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Statements / 2013年1期 1月14日〜3月18日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2013_01
ステートメント
フレーミングは写真作家の特定的スタイルや個性的な知覚を表出するのではなく、作家のスタイルや知覚を抹消するために行使される。個性や知覚という人間の中枢機能に敵対するためにフレーミングが行使されるのであり、フレーミングは写真が写真家の個性や知覚という生身の身体に追従することよりも、身体を持たない機械の知覚が身体の知覚にとってかわることを要求する。作家の特定的スタイルや知覚を表すことがフレーミングなら、フレーミングは世界をわたしにとって意味を持つように切り取るための手段であり、わたしの個性と身体の延長上に写真は成立するだろう。無意味な混沌は排除され、フレーミングは現実を理解するための整理であり、世界は意味によって切り取られるショットの連続体として存在する。身体を持たない機械の知覚は、世界を理解しようとする身体の知覚に対する叛乱として現れる。整理のための中心的視座は放棄され、中心を持たない機械の知覚がヒエラルキーを排除して、写したすべてのものが無意味な連続体としておそいかかる。フレーミングは肉眼のアナロジーでもなければわたしはこのように世界を見ているという意志の表出でもない。肉眼にとって有効なものだけが知覚、認識されるなら、フレーミングは肉眼の有効性に対して無価値な事物が写ることを肯定するだろう。有効性に支配された肉眼の秩序にフレームの導入が混沌を呼び起こす。フレームは世界から肉眼によって承認された価値と有効性を差し引く。フレームは、世界を枠組み化して価値によって区分けするための枠ではなく、有効性という意味付けと価値にまみれた世界をフォルムと物質の混沌へと還元させる。写真は撮影するわたしを抹消することで、写された事物を立ち上げる。世界にわたしを加味し付け足すのではなく、世界からわたしを抹消する。小津安二郎が、役者が役柄を解釈することに嫌悪感を示すのは、世界のなかになにかを付け足すことの嫌悪であり、世界の無意味な連続体を人間にとっての意味のある連続体に変化させるようとする、世界に対して秩序と関係を強要することへの嫌悪を表明する。フレーミングはわたしにとって意味ある世界を成立させようとする、わたしの肉眼の視覚を排除するだろう。小津安二郎の『浮草』の冒頭のシーンの砂浜のビール瓶と灯台が並んで立つショットは、ビール瓶と灯台の相似的な関係を視覚の面白さに訴えるのではなく、フレーミングされた枠の世界ではビール瓶と灯台は等価であることを示している。ビール瓶と灯台の互いの区別を超えた浸透、侵入が人間にとってのビール瓶と灯台の有効性と価値の廃棄を強要する。ビール瓶と灯台の価値の区分けを放棄し、物質化されたフォルムとしてのビール瓶と灯台を提示するためにフレーミングは存在する。『浮草』の規則的な構図は視覚の快楽にも構図的な美学にも還元されるのではなく、情感や記憶を排除するために構図が持ち込まれるのであり、ビール瓶と灯台の並列はどんな心理的思い込みも拒絶するマテリアルな並列を提示する。蜘蛛は網の主体的中心として実在しているのではなく、網の糸が揺れるときに現れる実体を否定する不在の蜘蛛であり、揺れるという網のアクションによって現れる。撮影者のわたしもファインダーの中を覗いたときに現れる非実体的で無根拠に現れる特定できないわたしであり、網の揺れるアクションによって現れる蜘蛛のように、主体と実体としてのわたしは否定され、実体としてのわたしが主体的に責任と根拠を持って決定することができない。カメラ位置とフレーミングはつねに任意であり、無根拠であり、それはどこに置かれてもどのように覗かれても構わない。どういう風に置かれても肯定される変化する決定の連続であり、決定は日々更新され増殖し、それはどれも正しいだろう。正しいことと間違っていることの境界線をフレーミングは廃棄する。有効性の視点は放棄され、世界が無価値で無意味なジャンクとして肯定されるなら、どこにフレーミングしようと構わない。意味と無意味の壁は駆逐され、カメラは絶対的にそこに置かれなければならないという根拠が崩壊する。わたしは撮影される世界の仮定上の任意の一点であり、撮影においてわたしは撮影の主体でもなければシャッターを押すことを決定する命令者でもない。ゲイリー・ウィノグランドが写真を撮るように写真を撮ると言ったように、世界はすでに写真であり、わたしが撮らなくても世界は撮られている。わたし達は映像化された世界を再撮影することしかできないだろう。世界は決定されているのであり、決定されたものに対して、わたし達はどんな決定も放棄せざるをえない。無根拠に、一切の意味付けもなくカメラを構えなければならない。フレーミングとは決定ではない。決定された世界に対し、いつまでも無根拠でいることであり、どこをフレーミングしてもすべて正しいという、区別を放棄した等価の地獄を肯定する。
金村修

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