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Statements / 2014年1期 1月14日〜3月17日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2014_01
ステートメント
映画『凶悪』での北関東の広くてすかすかの駐車場の風景が、リリーフランキーやその他の役者の演技よりも強く印象に残っている。駐車場の面積に対してまばらにちらばっている車の少なさと、巨大で妙に威圧的な高圧線が、どんな場所だったのか想像もつかない場所の匿名性を強調している。場所の来歴と一体どんな人間が住んでいたのか、という場所の記憶がすっかり抜け落ちて、地平線に向かってどこまでも続く高圧線の重なりが、記憶と歴史の不在を、また北関東はどこまで行っても更地と鉄塔しかないと思わせるような不安感を与える。雑木林か畑かなにかを造成してマンションにしょうと思ったのだろうか。更地にしたあと、マンション計画が頓挫して仕方なく駐車場にした感じのする、どうしょうもなく宙づりにされた、なにもないからっぽの駐車場が後藤明生の書く団地の小説と共通点を感じさせた。団地を「記憶を抹殺する流刑地のような場所」であり「毎日毎日、記憶が失われてゆく」場所と書いた後藤明生。後藤明生は場所特有の記憶が持つ喚起力を抹消して、コンクリートの表象性しか記憶に残らない徹底した記憶の屠殺場のように団地を描いた。ニュートポグラフィーの写真が、写された場所の記憶や伝統を排除して、その場所が世界のどこに位置するのか分からなくしたように、後藤明生の書く集合団地は外見がすべて同じで、部屋のなかに鴨居や床の間がなくて、まるでホワイトキューブのようだ。凹凸がなくて、光がフラットに全部にまわるのっぺりとした部屋は、棟や部屋の区別が成り立たない差異をなくした、砂漠のような方位の喪失した中空に浮かんだ部屋を書く後藤明生に、ルイス・ボルツやロバート・アダムス、スティーヴン・ショアとの共通性を感じる。「記憶には場所が必要」と『何?』で後藤明生が書いたけれど、団地に記憶は必要なのだろうか。団地の記憶は『凶悪』の駐車場のように徹底的に記憶の喚起力を抹殺することであり、それは東京の多摩センターあたりの風景や多摩地区南部あたりの書き換えられた地名、たとえば朝日通り、希望通りという書き換えが場所の記憶に対して、まるでその場所にははじめからなにもなかった、本当になにもなかったかのように振る舞う。わたし達が団地に痕跡を残すことはできないだろうし、個人の最小単位の部屋ですらわたしのものにならないだろう。「北向きの四畳半」の部屋がわたしの記憶という個人の領土に浸食し腐敗化させる。わたしは部屋を構成する一部分としてのわたしであり、わたしとはこの真っ白なホワイトキューブであり、わたしの記憶は「北向きの四畳半」の空間が決定する。すっきりとした書き割りの部屋の無別性は、人間が団地を住居として有機化、個別化していくことを拒否する。竹中労が糾弾したように、団地はブルジョア階級に敵対する潜在的破壊意識としてのプロレタリアの来歴と共同体の記憶、ブルジョア的ヒューマニズムを根本から廃棄する、暴動こそがプロレタリアの最高秩序形態であると言ったレーニンのほとんど階級的エスとして機能するプロレタリアの破壊的基底を抹消して、交換可能などこにでも存在し、かつどこにも存在しない透明な市民にと強制的に変質させるだろう。プロレタリアの記憶というのはノスタルジアを喚起させるものではなく、現実を記号として物質として無限に読み替えていくことであり、現実的対象の実体的な同一性を破壊して、あらゆる現実のなかに無数の孔と痕跡を描きだす欲望であり、それは記憶というよりも追憶、すべてのものを瓦礫と残骸に見立ててしまう破壊的な追憶なのだ。記憶が無意識下の破壊的な欲望を担うなら、市民は記憶を必要としない。市民に必要なのは家族団らんと一日三回の食事だけであって、彼らの行動と思想はダイニングキッチンによって決定されている。後藤明生が書いたように団地が台所を中心に部屋を設計されているのは、「つまりそこにおいて生活は、食べるものを中心に考えられている」ので、団地は食事と安楽な会話しか許さないだろう。食べて喋るだけの市民にどんな記憶も蓄積できない。口は記憶を語ることを拒否され、食べものと家族団らんの会話以外にその筋肉を動かすことはない。後藤明生の『何?』の主人公は記憶が抹消されないよう、母親から子供のときの自分の好物を列挙してもらうよう手紙に書く。魚が好きだったこと、明太子が大好物だったこと。好物の食べものを列記してもらってそれを書き写す。記憶を抹消されないために口ではなく、手を使うという行為で対抗する。家族団らんの場で口を使わず手を使うことはどういうことなのだろう。手紙を書く、書き写すという個的な行為ほど家族団らんに敵対する行為はない。家族団らんは個人の孤立や隔絶、秘密、没頭を許さないからだ。食べるだけという口唇的段階にまで退行したい家族団らんにとって、手紙という秘密と隔絶を許すだろうか。まして書くという行為は、労働力再生産としての口の動きと真っ向から敵対する。団らんの場に対して書くという孤立や没頭を許す家族がいたら、それは団地の部屋の基本構造を根底から破壊してしまう危険性をはらんでいる。団地の基本構造とは、ダイニングキッチンを中心にした集団行動であって、孤立や没頭はその集団行動の秩序を否定してしまう。手紙を書く、それも個的な記憶についての手紙を書き写すという行為は、文字という大文字の他者の存在を破壊的に読み替える。書き写すとは文字の掟に従うことではなく、掟の本質である一つの回答、一つの体系を解釈、複数化してしまうことであり、文字とはフロイトの言うように父であるなら、父を書き写すことは父の複数化、父殺しにほかならなくなる。文字がナルシス的なダイニングキッチンと家族団らんの空間に出現することは、「The End」の父を殺し、母を犯すというジム・モリソン的命題をひっぱりだし、母親に求愛と性愛行為を強要するようになるだろう。後藤明生の「母親への長い手紙」での母親の手紙を書き写す行為は母親への性愛の要求であり、母親への殺意であり、この世から消えてほしいという、母親という巨大な記憶に対してのプロレタリア的追憶、破壊行動なのだ。団らんの場で手が必要とされることはせいぜい食べ物をつかむことぐらいで、口の補助的な行為にあまんじなければいけない手の存在が、書くことで口の主人公的立場を逆転させる。家族団らんは食事と会話という口唇的欲望と満腹中枢を充足させる場であって、食物摂取と会話という口唇期的欲望に満足している口に対して、書くことは口唇期の夢見心地の世界に、文字という亀裂と烙印を刻印するだろう。記憶とは文字を刻印されることであり、それは選択の自由もなく刻印されるのだ。カフカの『ある流刑地の話』の拷問機械の人間の皮膚に直接文字を刻み込むように、記憶という文字は無理矢理あなたの体のなかに刻印される。手紙を書くことを選んだあなたはダイニングキッチンの人生よりもカフカの拷問機械を肯定するだろう。手紙を書き、書き写すとは大文字の他者としての文字に自分を託すのではなく、針で自分の皮膚を孔だらけにすることを選択する。ダイニングキッチンという母性空間のなかに手紙を書くという手の出現。手は食物摂取の補助もせず、筆記用具や文字に接触し続ける。家族団らんの口唇的エロスに対して、文字という記号への接触のエロスを対置する。手紙を書くという孤独で隔絶されたエクリチュールは家族団らんという会話の場においては沈黙を、食物摂取の場では拒食を、口唇的エロスの充足に対して、充足することなく書き続けるという無限の徒労を行使する。団地に住むには「肉体を酸化させる」というイニシエーションが要求される。後藤明生の小説『もう一つの部屋』は若松孝二の『胎児が密猟するとき』のような胎内回帰の場所としての部屋ではなく、「夫の肉体を酸化させる」という、まるで肉体を物質に化学変化させる人体実験のような部屋が提示される。団地のトイレの「あの馬蹄形の白い陶器に腰をおろして」用をたせないわたしが、突然の激しい下痢によってなんとか団地のトイレになじむことができるのは実験の成功例であり、後藤明生の書く団地に住むためには肉体を無機的物質に変化させる。後藤明生の小説のなかではダイニングキッチンでの食事のシーンや食べ物についてはほとんど書かれない。後藤明生にとって食べ物はつねに嘔吐されるか、下痢としてただ流されていくかのものであって、決して食べ物が体のなかに栄養として蓄積されることがない。食べ物は体のなかを通過していくだけのものであって、食べながらも嘔吐と下痢の断食状態が維持されている。団地について書くということは、この断食を維持、肯定することかもしれない。肉体の限界ぎりぎりの維持。カフカの『断食芸人』のように、死んでいるわけでもなく、生きているわけでもない、世界に見捨てられた状態を維持し続ける。いつまでも人間化することのない団地の壁は、住む人間にとって永遠に融和しない白い限界であるように、団地について書くという行為は団地の部屋の白い壁にいつまでも立ち続けながらフラットでのっぺりした白い壁について描写しつづける。団地の白い無機質な壁、壁とは部屋の限界であり、部屋の限界に立ち尽くすこと、部屋の限界だけがわたしの住むべき所だった。嘔吐と下痢は生命維持を目的とする食物摂取行為の意味を根本から剥奪する。肉体の管のなかを通過していくだけの摂取行為はなんのための行為なのだろう。嘔吐と下痢は肉体を有機的状態ではなく、一本の管として空洞の管としての肉体を肯定するしかなくなるのだ。管としての肉体は、肉体の限界であってもうそれ以上どこにも行けない。後藤明生にとって書くことは快楽、とくに口唇的な快楽に淫するのではなく、限界を露呈し続けることであり、ダイニングキッチンの母性的空間に対して、巨大な物質としての拷問機械を導入する。
金村修

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