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Statements / 2013年3期 7月15日〜9月16日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2013_03
ステートメント
ルチオ・フォンタナがカンヴァスを切り裂くようにリー・フリードランダーの分割構図は、画面を剃刀のように縦横に引き裂く。フォンタナの引き裂いた線が絵画空間を構成するための線ではなく空間を横切り、視線を引き裂かれたカンヴァスの線に集中させることで奥行きを否定する。ルチオ・フォンタナの無数の切り傷のような線が三次元的に偽装された絵画空間を破棄することを目論んだように、フリードランダーの画面を無限に分割していく構図は、無数のエレメントに分割することで画面を再構成するのではなく、一点透視法の虚構が産み出す奥行きを否定して、画面を縦横に何重にも分割していくことで現実を水平と垂直に、交わらない水平と垂直に還元する。コードから逃亡を謀るモード・ジャズ以降のマイルス・ディヴィスがいつまでも水平に流れ続けようとする。コードから垂直に逃亡しょうとするセロニアス・モンクは基底和音の上に分数コードをバベルの塔のように重ね続ける。ポール・マッカートニー「Yesterday」のキーFに対してギターが一音下げたGに、サビの部分のギターコードF♯mにはメロディーがBという9thのテンションにもかかわらずF♯mを引き続ける。テンションの垂直性に対してギターのコードが一致しないまま終結部に向かう。「Drive my car」のD7の上に重なる7thとsus4thのハーモニーや、「Michelle」でほとんどのコードにつけられる♭9th、♯9th、6thのテンション、垂直にいきながら同時に水平にも動こうとするポール・マッカートニーのブルースマンのような分裂症的な歌声は、メジャーのコードでマイナーなメロディーを歌う笑いながら怒り、泣きながら笑うように統合はつねに一致されずつねに縦と横に引き裂かれる。垂直と水平が交差しないまま同時な現れるポール・マッカートニーやドアーズ「Light my fire」の間奏部のオルガンとギター、ドラムの変拍子進行のように、フリードランダーの垂直と水平は交わることを拒否する。永久に交わらないフリードランダーの平行線のフォルムは、なにもない砂漠の地平線のように写真からフォルム以外のものを追放する。六道絵に描かれた、腐っていく肉体は身体から肉塊への下降の過程ではなく、身体は生成と腐敗を、生者と死者を同時に生きることのできる物質的肉塊であり、死体を身体から肉体、肉体から肉塊という身体の腐敗過程の終結部とみるのではなく、腐敗と生成、身体と死体はつねに同義であり、終結することもはじまりもない。身体はあらゆる動き、生成と腐敗という逆ヴェクトルに動く縦横の動きを統合しながらつねに破裂を予感させる形態であり、フリードランダーの縦横のフォルムに還元された構図は画面を収束させるための構図ではなく、フォーマットの形態を内部から炸裂させる構図であり、フォルムは最終的に構築ではなく混沌に回帰するためのフォルムなのだ。死ぬのはいつも他人ばかりだと寺山修司は言った。死ぬことでわたしはわたしを他者に譲り渡すのであり、わたしは死ぬことでわたしを統合する人格をもった身体から離脱した物質的肉塊としての他者に変容する。肉塊はつねに身体に覆い隠され抑圧された物質であり、有機的統合としての身体に肉体と肉塊が露出した無機物としての肉が身体のなかの抵抗体として現れる。写真は有機物的な身体に対して、無機物としての肉塊の叛乱として現れるだろう。人間は死体になることで最終的に完成すると寺山修司が言ったのは、死体になることが生から死という最終ゴールに向けての直線的で単線的な時間軸の過程とその結果ではなく、死体になることは身体が抑圧し隠蔽していた肉塊の露呈であり、肉塊の代理物としての肉体や身体に対し、死という中断を導入する。写真は生に対する中断であり、有機的身体に中断を導入することで身体に肉塊を召還させようとする。肉塊を露出させること。脳を中心とした器官を統合する身体に案山子のようなでくのぼうのような肉塊を肯定する。フランシス・ベーコンの腐敗と生成の同時進行は肉体のエロスと肉塊の無機的物質性が交わることなく同居する。ジャクソン・ポロックの「フィギュア」は、ドロッピングでぐちゃぐちゃになったカンヴァスをナイフで人間の形に切り抜く。切り抜いたところから人間のなにかが現れるわけではなく、カンヴァスの素材がそのまま露出する。人間の形は人間を示唆せずカンヴァスの物質性を指示し、寺山修司の「邪宗門」“書き割りの絵のうしろには厚生年金ホールのコンクリートの壁、そのうしろには1月30日のさむい街が見える。これもまた、べつの書き割り”の三次元的現実を否定した書き割りのような物質的現実を露呈する。フリードランダーの人間の表情というよりも形としかいいようのないフォルマテックなポートレイト。背景の窓の網に溶け込んでいくような猫の後ろ姿。フリードランダー自身がガラスに反射するビルや看板と一緒に写り込み、無機物と同化していく。肉眼の秩序から解き放された写真の物質的現実。現実は写真において始めて現実化されるだろう。わたし達が見ているものは消失点によって構成されたまがいもの現実であり、消失点という脳が偽造した中心によって世界は覆い隠される。脳の統合から離脱した肉塊だけが現実を剥き出しにするだろう。空間を破棄したあとに現れる書き割りのような現実が肉塊の見る物質的な現実であり、肉塊のむきだしの明晰さは世界を書き割りのフォルムとして肯定する。器官ではない肉塊としての眼球は世界から尺度を追放する。フリードランダーの車のミラーに写るセルフポートレイトの写真は、手前のミラーが教会の尺度を説明するのではなくミラーと教会が同等に写るのであり、尺度や遠近のないフリードランダーの写真はビーチボーイズのドラムの音より大きく鳴り響くタンバリンや手拍子のように三次元的遠近を拒絶する。ジャコメッティが5㎝というものは存在しないと言ったように、ものは見える通りの大きさでしか存在しない。フレーミングは現実世界の縮減と限定の決定であり、世界を縮減して限定化するフレーミングがスピノザの言うように“あらゆる限定―決定は否定”であるなら、フレーミングを要求する写真は世界の否定として現れる。フレーミングが前提にされる写真は、四角い形態のフォーマットが写真を決定する。フレーミングが写された写真の外側を否定するなら、フォーマットは写された現実を去勢するだろう。フォーマットは現実を去勢することであり写真は写された対象の受胎または出産ではなく、再現すべき現実の堕胎または死児の出産を肯定する。陰茎のメタファーとして語られるカメラを勃起不全に追い込むこと。シャツターチャンスというピークを迎えようとする射精現象は中断と萎びることを要求され、カメラと現実を勃起不全に追い込む。生殖能力を奪われた写真。カメラは分娩室ではない。写真はなにも産みださない。勃起不全を強制された写真に、対象との結合と欲情を求める出会いは棄却される。写真は異質なものの出会いを統合し再結合させる場所ではなく、複数の出来事が統合を拒否したまま同時に現れる場所になるだろう。異質なものの出会いは平行線のまま束ねられることができず、ミシンと雨傘のような出会いはフリードランダーのなかで達成されることはないのだ。ミシンと雨傘が出会い意味を産出する分娩器としての解剖台、ミシンと雨傘の出会いを保証する画面はフォルマテックに分解され、ものの調和溢れる隣接関係はフリードランダー的分割によってさらに細切れにされる。ミシンと雨傘の出会いは幾重にも解剖され出会うことがついに不可能な解剖室のフリードランダー。
金村修

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