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Statements / 2012年3期 7月16日〜9月17日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2012_03
ステートメント
写真家の身体とは器官なき身体であり、器官なき身体は無機的な塊としての器官が分断されたまま器官としての連結と機能を放棄して、ジャンクのような無力さでそこに孤独に立ち続ける身体のことである。器官なき身体は瞬間、瞬間に死んでいく死への投企、断絶、死の持続、身体は生きている領域にいるのではなく器官が機能不全を起こした腐敗の領域を先天的に抱えた、生きながら死体安置所に横たわる、腐敗と消滅を先取りすることで成立する死体を予見する死体。それは土方巽の言うような死に物狂いで突っ立っている死体であり、すべての瞬間に死体であることを意識しつづけている死体、意識とは志向であり“今―現在”という瞬間を志向しながらつねに“今―現在”であることを取りこぼす。“今―現在”は現れない、“今―現在”の死しかわたし達の前には現前しない。何もないものが現れる。わたし達は今―現在を今―現在の死としてしか把握することができない。生きながら死の領域に入った、生きている“今―現在”の瞬間と消滅が、現存が死と等価交換できるような死体としての生。グルジェフはすべての瞬間を意識せよと言った。それができなければ人間はたんなるロボットでしかないと。すべての瞬間を意識する、それは“今―現在”の死と消滅が現前する瞬間を意識することでありながら、決して実体として現れることのない死と消滅は意識の志向のなかに所有されることができず、意識はつねに意識のための意識となり、意識は宙吊りのまま何も手にすることができず、対象の死、存在のない死、意識には何も与えない、意識は意識の自殺としてしか表出されないだろう。瞬間を所有しようとする生の意識は、瞬間を瞬間の死としてしか表象されない時間の死が、現在という時間を所有することを放棄させる。死と消滅の時間はブルジョワの私的所有概念と真っ向から対立する。わたしの死やわたしの消滅などありえない。死や消滅はわたしという存在の中心を破棄させるだろう。意識の志向から逸脱する抜け殻の意識としての現在の死は、所有の放棄をわたしに強要する。すべての瞬間を意識することは獲得ではなく放棄することであり、そこにいながらいないという、現前と消滅を同時に遂行する速度を獲得することであり、いかに早く考えるかに集中すると言ったデレク・ベイリーのような速度は、思考が思考を追い抜くための、あらゆる速度が速度を超えるための、思考からフレーズやヴォキャブラリーを追放する。現前が現前を追い越す消滅のための速度、現前が消滅であるような、消滅が現前を追い越す、消滅が現前に先行する誰よりも速い速度。速度の最高形態は自殺と消滅である。現前が消滅の海のなかで溺れていく。瞬間とは死であり、わたしは瞬間を所有することができない。すべての瞬間が消滅する様を意識し、意識の砕け散る様を意識する。意識が時間の溺死者としてのわたしを発見する。意識とは遅滞なのだ。意識は遅滞としてしか表出されない。瞬間は遅滞的に認識される。わたし達が認識しているものはそれそのものではなく、それそのものだったものの死体、それそのものだったものの痕跡、それそのものだったものの消滅、そしてそれが、それそのものだったという保証は一切棄却されたままの非人称的な所有されることを拒絶された誰のものでもない死体。つねに取り残される今―現在は遅滞として、海辺にうちあげられた溺死体として、腐敗したぶよぶよの死体として認識される。覚醒とは意識と無意識を等価交換する領域であり、意識は無意識によって表され、無意識は意識によって表される。アンフェタミンは見えないものを見えさせ、聴こえないものを聴こえさせ幻視と幻聴を肯定し、現実と幻覚を混合するなら、現実は幻想に、幻想は現実によって表象されるなければならない。意識は無意識と、無意識は意識と、現実は幻覚と、物音は幻聴とが等価形態で交換される。商品Aの自己意識は商品Aが決定するのではなく、商品Bによって商品Aの自己意識が形成されるように商品Aは商品Bによって表される等価形態のように意識は無意識によって表され、無意識は意識によって表される。現在を形成するものは何か。現在を覚醒することができるのか。覚醒とは現在に対する遅滞であり、わたしは現在を所有することができない、現在に届くことはない、“今―現在”はつねに消滅している。現在は消滅と等価交換することによって形成される。消滅することによって表象される現在。写真が写した現実の瞬間は何も写っていない。非在の痕跡、消滅の残存、そこには誰も埋葬されていないことで現れる墳墓、何も書かれていないことの痕跡の墓碑銘、何もないときに現れる無よりも下に存在する何か。存在のない現前があなたの前に浮上する。あることとは一刻一刻消滅していることであり、意識とはつねに無意識へ後退し、見えるものはその瞬間に見えない闇のなかに潜航する。墓の彼方で存在すること。墓のように存在すること。ダブル・カルテットによって存在と消滅が同時に演奏されるシェーンベルクの失調したダンス・チューン。存在と消滅が同時にあらわれる。存在と消滅という非対称的な二つが同時に演奏される。存在は消滅という形であらわれ、消滅が存在を表象する。非人称的で非実体的な出来事として現前する存在。空虚の実存的密度。対象とは同一化されない対象との関係を断ち切った存在=密度、気配。音楽の音は物音とは異なり、対象の音を再現しない。音楽の音は対象を消滅させ、それは対象の次元とはもはや何の共通性をもたない結びつきや総合を受け入れる。対象を失った極地的な空洞。わたしは空洞であり、からっぽの孔だ。何も反映されない。何も写さない鏡。空洞としての鏡。画家は世界にわたしを貫かせろとメルローポンティが言う。メルローポンティの言う画家は身体を消滅させた空洞の身体をもつものであり、貫かせることが貫くことと同義になるような曖昧な領域、能動と受動の、主体と客体の境界が無化していくように消滅と現前の区別が気化していく身体をもつ。からっぽのなにもかも消滅した空洞でありながら物質で充満している空虚の孔、現前を成立させる根拠としての消滅を根拠付ける現前、無限に反転する現前と消滅の関係自体が無限に自己言及的であり、やがて消滅は身体に自己言及的な破滅を強要するだろう。身体は身体の物質的破滅を要求する欲動を抱え込んだまま存在する。身体の破滅を要求する死の欲動が現前する存在の形成に関係する。自己言及する精神は精神それ自身の自殺であり、精神は自殺を敢行することによって自己という個体を形成する。わたし達の身体はすでに壊れながら自殺未遂という速度の挫折を繰り返し生まれ落ちていく。手が手を追い、足が足を追いかけ、体が体に追いつかなくなる、身体よりも早く、身体の輪郭が形成されず、身体の輪郭が二重、三重に増殖する、土方巽の言うような、手ぼけになる現象が何重にも現れる。犬が路上でひとり転げ回っているのは犬自身の身体を無限に世界へ分割するためで、わたしを分裂させさらに世界に再分配させる。存在を分裂させることであり、存在の超越的階級であるわたしの死と消滅を分裂させ世界に分け与える。画家が世界にわたしの身体を貸し与えることによって世界を絵に変化させるなら、世界の絵画化とは世界のために他者のために死ぬこと、世界にわたしを貫かれることは世界への投身自殺、それは死の欲動をわたしの自殺を通して世界へ売買する。わたしの商品化。わたしの死と欲動の商品化。わたしの死とわたしの痛みを交換過程にのせること。わたしの死とわたしの痛みはわたしにしか理解できないという死と苦痛の私的所有を交換過程にのせる。それは売買の成功を目指すのではなく、売買の失敗、あらゆる人種、あらゆる世界、あらゆる性、あらゆる血統から外れた、値段のつかない身体、売ることのできなかった商品、剰余価値を産出しなかった商品、暗闇の跳躍に失敗した商品。売買の不成立はわたしを表象させることの失敗であり、それはできそこないのわたしという残滓としての剰余価値を産出する。売買の破綻と挫折はすべての価値を残骸に変化させる魔術的交換であり、商品Aは商品Bとの交換によって商品Aは自らを表現できるのであるなら、交換に失敗した商品Aはいつまでも自己実現に失敗した残骸としての自己を持ち続ける。わたしは失敗し破綻した後に残った残骸のわたしであり、残骸のわたしはわたしの死、わたしの苦痛という、死と苦痛をわたしは所有できるのか。それは本当にわたしだけが所有できるわたしだけの死と苦痛なのだろうか。わたしの死とわたしの苦痛がわたしから遠ざかる。わたしの死とわたしの苦痛がわたしを裏切る。死と苦痛は所有できない。無制限の交換過程に、わたしの死とわたしの苦痛を贈与する。商品Aは商品B,C,D,E,F‥…無数の商品によって表現されるように、わたしの死と苦痛は無制限の散種と贈与によって現れるだろう。死と苦痛の散種はあらゆる問いかけと呼びかけを拒否する。問いかけと呼びかけが交換の成功の上で成り立つものなら、わたし達は交換に失敗したものであり、それは問いかけられずに現れ、呼びかけられずに現れる。問いかけられ、呼びかけられ、それを裏切ることによって存在する。市場の約束は守られなかった。あらゆる交換は呼びかけであり、戦士とは軍務さえも含めたすべてを裏切りうる人間、さもなければ何も理解しない人間なら、問いかけと呼びかけはいつもあなたを裏切り、あなたを呼び出す召還状には何も書かれない。あらゆる呼びかけを裏切る。あらゆる問いかけを侮蔑する。あらゆる墓の墓碑銘に屈辱的な言葉を投げつける。伝達は放棄された。命令はすべて守られなかった。喋ることはすべて唾棄され、それは沈黙に通じる。墓の彼方に通じる言葉。わたし達は墓の裏側に存在する。目は耳が裏切った、聞こえなかった現実でないもののなかで世界と交信を断つ。サン・テグジュペリは無線を断ったまま、その死体はどこにも見つからなかった。サン・テグジュペリという名前で呼ばれた交信はどこにもつながらない。サン・テグジュペリにとって砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからではなく、井戸を消滅させたからであり、砲声も爆撃も、空中戦も、殺戮された土地の記憶も、対象と記憶のつながりは消失し、記憶する主体としてのサン・テグジュペリも消滅させる。サン・テグジュペリが言うような、わたし達は飛行の領域に生きているのではない。飛行とは、目的地に向かうための離陸と着陸の行程なのではなく、どこにも辿り着かない消滅の領域であり、墜落し、痕跡もなく粉々に打ち砕かれ、いつか海の藻くずとなり消えていく。わたし達は消滅の領域で生きている。
金村修

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