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Statements / 2012年4期 10月15日〜12月24日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2012_04
ステートメント
失われた時間が殺される、または未遂の殺戮として路上に残置される。残置された時間は、統御される中枢を廃棄されたまま過去に有機的につながることができず永遠の現在を宣告され、そこにとどまりつづける。現在とは未来のない臨界、終末地点であり、1971年、中平卓馬の「サーキュレーション」のパリはどこにもつながらず現在のまま終わりを告げられる。無数のすり傷とカビ、定着不足で茶色くなったネガがいつかパリのイメージを消滅させ跡形もなくなるだろう。中平卓馬の写真はイメージの獲得ではなく、イメージの腐食、イメージという痕跡の獲得とその消滅という階級的対立の場所として写真を機能させる。細部を立ち上がらせ、可視的なものを写真の表層に浮かび上がらせるためには対象は殺されなければならない。対象は死体または廃墟となることで可視的な存在になりその細部が現れる。可視的な存在としてその細部が立ち現れるために実在の対象との通底的関係を写真は放棄する。対象との照応関係を断ち切った単独の廃墟としての写真は、分節化されたカオスとして世界を写し出す。分節とは五体満足な死体ではなく復元不能のばらばら死体のような空間を世界に導入することであり、時間の殺戮、時間を瞬間に永久に分裂させ、過去―現在―未来の直線的秩序に破綻を持ち込む。写真は時間に終末を宣告する。写すことは小津安二郎の「東京物語」の無人の廊下のように永遠に無人の廊下でいること。無人の廊下の時間を引き延ばし、遅滞の果てに時間を廃棄する。写真は不老不死であり無限の反復であり、永久に微笑み頷きつづける「東京物語」の笠智衆は無限の反復の中でいつかその名前と肉体の輪郭がフイルムのなかに溶け出していく。洋服や畳、タンス、テーブル、部屋のセットと笠智衆の区別がなくなり世界が笠智衆化する。肉体と物が溶解した同一の物質としての笠智衆、ゾンビ的反復として現れる笠智衆が時間に最後の一撃を加えるだろう。過去―現在-未来の時系列は笠智衆的反復によって放棄される。笠智衆が笠智衆として現れる個別性としての笠智衆の起源は破棄され、起源という遠近的な深みを持った笠智衆は、深みを失ったシニフェのない表層だけの笠智衆として名前も身元も取り上げられ永久にそこで反復される。写真が瞬間を切り取るものなら、瞬間とは起源―現在というブルジョワ的遠近空間と時間の厚みを唾棄する深みを欠落させた表層のことであり、中平卓馬の沖縄の海岸に砕け散る波は、マーク・ロスコによって圧縮平面化されたような遠近のない平面の波の瞬間がただ無限に持続する。時間はブルジョアのものであり、過去―現在―未来というブルジョアの時系列的秩序に瞬間は階級的混乱を持ち込む。表層化された瞬間が引き延ばされ、過去―現在―未来という直線的な時間は、引き延ばされたことによって立ち現れる細部によって廃棄される。架空の未来または過去を設定することによって現在との時間的差異から利潤を引き出すブルジョアジーに対し、中平卓馬の沖縄の瞬間は時間的差異を成立させる遠近法それ自体を追放する。未来と過去を欠いた表層の沖縄が物質的な弱々しさでぺらぺらに立ち上がる。サン・ラが語る“お前がいま弾いている隣の音を弾け”、瞬間に架空の瞬間が併置される。現在はつねに選択されなかったもう一つの現在を隣接させることによって成立することをサン・ラは強要する。弾かれなかった音、存在することのなかった現在、選べることのできなかった今その瞬間。空白が存在するその横に並置される。撮られなかった写真によって、存在しない写真によって成立する中平卓馬の写真。凝視は存在しない外部を見ることであり、存在するものを見る、見ることが成立してしまう視線の距離を放棄し、イメージの産出を中断させるために凝視する。それは今―現在を見るのではなく、選択された現在と選択されなかった現在を同時に並置して見ることであり、存在を形成する空白を凝視すること、空白と消滅とありえなかった現在が、選択された今―現在を成立させる。“お前がいま弾いている隣の音”を同時に鳴らすセルニアス・モンクの無数に重ねる分数コードのように垂直への発狂した欲望に取り憑かれる。マイルス・ディビスの未来に向かおうとする旋律は、モンクの垂直に上向下向する欲望に断絶されるだろう。世界は無数のものを同時に選択できるのであり、今―現在という瞬間の臨界に近づくために選択の基準を放棄した選択が、時間の水平的な持続に対し、瞬間の垂直的な選択はあらゆる時間を中断させる。空白と消滅が現在を語り、存在しないひとつの口から存在しないひとつの耳に語りかける。存在しないことを選択する、選択は選択を行使することで選択されなかった外部、此岸と彼岸までもが同時に選択される。ひとつの口、ひとつの耳が無限に現れ、口でないもの耳でないものまで選択される。中平卓馬のアヒルを撮る選択が水も土も植物も波紋も光線の位置も選択されたものと選択されなかったものが無数に並置的に写されてしまう。事象の奥で散在している時間に名前と身元保証を与える存在が追放され、時間は終末を宣言されたまま永久にそこに待機する。凝固した姿勢で路上に座り込んだ男の現在が、ついに現在になることもできず、そのままの姿で立ち続け、深夜のカフェに飾られた萎れそうな花は、枯れることも花開くこともできず永久に萎れ続ける。萎れ続ける花に終末は訪れなかった。萎れ続ける花は終末を宣告されながら、終末を迎えることができず、終末が無限にループする。ヒロヒトとリー・ウーファンの微笑みは永遠に開花することはない。微笑むことのない未来、波の飛沫が飛沫のまま凍結される未来、未来は永遠に宙吊りにされる。不動化されたヒロヒトの緊張した笑みの中で告知される時間はついに現在になることができず、何も始まらない時間、流れることのない時間、単数から複数に分断された時間、廃棄された残骸としての時間が蠢き始める。中平的写真の匿名性は撮影者の記憶と記憶を司るセンサーを消去する。失われた時間を蓄積/分類するのではなく、蓄積/分類するための基準を分裂、失調させ、統合する主体なしで無分別に写真を撮る。写真は何も理解しない。理解という主体が能動的に行使する装置は放棄され、何も理解しないまま目の前のものを盲目的に肯定する。「固有名は差異の体系としての言語の中に収まりがつかない‥「残滓」としての中平の写真」(サーキュレーション解説 八角聡仁)。「残滓」としての中平の写真は何かの「残滓」ではなく、何かの「残滓」という何かとの関係を喪失した「残滓」、誰にも所有されない誰にも似ていない「残滓」そのものの「残滓」。「残滓」は対象の消滅と共にやってくる。「残滓」は何も表さない。「残滓」としてのパリと沖縄は一般通念としてのパリや沖縄の再現を拒否するだろう。再現するものを消去すること。撮ることを被写体の記憶の中に所有しようとする記憶のブルジョア的所有制度に対し、記憶の消去と放棄、撮ることがそのまま消滅につながるように、記憶を蓄積と分類から消滅と崩壊の側に奪還する。記憶とは架空の過去から簒奪しようとするブルジョア的な剰余価値なのだ。記憶の消滅の後に現れる、再現するものがない、再現するものなしで現れる写真。中平卓馬の写真は対象が消去された後に現れる。
金村修

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