Workshop SiteHomeNewsStatementsReportsExhibitionInformation
Statements / 2012年2期 4月16日〜6月18日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2012_02
ステートメント
写真は不死を獲得する。死という終わることを放棄した写真は、遺骸として生きることを肯定するだろう。不死を獲得した者だけが遺骸という物質になることができる。遺骸は死という清算の最終地点、無に対する一つの余剰として存在する。死の不可能性。死なない者はすでに身内に自身の亡霊を宿しており、生きながら亡霊に回帰することを告げる。不死者とは生物の死によってもなお消滅しない物体であり、それは生物と亡霊の無限の交換過程を繰り返すことによって、生物と亡霊は互いの同一性と私的所有を放棄する実体のない生物、対象のない非人称の所有できない遺骸として現れる。私的所有を拒否する遺骸は、固有名と一体の関係をもつ生物と亡霊に対しての剰余価値であり、何もないときに残る無以下のものが残存する非実体的な遺骸。遺骸ではなく憑依する遺骸。消失しつづける遺骸。死の不可能性はわたし達に無として死ぬことを許さず、無以下の残焔の物体、遺骸として生きることを要求する。ビリー・ホリディーの唄う、吊るし首にされた黒人のアレゴリーを果実の形像として示す「奇妙な果実」。縛り首にされた黒い遺骸はもう誰のものでもない。腐敗して輪郭を失い溶け合っていく果実の形像を喪失した形像。腐って溶解する果実の物質でない物質。果実の形像は無としての死の不可能性を体現する究極的な余剰の形象であり、死んだ後でも果実として現出する亡霊としての「奇妙な果実」は、個別性を失った非人称的な黒いかたまりとしてどの対象にも、どんな名前にもむすびつかない、誰のものでもない遺骸に物質的に憑依する。アレゴリー、「奇妙な果実」が人間を象る寓話の意味は、果実を通して人間を見ることではなく、人間を「奇妙な果実」そのものとして見る。アレゴリーとしての果実は比喩として流通することを拒否する非透明な物質であり、対象と同一化しないアレゴリーは、知覚という対象への差し戻しの作用から果実という実体のない形象だけを引き離す。「奇妙な果実」は、果実という対象へ辿り着かない踏み外した森のなかで方向を失ったまま吊るされる。対象を表象しない果実。何も表象しない縊死した果実。対象と類似しない「奇妙な果実」は何ものにも関係しない果実、誰とも似ていない「奇妙な果実」を露呈するだろう。類似によって対象と関係するのではなく、対象に内在する運動、対象に憑依する、憑依する運動そのものに「奇妙な果実」は類似するのであり、こことどこにもない場所を、非実体的な実体、此岸と彼岸、密度でいっぱいの空虚、何もないものの充満をむすびつけるための憑依媒体としての「奇妙な果実」は、媒体を物質的な形象として現前させる。ビリー・ホリディーの「奇妙な果実」の最終ヴァース、“黒いかたまりが南部のそよ風にゆれる”、かたまりとそよ風が無限に重なり反芻され、かたまりとそよ風が交換価値へと変質し交換可能な商品として市場に現れる。ウジェーヌ・アッジエが撮ったパリのパサージュの中のマネキンに、ショーウィンドウのガラスに写り込み反射する街路樹や馬車、群衆がラオコーンに絡み付く蛇のように重なり合う。交互に反射し合う物体が互いの実体を消し合い、いくつにも重なり合う影が質量をもった物体として重量をもちはじめる。リンチで惨殺された死体を黒いかたまりの彫像へと変容させるためのビリー・ホリディーの歌声。「奇妙な果実」は 黒い彫像を、“赤い汁が葉を濡らし、根元にしたたる南部の不思議な実”、のような液体と惨殺された死体をむすびつける白鳥座のための歌であり、リンチで吊るされた死体を果実の残滓に例える「奇妙な果実」の死こそが写真なのだ。交換され変容していく液体と物質は互いが互いの染みか痣のようになり、いつまでも永遠の現在として痕跡化される。不死を獲得した者の過去は未来に続かない。未来はブルジョワ階級のものであり、未来を実現しょうとするブルジョワの時間概念は、時間を直線として実体化し、実体化された未来と現在の差異から利潤を発生させようとする。ブルジョワ階級の搾取の根幹としての時間の実体化に、プロレタリアの時間は停止したまま未来をもつことができない。プロレタリアの時間は「奇妙な果実」の黒い彫像のようであり、彫像の生あるいはむしろ死のなかで瞬間が無限に持続する。無限にのびていく線としての時間に対し、停止と微分化を導入する不死者の遊撃的持続。毛沢東の遊撃的ゲリラ蜂起の要諦は時間をブルジョワ階級から奪回することであり、時間の反共有化、時間の破棄。19世紀ドイツでブルジョワの近代産業化への促進運動に対して行われたプロレタリアの反合理化闘争は象徴として街頭の時計を無差別に銃で乱射したように、プロレタリア階級は未来に向かうあらゆる時間を無差別に銃撃する。わたし達は生にたいしては死を、言葉よりは無言の乱射を、流れていく時間より宙吊りの何もない何も起きなかった記念碑を。セリーヌの墓碑銘がすべてに対して“否”なら、わたし達の墓碑銘は何も書かない。何も書かないことで何もない、“否”と言うべき対象もない、どこにもない世界と通低する。アウグスト・ザンダーに撮られた農夫は、張りつめた表情のまま永遠に微笑むことを禁止される。モナリザが永遠に微笑むことしかできないのなら、ザンダーの農夫は農道で振り返ったまま凝固する永遠の氷河期の農夫であり、凍結した氷の未来は農夫達の固有の記憶を粉々に破砕するだろう。彼らの記憶は未来につながらず氷のなかで窒息死する。縛り首の木コットンウッドに吊るされた黒いからだの筋肉のなかで告知される未来は永遠に現在たることはできず、いまにも花開きそうなモナリザの微笑みも、凍り付いた農夫の表情も永遠に花開くことなく永久に微分化される。現れるものの遲鈍さ、つねに現在に辿り着くことができない遅滞装置としての写真。ブライアン・ウィルソンが唄う“美しいものが死んでいくのを見るのはとてもつらい”。美しいものはいつも現在に間に合わず遅滞化された美しいものの残滓であり、かってあった美しいものには戻れない。かってあった美しいもの、かってあった起源を写真は無限に切り刻む。起源に無数の切断の痕跡が残される。起源を無限に細分化させ、かってあった美しいものを無限に現出させることでわたし達は起源を特定することを拒否する。「キャロライン・ノー」の“いったん失われたものは、もう二度と元に戻らない”、元に戻れるというかってあった元の時間、キャロラインの起源にノーという拒絶が痕跡化されている。「キャロライン・ノー」のキャロラインはいなかった。美しい時間は最初からどこにもなかった。キャロラインに不在が刻印される。あらゆる起源とは不在のことであり、不在とは無のことではなく不在という存在しない不在が現れ起源に刻印される。美しいもののなかに先天的に内在化されている腐敗と朽ちていく未来が具現化され、死ぬことを拒否され毀損したままの生が「奇妙な果実」のように露出しようとしている。永遠に宙吊りにされる縛り首の「奇妙な果実」。永遠に宙吊りされた果実の未来はいつか腐敗して残滓しか残らない未来ならざる欠損の未来。それは未来のない未来、時間の停止した未来。美しいものを撮ることは、美しいものの「今」を遅滞化させ無限に分割し、とうとう現在に辿りつけなくなる。美しいものの残映の未来であり現在に辿り着けない美しいものは、現在という根拠を奪われたまま宙に映写される。時間の宙吊り、過ぎ去ることのない時間、“美しいものが死んでいく”のではなく、美しいものは死ねない。ただそこに立ち止まる。“美しいものが死んでいく”、その死んでいく瀕死の状態のまま永遠に立ち止まる。
金村修

PageTop
© 2011-2014 KANEMURA OSAMU WORKSHOP
Home | News | Statements | Reports | Information |