なく死ぬように、“固有の時間”の時間から“物質の時間”、“固有名をもった人間”から“匿名の物質”に転化する過程をカメラは写すことができる。
金村修

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