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Statements / 2013年4期 10月14日〜12月23日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2013_04
ステートメント
世界を切断して凍結しようと提示する額装の美学的強要が、写真をゆるぎのない不動の単数の世界へ収斂させる。標本台の上にピン止めされるような静止した不動の視覚的輪郭。あらゆる関係から断ち切られ、複数性を奪われた単数の死体として肖像画のように写真は美しくなり、持続する世界の瞬間を切断して凍結された固有名をもった唯一の死体であることを強要される。写真は複数の分岐線を辿る生成する死体であり、あらゆるものに擬態する死体、すべての名前を詐称することのできる星座のような死体でありながら、写真は写されたものの意味を拒絶し、対象を指し示すことを否決するために撮影されるだろう。コクトーの「現在進行形の死」を写真として考えることは、写真は世界の停滞と凍結の結果としてプリントされ出てきた静止した死体ではなく、世界に急停止と急発進を繰り返させる暴発寸前の八気筒の過熱したエンジンであり、排気筒の熱は、凍結された単数の名前を所有する特権的な死体を、工業製品として製造された無署名のフィルムの粒子へと無限に溶解させる。名前を所有した死体は消滅と切断を繰り返し強要され、それは原生林のなかのヤマアラシの死体のように、なんの死体であるのか特定できない、名前と個別性を失った腐敗の進行したヤマアラシのような死体を想像させるだろう。写真は写されたあなたを腐敗させ消滅させることであり、写真は生きながら死に、死にそうになりながら生きる持続と停止が同時に要求される自家撞着のような死を反復するのだ。切れ目のないなめらかな継起を強調する映画の残像的持続に対して、写真は舗装されていない道路を急停止と急発進で走り続けるガソリンの漏れたハンドルのきかないクルージングであり、それはキャプテン・ビーフハートの「カボチャがオレンジのクレヨンで丘をまだらに塗り分ける 木々は緑にふくれてマシュマロの煙の中へ飛んでいく 煙はいびつな円を描きながら灰色のあぶくに閉じ込められる」ようになにかを表出することも、対象と密通することも拒否する。残像のなめらかな持続を拒否する急停止のようなフィルムにかぶる光とピンぼけ、露光不足、引っ掻き傷、現像時のフィルムの密着による定着ムラがインサートされ、ダートと障害のなかで速力の限界を追求するだろう。平均時速200kmの速度が風景を極北としての点に向かって消滅させる『バニシング・ポイント』にとって点は、直線や面を構成する要素でも、空間を構成する一点でもなく、直線や面や空間を消滅させるための点であり、点はそれ自体として直線や面や空間の破壊者としてあらわれる。デヴィット・リンチのトラクターの運転席からゆっくりと流れる風景は、風景を静止させ定着させる速度ではなく、トラクターが走る瞬間ごとに更新されつづける過渡期としての風景であり、どの瞬間に固着されるわけではない起点も終着点もない永遠に途上でしかない風景がつづく。トラクターの遅滞化された速度はなだらかにつづく直線的な風景を肯定するのではなく、速度の遅滞化は直線に亀裂を入れ、遅滞的に更新される風景は直線としてのまとまりを失い、トラクターからの風景はつながらない断片として互いに相殺しながら、さらに切り刻まれようとするだろう。点は線と面を構成する最小基礎単位などではなく、点は線と面といつまでもまじわることはない。点の集合が線に転化さることがないように、『バニシング・ポイント』にとって点は線と面を消滅にと誘うものであり、粒状化された点の集合がなにかを表出するのではなく、粒状化された点そのものが点そのもとして画面のなかにあらわれる。写真は点の爆発によるさらなる点の断片化であり、写された世界のなにかを定着したりはしない。印画紙のなかで世界を美しく定着させるのではなく、世界を点に解体することで定着は廃棄物のような点に解体され消滅していく。真っ白な印画紙の表面に写されたものは、来歴不明の粒のそろわない奇妙で丸い点であり、写されたすべてのものを白い印画紙の表面のなかへ消去する。フォルムはなにかをあらわすための形ではなく、なにもあらわさない。なにもないものを呼びだすものであり、どこにも存在しない痕跡の亡霊を呼びだすための魔術的な線と面としてフォルムがあらわれる。黒沢清の『回路』で痕跡はイコール亡霊だと提示したように、大量の写真を壁面に貼付けるのは、被写体の来歴を抹消するための、なにものでもない痕跡=亡霊を呼びだすための壁面構成であり、定着もせずに浮遊しつづけるなにものでもない、なにものにもなれない、死につつありながら生きているわけでもない生と死の途上、煉獄にいるしかない亡霊を召還する。額装した写真の一列展示に対して壁面に百枚の大全紙の写真を貼ることは、イメージの相殺と消去であって、イメージの増幅とダイナミズムを放棄することであり、イメージは解体され消滅されなければならないだろう。一瞬を定着する絵としての写真に対して、無限に、点になるまで切り刻むことであり、写された写真から名前を奪うこと、世界に対しての点の侵犯、粒状化された点がイメージを抹消するために、点があらゆるイメージを腐食させる。写真において表出されたイメージは生きたイメージではなく、腐食寸前の朽ち果てたわけでもない腐敗ぎりぎりの状態で粒子は写真を生かしつづける。
金村修

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