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Statements / 2013年2期 4月15日〜6月17日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2013_02
ステートメント
世界は写真のために加工される対象でもなく、写真になるための材料でもない。世界の存在自体がすでに写真なのであり、感覚がある一線を超えると、すべてが写真に見えてくるように、カメラをどこに向けようとレンズが向けた対象はすべて写真として成立しているなら、なぜファインダーを覗きフレーミングを決めて現実を写真化する必要があるのだろう。なにも決めず呆然と、写真をつくるのではなく、まるで写真を見るようにファインダーを覗く。ファインダーを覗くよりも先に、カメラが対象に対して構えるよりも先に、写真は撮影に先行して成立しているし、撮るというわたし達の意志よりも前に写真は成立しているなら、写真は写真家に対して、その能動的アプローチの廃棄を要求する。サルトルの小説『出口なし』の窓のない四角い部屋のなかで、一人の女が男の眼をみつめ、そこに自分の姿が映っていることに主人公が吐き気を感じる。それは、わたしはあなたの眼というカメラによって撮影された、カメラのなかで再配置される写真化されたわたしであり、わたしを映しているあなたも、わたしの眼に映される写真化されたあなたであり、わたし達の存在自体がすでに写真化され、写真の外に出ることができないからだ。わたしが写されずにあなたを写すということは不可能なのだ。見られることなく見ることはできない。見ることはつねに見られている。“見る−見られる”、の循環回路から抜け出ることができない。写真の上位に立つ、写真をコントロールする写真家という主体の立場に立つことができないという、循環回路のなかでの閉鎖された生が彼女に吐き気を催させる。写真家というのは主体的に撮影を行使する者ではなく、写真の一部に組み込まれた分身であり、対象を写真化するわたしもすでに写真化、物質化される。無傷の未だ写真化されていないわたしは存在しない。カメラのフレーム・ワークというのは、『出口なし』の二人の男がいる四角い部屋のようであり、カメラと化した二人の眼が互いを見つめ合うことしかできない視線の交差を無限に反射させるための有限の枠であり、そこに“見る−見られる”、の上下関係が廃棄され、主体の成立が放棄された等価として表れる砂漠のような世界を現出させる。なぜ有限なカメラのフレームのなかに無限大が表れるのだろう。有限の距離を無限に変換させるカメラのパンフォーカス的構造は、現実の有限的距離を廃棄して、手前と奥を等価的関係に置くことで、手前から奥というパースペクティヴに流れる眼の一方方向的な流れに対して、四角い有限のフレームのなかでのパンフォーカスという等価の循環行動が、視線に無限の運動を強要させる。現実を切り取ろうとするフレーム・ワークは、切り取ることで箱庭的な美学を創出することでも、肉眼にパースペクティヴという階層的秩序を与え混沌とした現実を整理し意味を与えるためでもなく、現実を無限の視線のも回収できずに無限に乱反射するだろう。フレーミングとは常に任意の一点でしかないだろうし、写真になるために発見され選択される必然的な一点の枠ではない。偶発的でどこにでも偏在するどれが選ばれてもかまわない決定不能の無数のフレーミングであるべきだ。特徴的で個性的な誰が見てもその人だとすぐに分かる個別性が強調されたスタイルとしてのフレーミング乱反射のなかに再配置する。そこには見るという主体の立つ位置は廃棄され、わたしの見るという能動的視線は、カメラの機械的視線に取って変わられるだろう。有限が無限を発見する。『出口なし』の有限のフレームのアナロジーである四角い部屋のなかで、視線の交差する無限運動が発生する。視線を単一の肉眼の所有から解放する。単一の主体に所有されたブルジョワの私的所有を棄却することから無限が産出される。『出口なし』の男女の視線はカメラという機械の視線であり、それは意味も持たずどこにでも焦点を合わしてしまうために、視線は誰には放棄され、どこにでもあるフレーミング、無限に偏在するフレーミングが産出される。フレーミングに特徴が必要だろうか。フレーミングは凡庸であるべきだ。『出口なし』男女がただ見つめ合うだけで、お互いについてまったくなんのイメージも浮かんでこないように、フレーミングはなにも語らずどんなイメージが浮かびあがることも拒否する。世界を切り取りフレームのなかに収める行為は、世界の積極的な凡庸化であり、選ばれた対象をもう一度世界の偏在性の海なかに戻そうとする。撮影は反復不可能な対象との決定的な一回性を獲得することではなく、いくらでも反復可能であり、恣意的で偶発的で、無責任に選ばれ撮影されたものであり、ほとんどのことはカメラが自動的に撮ってしまう、という機械の先行性を撮影は肯定するだろう。写真は出会いの必然性を放棄させる。路上の凡庸でどこにでもある石のようなものとの出会いになぜ必然性を感じなければならないのだろう。因果律のない出会いが撮影であり、わたしがこれを選んだことに対して原因も結果もなにもない。なにかに出会うこと、そのなにかに対して意味を与えない。 撮影の恣意性は主体に属するのかもしれない。けれど主体的に選択された無責任で恣意的な撮影は、撮影者を最終的に主体の場から追放する。撮影者という主体は唯一人ではなく無数に偏在する主体であり、そこから偶発的に選ばれた主体がたまたま主体の役を演じ、被写体は被写体の役を演じる。世界がすでに写真なら、撮影者は写真をコントロールするメタレヴェル的存在ではなく、写真を構成するその一部分的な存在であり、わたしは作者という主役でありながら、なにもコントロールすることができない主役であり、わたしが写真をつくるのではなく、写真がわたしをつくる。それは写真という非在のなにかによってわたしという作者がつくられる。
金村修

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