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Statements / 2014年2期 4月14日〜6月16日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2014_02
ステートメント
 食べて吐いてまた食べる摂食障害は、映画「暴力脱獄」のポール・ニューマンが演じるクールなルークが穴を掘ってまた埋めてという無意味な行為を一日中繰り返すことと似ている。動物的にお腹がすくのだけれど、絶対に栄養にしてたまるかという強い意志が嘔吐行為に走らせ、一日中台所にへばりついて冷蔵庫の前で嘔吐と過食を繰り返すその行為はクールなルークそのものだ。食べることと吐くことを極端に近接させるクールなルーク的摂食障害者にとって台所は意志が肉体をパーフェクトにコントロールすることができる栄光の場所であり、意志の勝利としての台所がその名誉を受諾する。すべての食物から栄養を追放する摂食障害は、栄養補給という生命維持を軽蔑して、肉体を滓のように扱うだろう。食べるなんて、それもおいしそうに食べるなんて肉体の本能に負けた咀嚼、嚥下、反芻の奴隷になるなんて意志の勝利としての摂食障害がそれを許さない。食事をイコール嘔吐の近似値にもっていくために、摂食障害は臓器のあらゆる栄養の咀嚼消化吸収という体系的手続きを拒絶する。あらゆる動物に実在する消化器官を追放して、消化器官が腐敗した肉体、消化しないで逆流する、口から入ったものが口から出て行く入口と出口が同じ閉じられた円環としての咽喉。体のなかで食物が消化器官の作用で栄養や水分になり、体中の隅々にまで充満するなんて、考えただけでもうんざりする。血も肉も骨もいらない。ぺらぺらの紙みたいなうすっぺらな存在になりたい。
 肉体が有機的統一体であるというのは、解剖学の進歩によって発見された肉体の分類/階層化であり、自己の肉体は己が統合統一するという、肉体を支配しようという思い上がりに対して、有機的統一から無政府的肉体と、非有機的混乱と接合不可能な肉体のパーツに取り戻されなければならないだろう。近代的に体系化された肉体に対してスプラッター映画と料理とフリードランダーが攻撃を仕掛ける。トビー・フーパーの「ファンハウス」の人間の有機的配置からは考えられないようなところに首をつけられたトミーや、洗濯物を乾かすプレス機が人間化する「マングラー」。スプラッター映画だけではなく、料理もスプラッター映画並みに対象の生物の肉体の秩序に異議を申し立てる。うさぎの首に包丁を入れて血管を切り、逆さまに吊るして血抜きし、血抜きされたうさぎの腹のなかに肝臓と腎臓と生ソーセージのペーストを詰め物にして、玉葱やシャンピニオン、トマト、薬草、朝鮮アサガオを入れて煮込む。鳩のお腹を肛門から引き裂いて肝臓のペーストと野葡萄の詰め物を押し込みオーブンでローストする。動物の内蔵にサワークリームをかけたペーストのゼリー寄せに、メインデッシュには皮を剥かれた七面鳥の丸焼きにクリスマス用の赤いリボンが結ばれている姿は、「フアンハウス」のトミーの喜劇的な亡骸とどう違うのだろう。
 生物の有機的統一を蹂躙して、肉体のパーツ化を促進するのが人間の料理なのだ。生命維持に必要な行為が人間にとって快楽の対象になり、動物的には平凡な日常的反復が悦楽的で淫靡な想像力の試練に課せられ、快楽の対象に転化させられる。台所は三菱銀行人質事件での梅川照美の、お前らにソドムの市を見せてやると言ったような台所に、そがれた耳から流れる血で床一面血の海だった台所に、腐りかけて反吐色になった死体に灯油をかけて火を放ち、その火で暖をとろうとした台所に、俺は気違いなんかじゃない、善と悪の区別をつけないだけだと言い放つ梅川照美の、善と悪の境界を踏みにじる彼岸の台所に変貌する。
台所は生物を人間の快楽に奉仕するために切り刻む屠殺所であり、創作という名の新しい料理方法は、生きているすべてのものにファンハウス的陵辱を、死んでしまったものには愉快なキャラクター化の促進と笑いのとれるニックネームが強要する。飴色に脂光りした時代遅れのボストン型の眼鏡をしたトミーの首が蔓薔薇模様の皿に盛りつけられ、首のまわりには溶けかかったトマトや、玉葱、シャンピニオン、生の平貝、アオヤギ、ミル貝、生クリームが盛りつけられ、食後のデザートとしてアーモンドをかけたアイスクリームが添えられる。蔓薔薇模様の皿の上に鎮座するトミーの延髄から、粘液と血液が皿の縁からはみ出してテーブルクロスを汚す。
切断されたトミーの首は、トミーの記憶を残しながらも、その記憶には辿り着けない。宛名のないトミーの首。統合失調症患者が机の上に置かれたものと名前の関係を断ち切られ、ものの名前を言えずにただ黙って指差すことしかできなくなるように、断ち切られ非領土化されたトミーの首は、「彼らは、物がふつう配分され名づけられるなめらかなこの空間に、粒状で断片的なおびただしい小領域をつくりだし、そこでは、名もあたえられない類似関係が、物を非連続ないくつもの孤島のなかに押し込めてしまう」。孤島に閉じ込められ名前を奪われたトミーに新しい名前が与えられるのだろうか。孤島に閉じ込められたトミーがこの世に呼ばれることは二度とない。指でさされたり身振りで指示されるだけの呼称されることのないただの首は、いつか肉体との有機的なつながりも忘れ去られそれがなにを意味していたのか分からなくなる腐敗した生肉になるしかないだろう。
 スプラッター映画は人間をリミットぎりぎりのデットエンドの状態にまで追い込む。内蔵と血液と粘液と骨の奥に隠された人間の基底をさらけだす。内蔵と血液は君のものではない。肉体は誰のものではなく、チェンソーや80㎜迫撃砲で滅茶苦茶にされた肉体や臓器は誰にも似ていない。互いの関連性をなくした肉体のパーツに、焼肉屋のメニューに気軽に列挙されるように名前をつけよう。レバー、タン、ハツ、ミノ、肩ロース、てっぽう。スプラッター映画と料理の関連性は、有機的統一体としての生物に新しい名前を授け、美しい盛りつけでばらばらにされた生物のパーツを祝福することであり、豚はデジプルコギ、鶏はタッカルビに、チーズブルダック、ヤンニョムチキン、コリアンカルパッチョ、ナクチポックン、キムパ、発音するたびに歯のあいだから息がもれるような、殺される直前のトミーの噛みしめた歯のあいだから漏れるブレス音のように聞こえる。切断されたトミーの首にかつての名前は与えられず、レストランのメニューに新しい名前が載せられる。カプサイシンで脂肪燃焼されたトミー、ウマウマ韓国風ワカメスープに浮かぶトミー、プルコギチーズのトミーのキムパ、韓国風海苔巻きのニンニクとエゴマがアクセントの、いかと牛肉をすき焼き風の甘辛いヤンニョムで鍋に煮込まれた新しいトミーの名前Ajinomotoごま油好きのごま油大さじ一杯、味の素75g瓶三振りされることでセサミンたっぷり胡麻サムギョプサルセットのようにトミーが祝福される。むかしテレビで神戸牛として立派に育った牛が頭に花子と書いたプレートと花束を結びつけられ得意げに場内を一周したあと、業者のトラックに乗せられて行く映像が流されていた。ガス室へ続く廊下がHeven’s streetと名付けられモーツワルトのなにがしかの曲で送られて行ったように、花子の未来は食用として屠殺されたのではなく、みんなに祝福され名前を変えられ新しく生まれ変わる屠祝のために連れて行かれる。
 鉄道会社は、自殺は人身事故、線路への無断侵入はお客様立ち入り、不法侵入者を捕まえると、お客様安全確保とロシアだったら国家反逆罪と言われることがていねいな様つきで呼ばれ、異音確認、踏切安全確認、ポイント確認、扉安全点検と70年代の動労が指導した順法闘争を彷彿させるやまねこスト風の言葉の書き換え。そういうのは強要強制と言うんだと思うぐらいの安全とご協力よろしくお願いしますを連呼する車内放送。有無を言わせずご協力させられるなら、シルバーシートは障害者妊婦老人の優先席です携帯のご使用はお控えくださいと包丁でトミーの柔らかい下腹部をぶすりと刺して、ご協力のほどよろしくお願いしますと放送すれば誰もがにっこり頷いてくれるだろう。手をついて命乞いをするトミーの生白い首めがけて安全確認のためだとバールが打ち込まれ、横からこめかみの位置に正確にヒットして打ち抜かれる安全第一安全再優先の尖ったやすりがトミーに最後の安全点検ご協力よろしくお願いしますを強要する。
 自由は労働によってつくられるなら、自由は労働によって肉体を撲殺することではじめてわたし達は自由を体現できるだろう。あらゆる根拠、原因を自らに設定する自由に対して、わたし達は肉体を完全に自分のコントロール下に置くことができるのか。好きなように生まれ、死ぬことを拒否し、生理現象すら意志の管理下に置けるのか。だから自由は肉体の消滅によってしか成立しない。自由は肉体と敵対し、自己の消滅、屠殺という名の収容所的労働によって可能になるだろう。肉体の痛みや欲求をコントロールできない人間に自由が可能になるのは、意志のコントロールに逆らう肉体の撲滅であり、わたしは粉々にされてぺしゃんこにされて誰にも似ていない骨壺のなかの骨になることでわたしの自由は実現する。全的自由を追求する共産主義者はすべての人民に自殺を奨励するだろう。わたしをなくすことが自由の実現なのだから、屋上から電車のホームから飛び降りて誰とも区別のつかないぐちゃぐちゃの吐瀉物のような臓器と溶けかかった食物の滓のような脳脊髄液をソースにして、ぷるんとしたピンク色のサイコロステーキのような肉片をブルゴーニュ地方の赤ワイン煮か香草ファルス巻きカルピスバターのミルフィーユパイ添えのようにして人民の前に差し出される。
 スタンダールが列挙する、ミルク、タルティーヌ、シャンティのクリーム・チーズ、バールのジャム、マルトのオレンジ、苺の砂糖漬け。「これもまた純粋な表象の快楽だろうか」。チェンソーで切断された肉体が映像のなかで切り株の海の洪水のように出現するとき、分断された肉体が純粋な表象の快楽として現れるために、気にいらない奴は全部透明にすればいいと言ったシリアルキラー関根元のように肉体を透明化または記号化しなければならない。臭気の元である肉の存在を透明化/記号化するためには、切断された人肉を鯵のたたきみたいに細かく切って川に流すか、そんな肉屋的な手際の良さを発揮できない凡人は、カメラを持って死体を映像化することで肉体を純粋な透明に接近させることができるだろう。映像は肉体をばらばらにして、肉の存在を消去する。包丁の代わりにクローズアップレンズを多用することで同一性としての肉体をばらばらにする。映像化された肉体は起源の肉体との関連を拒否し、これはもう誰のものでも何かに似たものでもない。クローズアップレンズの多用は京都のキャバレーベラミでの田岡組長射殺未遂事件を起こした鳴海清の骨がラーメン屋の出汁に使われたような肉体へ喜劇的な屈辱を強要し、肉や器官のない死体=映像を見てわたし達は頭蓋骨の眼孔に指を突っ込んで歯をがたがた言わせ笑わせることだってできる。
 ばらばらになった彼らに、本当の仲間になった気がしたというシリアルキラーのジェフリー・ダーマーの発言はフェテシズムな欲望として肉体のあるパーツを愛するのではなく、類似関係を断ち切られ何者でもないパーツになったからそこに友情を感じたのだ。クローズアップの映像は肉体のパーツのフェテシズム化ではなくフェテシズムの棄却であり、それそのものではなくそれの代理品を本物以上に崇め讃えるフェテシズムに対して、クローズアップ映像は起源の再現としてのパーツの拒絶、起源との類縁関係が切断されたジャンク、これがなんであったか思い出すこともできない残滓、石田吉蔵の性器を持ち運ぶ阿部定のフェテシズムは、愛ではなく喜劇であり、映像はあらゆるフェテシズムを喜劇に変えるだろう。性器を持った女阿部定の限界は性器を石田吉蔵の代理品に例えたことであり、なぜ性器を料理して、みなさんにふるまわなかったのか。海綿体にナイフを入れて、ぶつぶつ切られる毛細血管から血を、スッポンの首を処理するように一気に切断して沼田の滝のように噴出させる。血の塊がこびりついた性器の皮を魚の鱗取りのようにさくさくと音をさせてゆっくりと剥いでいく。サラミソーセージのようにきれいにスライスされた石田の性器はもうフェテシズムの対象ではなくて、食欲の、お腹のなかに入ってしまえば跡形もなくなる食欲の対象として生命の循環装置の一環としての石田吉蔵に変質させることで、革命の側に立った阿部定は食を快楽に転化させるブルジョア階級のイヴェン的食卓に対してプロレタリアートの退屈で単調な食人嗜好を対峙させる。
 世界が絶賛!!短期集中ペニス増大メカニズム!!
98.4%のペニス増大成功実績先端療法《リゼノール100E》2タイプ100種の成分が蘇生中の死者のペニス増大に導く!古来より精力増大に効果のあるとされてきた成分ストリキニーゼから最先端の成分まで贅沢に配合し効率的にペニス増大を目指します。最新の細胞組織再生理論は性器を切断された死者の石田吉蔵ですら勃起可能の、死んだ人間達のペニス120%増大のみを目的として特化させ、ペニス内海綿組織の急激な増殖現象を臨床レベル/臨死レベル/集中治療室/ホスピスでの前立腺癌、末期睾丸癌患者ただマイヨ・ジョーンズのためではなくで再現立証し年齢・人種・髄虫赤卵蜂、侏儒症、リリパット、シデムシ、マイマイカブリ、モグラなど個人/遺体による差違が生じない安全なペニス増大法として「リゼノール100E」が認められたのです。総合改善法としても最適。国内モニターデータから年齢や体格、腐敗度、膿の滲む脱脂綿、ぷっくりした恥丘、くいちぎられた乳首に附着する粘菌類の胞子の差なく極めて高い着実性を特徴とするペニス増大効果はもちろん早漏の死者や遅漏の死者の症状改善や死者の包茎手術、死者の精管の切除、死者の不妊治療、霊魂の勃起不全ED治療としての効果も期待出来る可能性があります。
 骨髄に骨髄の役割を放棄させろ。延髄の第二関節から現れる、焼けて黒ずんだ骨が喉仏という肉体と仏の意味的一体化を促進する命名行為を根底から打ち砕く火葬場。プロレタリアートは火葬場を唯物論的に擁護する。燃えて粉々に粉砕された骨は、あらゆるメタファーや肉体の秩序と敵対する。あらゆる建築物が建てられた瞬間から崩壊を待ち望むように、粉々になった骨と燃えかすの灰になった姿が完成された人間の姿なのだ。骨壺に入れ土に埋められ墓石を建てられ戒名という死後の名前を与えられることなんて、残滓として完成された人間にはうんざりだ。アスファルトの路上、ゴミ捨て場、腐った水草が泡をふくドブのような池、あらゆる場所に人骨を投げ捨てろ。残飯や屑と同じようにあちらこちらに投げ捨てろ。共産主義者は人間の尊厳に挑戦する。人間の尊厳というブルジョア階級の反動的観念は、残骸や屑の唯物的正しさの前に屈服するだろう。
 「すべてちっちゃな動物は、しっぽにリボンをつけなくちゃ」と歌われるムーミントロールのダンスパーティーでは、すべてちっちゃな動物が最新のオーブンレンジで外はかりかり中はひよひよにローストされるか、首をひきちぎって血抜きされたあと肛門に焼け火鉢を突っ込まれるような結末が待っている。パーティーが終わればうちわを持ってダンスの音頭をとっていたシマリスに尿道カテーテル、肺動脈カテーテル、心筋梗塞カテーテル、膀胱留置カテーテルから除草剤とバルサンと一酸化炭素が導入される。バイオリンの調子と合わせていたいなご達や小さい虫達は耳や口、目をシリコンラバーでコーティングされたまま洞窟のなかでチクロンBを投入される。ムーミントロールが叫ぶ、さあ森のちっちゃな動物達にくわせてやれ。良好な健康状態にあるムクドリ、オナガ、シジュウマツと森の動物達に実験が強制される。高度9000mに相当するように酸素をゼロされ、呼吸開始から30分後に発汗をはじめ頭をぐるぐる回しはじめる。5分後に痙攣が起こり、呼吸の回数が増え意識をなくす。13分後に呼吸が低下し、1分間に呼気3回になり、嘴から血を流し瞳孔がひらいてやがて呼吸が停止する。
 森のパーティーは夜明けまでには終わるだろう。リンゴ酒の樽のなかで酔って溺死する黄金虫に、かばの木の皮でつくったさかずきで潰されて体液を路上にぶちまけるカタツムリ。彗星の接近で干上がった、むかし海だった泥沼を裸で行進させられる。精霊と虫と小さい動物達の葬送ために吹かれるスナフキンのハーモニカ「こまった、こまった」。♪こまった こまった 裸はつめたい 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 裸で全員駆け足 ときは五時 おまえは ひとり さまよう つかれた足を ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ ひざまずけ 手を頭に 手を頭に 手を頭に 手を頭に 手を頭に 手を頭に 手を頭に手を頭に手を頭に手を頭に手を頭に吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え吸え口で吸え口に口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え口で吸え けれども 家は見つからない こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ こまったひざまずけ♪ 木の精霊はトルエンを強制的に吸引され、テレビの砂嵐を眺めながら脳の細胞を一個一個破壊していく。脳細胞が軋むような音を立てて破壊されていくのを聞くのは海のむこうのさざ波の音を聞いているようですごくリラックスする。貝のなかに閉じこもっているような気分。トルエンで痛みを感じなくなった肉体は自分のものではないみたいで、自分の体に火をつけて皮膚が黒くやけどをおこす。面白くもなければつまらなくもない退屈な火傷。だけど退屈だから火をつける。絶頂が脱臼するように、いつまでも退屈が持続するように何度でも火をつける。自分の首がギロチンで切断されるとき、どんな音をたてるかそんな光景を想像すると胸がどきどきすると言うシリアルキラーに、首が切断される音なんて退屈に決まってる。マルキ・ド・サドの退屈と無限反復としてのソドム百二十日。快楽の頂点をいつまでも遅滞させ、絶頂の時間を無限の未来に先送りするのではなく、絶頂をその都度殺す暗黒で平凡な反復。シリアルキラーにとって殺人は日常の出来事なのだ。俺が絶頂を迎えたときがお前の死ぬときだと語ったロシアのシリアルキラーはテレビの何千本の積み重なった走査線のように無限に肉体が切り刻まれることを望むだろう。彼にとって他者を殺すことは自分を殺すことだから、殺人の頂点で被害者と加害者の主客がその瞬間に同一化する。彼岸と此岸の間であらゆる平行線の交差を見るような奇蹟に対して赤色のシリアルキラーは、虫を殺すのと同じぐらいの退屈な奇蹟の連続と標本にする価値もない無名な虫達の蓄積をつづけるだろう。ベッヒャー夫妻のような単調な反復と蓄積を思い出させる。
 純粋な表象としてあらわれた死体には記憶が消去されている。深層のない表象に記憶のいるスペースはどこにもない。わたし達は名前を列挙するけれど、列挙された名前とものとの関係は切断されてオノマトペのように単語を発声するだけだ。命名されるべき根拠が崩れ落ちている。肉体の統辞法は破壊され、文法の力で固有名を統御できないまま、らしき言葉を叫ぶ。統辞から解放された固有名は、厚みを失いどんどんと薄い白紙のような紙に近づいていくだろう。臨終を迎える固有名の最後の状態。麻原彰晃が言ってたように人は死ぬ、かならず死ぬ、絶対死ぬ、のだから固有名もいつかその寿命/賞味期限が終わるのだ。賞味期限の切れた固有名を転生させるために、麻原の言うポアではなくトミーのような創作料理が必要とされる。料理は口唇の快楽ではなく、転生と命名のために行使されるだろう。
 暗室とは解剖室であり、そこで分類整理作業にいそしんでいたアウグスト・ザンダーは屠殺した肉を整理し肩ロース、ヒレ肉、豚ばらと命名する分類と整理の肉屋だった。人間の分類それは人間の献立表をつくっているのであり、ザンダーは人種の分類と階層化と振り分けを続けていたナチスともう一歩の距離だった。ザンダーがナチスから嫌われたのは分類を階層選別と連結させなかったからだろう。分類しているだけで、まとめることのできなかったザンダーの無目的な分類は、分類されたものがそのままデーター化もされず平積みにされ埃をかぶって机の上に地層化されていく。分類することで、分類されたもの達のなにかが確定記述されるわけではなく、分類されることでさらに分からなくなる分類。アウグスト・ザンダーは世界を整理できない分類でいっぱいにしようとしている。
 映像はあらゆる対象を圧縮し分割/断絶させる。フリードランダーの画面分割方法は、三次元を二次元に圧縮して更に二次元化された対象を切り刻む。意味もなく画面を分割切断し続けるフリードランダーは手のつけられないシリアルキラーであり、圧縮された二次元の画面をつくりつづけるフリードランダーに、写真におけるいきいきした三次元的再現は唾棄されるべきものだ。彼は現実を四角いフレームで切り刻みたかっただけだ。生きている世界にフレームを持ち込むということは世界に対して刃物を導入することであり、フレーミングは世界に対して四角い桃色の傷口をこじあける。生きているものの再現ではなく、生きているものの圧縮二次元化であり、真っ平らにされたまま生きているもの達が画面で何重にも分割される。
フリードランダーにとって写真に撮られた世界は、律儀な勤め人のように連続殺人を続けていたヘンリー・リー・ルーカスの人間?それは俺にとってなんでもなかった、ただの白紙だったようにフリードランダーはなにかを写しながらもそのなにかを平面のなかに消去して、被写体を白紙のようなぺらぺらの存在に還元させるだろう。人間の生死は運命に左右されるって信じているようだけど、そんなものは嘘だ、人間の生死はこの宮崎元が決めるんだと言ったペット愛好家殺人事件の宮崎元のように運命のすべての決定権は写真にある。写真は撮ってしまえばすべて遺影になってしまうように、写真家は撮ることで、対象に死を突きつけ、あなたの運命を決定する。写真は人間をヘンリー・リー・ルーカスのように白紙にするだろう。永久に二次元の紙のなかに定着される。それをちり紙にしょうがそのままトイレの水にながそうが、決定するのはフリードランダーだ。わたし達はフレーミングという写真の技法で現実から孤立させられ遺影化され、ミディアムショット、ボディショット、クローズアップと望んでもないのに好きなように切り刻まれる。
 公衆トイレの個室で赤ん坊の着るロンパースを羽織った中年の男がパンストを被って顔を隠し、頭にうさぎの耳のようなフードを着て屠殺されようとするうさぎの姿を擬態している。体に密着したロンパースはお腹まわりが妊娠八ヶ月の妊婦のようにでっぷりとふくれあがり、それは腹に詰め物を大量に入れられてオーブンで焼かれようとするうさぎみたいだ。オーブンで焼き殺される直前のうさぎが不思議な国のアリスみたいに、時計を持ってトイレの穴に落ちてみようとしても、水洗トイレなのでそれもままならず、ただクックックックッと咽喉をしぼるようにして声を出す様は、ゲーゲーと咽喉をしぼって胃液まで吐こうとする嘔吐行為と瓜二つ。うさぎは分かっているのだ。それは肉体のあらゆる器官を食物摂取のために使われることを放棄させる抵抗線の構築ために咽喉をしぼりあげ内蔵の裏側まで吐き出そうとする嘔吐と意味のない小動物の唸り声を擬態しつづける。
嘔吐しながらうさぎの物真似をつづける。嘔吐しながら笑い、嘔吐しながら食べつづけ、嘔吐しながら喋り続けなければならない。食事の快楽に対して嘔吐という咽喉への拷問。言語の発声器官としての咽喉を、口唇の快楽としての食事に領土化されないために嘔吐は発声器官としての咽喉の領土を食物の滓とべたべたした唾液と茶色くなった胃液で食道を占拠するだろう。動物のようなうめき声が吐気と痙攣の混じりあった咽喉が締めつけられるような音にかわり、酸性の溶液が喉元にこみあげて薔薇色の舌を通して溢れ出る。夜七時のお茶会には必ず出るよ。インヴィテーションカードを君はいつも滅茶苦茶にしてしまうという歌があったけれど、インヴィテーションカードの名前はいつも、私の躰は勝手に冷蔵庫から海老と帆立を取りだし薫製にされた睾丸に塩と胡椒をふりかけ、小鍋と性器と小腸にバターを塗りそれらを置きノイリーをふりかけて火を付けた。フーッとノイリー酒が音をたて始めたら蓋をして弱火で約二分。帆立はまだ中まで火が通っていない。お前達魚介類は血が煮えたぎるまで火を通されるのが宿命なのだ。海老の尻尾は既に火が入っていた。尻尾から悲鳴をあげる海老の醜態。いつも立派な触覚と尻尾を自慢するオマール海老がどこまでわめき声をあげ、群衆の前で取り乱すのか。海老のあたまは脳みそまで吸われる。脳みそまで吸われるのが彼らの望む往生なのだ。快楽のために死ね。豚や牛は死ぬ直前までその陽根を痙攣させて我々を笑わせ、死んでからも珍味という名でさらにえげつない笑いをとろうとする。それと同時に別鍋を熱く熱し、少量のオリーブオイルでほうれん草をサッと炒めた。この時使うフォークにはニンニクが突き刺さっている。うさぎを擬態する小人の中年男がこのにんにくにフォークを作りながら教えてくれた。「ほうれん草はニンニクと相性がよいから、こうして半割りにしたニンニクをフォークの先に刺して、公衆トイレの個室でそれでかき混ぜる。スプーンをライターで炙って沸騰したら白い溶液を一気に注射器の針で吸い上げる。そうすると何とも良い香りで旨いほうれん草のソテーが出来上がるんだ」少量のほうれん草を強火で瞬間的に炒めるのがコツだった。火を止めてからにして皿の真ん中におく。その上に火が丁度入ったか入らないかの海老と帆立を盛りつけると、うさぎを擬態するリリパットの中年男がロンパースの上から自慰をはじめる。咽喉をビニールテープで締めつけクックックックと鶏が絞め殺されそうな声を出しながら射精と嘔吐の絶頂を迎える準備していると嘔吐する直前の食道の痙攣がはじまり、精液と吐瀉物の粘液が吐き出されようとするそのときに、公衆トイレの扉が開かれ、うずらの着ぐるみを着た街の自警団が金属バットを持ってリリパットの中年男のお腹めがけて振り下ろす。リリパットの男は死骸になりたかった。肉欲を感じる海老と帆立のなかで死骸を始めて見たときの耽溺感を思い出す。脳みそまでもむしゃぶりつかれる海老の姿に、頭蓋骨に5㎜程度の穴をあけられてストローで脳みそに吸付かれたい。透明なストローのなかを茶色いうさぎの糞のような脳漿が流れていくのをぼんやりと見つづける。わたしの耳のなかにきれいな羽を持った蝶と蜻蛉のように複眼の眼とふさふさした尻尾を持つ天竺ネズミが耳の奥のカタツムリ管を通って夢の中で喋る。死んだらいい笑い者だ。オマール海老の死はげらげら笑われる死に方だった。だけどいい笑い者以外の死に方があるだろうか。海老や帆立や豚や牛より立派な死に方なんてあるのか。ほうれん草の持っている熱で中まで温まる。尿道のなかを羽虫達がかさかさと音を立てて通過していく。鏡の中の自分を見ると片目がろんぱっていて、頭を振るたびに黒目の部分が上下に動くその様子は、まるでできそこないの福助人形みたいだ。私は鍋に残ったノイリーを煮詰めながら、ボールに入れた卵黄に水を少し入れ軽く沸いているお湯の上で煮えないように注意しながらハンドミキサーでかき立て始めた。除細動器に心電図モニター。電極パットを胸に張り付け、心電図が解析したあと一気に電気ショックを与え、除細動器ががらがら音を立てて動きはじめる。電気ショックをかける度に死体が飛び上がり、救急隊員が心臓マッサージで強く心臓を押すと肺からぴゅうぴゅうと変な音をさせる。心電図フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット、フラット。もう死んでる。だけど救急隊員達は人間の尊厳のために心臓の周辺が火傷みたいに真っ黒になっても電気ショックをやめないだろう。これは人間の尊厳のための戦いなのだ。慌ただしい救急隊員の蘇生が奇妙なぐらいゆっくりとスローモーションのように見える。けれどそのスローモーションは決してサム・ペキンパーを想起させたりはしないだろう。ビキニのアメリカ人女が踊りまくる弛緩したMTVの腐ったスローモーションのような冗談みたいな人間の尊厳のための蘇生。人間の尊厳がアメリカ女に肩車されて陽気にVサインをあげて、片手にはバドワイザーで音楽はビーチボーイズだ。ビキニ姿の人間の尊厳達に男達がうしろからビキニに隠された本当の人間の尊厳の乳首をつまんで揉みくだそうと気もそぞろに焦っている。カスパー液で濡れた赤黒い性器をパンツのなかの人間の尊厳になすりつけようとする。まるで天使が作ってくれたカプチーノの泡のようだった。出来上がったクリームソースにその泡を丁寧に混ぜ、海老と帆立の周りに流した。トイレで水洗の便器におしっこをすると黒くていやな匂いのする液体が流れていく。
ほうれん草の上に海老と帆立が盛り上がり、その上と周りに黄色がかったベージュ色のクリームが広がる。これが自分の体から出てきたものなのだろうか。工場の廃液が血管のなかを流れているのかもしれない。私は直ぐ横でデザートのブランマンジェを盛り付けている。
 料理はつねに対象に新しい名前を与えつづける。豚はポークチョップス、カツレツ、サラミソーセージ、ロースハムと呼ばれ、苺はジャム、胡瓜はピクルス、屑野菜や菜っ葉はサラダ。エビがパン粉にまぶされ高温の油で揚げるとエビ・フライという新しい名前で呼ばれ、ジャガイモとサラダを両脇に従えてクリーム・ソースを頭からかけられるとき、トミーの頭もビーフ・シチューのなかで煮込まれればハンガリア風ビーフ・シチューと呼ばれカツレツやエビ・フライと共にこの世の食卓に召還されるのだろうか。雲丹プリン、エビのブータンブラン、蟹味噌のバーニャカウダ、サンマのパテ、牡蠣と魚介のシーフードサラダ、メカジキのカツレツ、牡蠣と茸の炊き込みご飯、玉葱ムースのキャビア添え、トマトのコンポートサラダ、白エビのユッケ、からすみ焼きそば。生クリームと玉ねぎでコクのあるまろやかさに変身するトミーのヴィジソース、クラッカーにラ・フランスとカマンベールチーズを添えられ最後に蜂蜜をたっぷり垂らされるトミー流男のフランス料理カナッペ。ブルーチーズとバルサミコソースに煮込まれたトミー。解体されたトミーの精巣や陰嚢がアントルメの上にツリー型に飾り付けられ、濃厚なホワイトチョコレートのムースとカリカリのキャラメリゼしたアーモンドの山から現れる。トミーに食で人生を楽しむ幸せを教えてあげよう。フローマージュブランはチーズの品質フレッシュ感が大事、はなやかなパッションのムースはいかがですかトミー?フルーツたっぷりのシャルロットケーキはお好きですかトミー?タルトにはキャラメリゼした洋梨がふんだんに?ホワイトチョコのブッシュ・ド・ノエルはいかがですかトミー?一番おいしいのは上腕二頭筋の肉、ほらこのへんだよトミー。
金村修

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