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Statements / 2012年1期 1月16日〜3月19日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2012_01
ステートメント
街頭を制圧する者が権力を掌握するとゲッペルスは語る。ゲッペルスの語る制圧すべき街頭とは、十九世紀末のパリのパサージュのような、ブルジョワジーが夢見た階級を越えたユートピア、幼年時代への退行、富と技術を不断に使った装飾的な街頭であり、それは実在の街頭というよりも、ブルジョワ達の交霊術によって実物以上に見えるファンタスマゴリーの魔術によって幻視された記号としての街頭。ゲッペルスは記号としての街頭の制圧を命令する。ゲッペルスは飾り立てられた記号としての街頭の占拠を語り、突撃隊の暴力はマーロン・ブランドの『ならず者』のようであり、スパルタクス・ブンドのベルリン武装蜂起はハワード・ホークスの『スカーフェイス』のような映画的市街戦を実行する。街頭を映像化すること。映像は現実に先行する。記号に美を見出すゲッペルスと、暴力はボルシュヴィキ的表現の最高形態であると語るレーニン主義者達は記号に錯乱と恍惚を見出す。レーニンが語る社会主義+電気が共産主義の原理なら、魔術的社会主義とは一角獣の神話やチュートン族のお伽噺がメッサーシュミットやタイガー戦車を引き連れる。社会主義+錬金術。錬金術に電撃と機甲師団をプラスする。自然界において相容れない金属同士を娶ること。水と火が互いに溶け出しあう神の摂理に反した性行為。ボルシュヴィキとグルジェフとゲッペルスの融合こそが魔術的社会主義なのだ。社会主義的リアリズムの魔術化とは記号こそがブルジョワ社会の下部構造で物質的現実であることを肯定する者であり、リアリズムとは記号に狂うこと、記号に錯乱すること。武装蜂起とはエイセンシュタインの映画のことで、レーニンの言う武装蜂起の混乱こそがボルシュヴィキの秩序だと言ったのは、映像としての武装蜂起に狂乱することが魔術的社会主義者の秩序なのだ。ブルジョワ社会とはウォルト・ディズニーに流血をプラスするウォルト・ディズニー+流血の世界であり、ウォルト・ディズニーに流血を強要するゲッペルスは、流れる血の色の赤もペンキ的な赤でしかないことを認めながら、その詐術的な赤に狂喜する。アブドラ・ザ・ブッチャーの東京体育館での流血に観客が熱狂したように、詐術的で記号的な流血ゆえに熱狂するのだ。私達の視覚が体験する赤は、赤そのものを視覚的に体験するのではなく、赤という言葉に名付けられた、赤という言葉を視覚的に体験するのであり、赤という名詞は黒や白という色の名詞の対比、言葉の相対的秩序の中でしか赤を視覚的に体験することができない。赤とは言語の差異化的表現の中でしか存在できない。色とは記号的差異の表現であり、流血もまた記号的な肉体から流出した差異としての赤でしかない記号の赤に、東京体育館の観客は熱狂する。記号だから熱狂し、記号だからこそ錯乱する。それは人間から流れる何かを表出する記号ではなく、人間の何かを表出することをやめた記号であり、人間を詐称することに失調した記号。東京体育館のバックライトを背景に、アントニオ猪木の延髄切りで倒れていくアブドラ・ザ・ブッチャーの痙攣する姿は、アンドレ・ブルトンの言う美は痙攣的であり、痙攣的美はブッチャーがブッチャーを表徴することをやめた記号の代理機能を放棄した美であり、痙攣的美は記号の代理表徴の機能を強制的に失調させる。東京体育館で撃沈されたブッチャーは誰も表出しない、ブッチャーであることを放棄した何者でもない記号としてのブッチャーなのだ。アブドラ・ザ・ブッチャーであることを放棄した記号としての流血。魔術的社会主義者はウォルト・ディズニーに代理機能を放棄した記号としての流血を付加する。ジョナス・メカスの血の色をした映画とは、機能不全で瀕死状態に陥った記号としての血を肯定する映画なのだ。ウォルト・ディズニーの機能する虚嘘の記号に対して魔術的社会主義者は失調と不全と貧血のゲッペルス的ディズニーを要求する。ゲッペルス的ディズニーは、食物と食物を咀嚼できずに吐いた後の吐瀉物の関係に類似する。ウォルト・ディズニー的記号に満ちたブルジョワ社会にゲッペルス的ディズニーは、その始まりに腐敗した吐瀉を設定する。ゲッペルス的ディズニーは、食物を腐敗した吐瀉物に変質させる装置であり、原型をとどめない、顔の所有を棄却させる。ミッキーやドナルドは腐敗したゲッペルス的ミッキーやゲッペルス的ドナルドに変化する。吐瀉物としてのローザー・ルクセンブルク。吐瀉物としてのパルチザン。吐瀉物としての突撃隊。ゲッペルス的吐瀉物は親衛隊とパルチザンの幸福な結婚を夢見るだろう。幻燈機の光によってネズミやアヒルが巨大化されたホムクルンス的化物へと化学変化させるディズニー的錬金術は、光を、始めに光りありきと生誕の始源に光を要求するなら、ゲッペルス的ディズニーは光と闇の結合を要求するだろう。ファンタスマゴリーを呼び起こすための光ではなく、眩しくて見えないぐらいの光。白い闇となって何もかも見えなくなってしまうような光。光とは見るためではなく盲目になるための闇になるための光なのだ。闇になるためには光がいる。始めに光りありきとは、闇になるために要求される光であり、魔術的社会主義者にとって光は世界を照らし出すためのものではない。ブルジョワは世界の諸対象をファンタスマゴリー的に浮上させるための幻燈機の光であり、ブルジョワ階級の光は、世界史の無意識的存在、地に呪われたプロレタリアートを全世界に可視化させるための超越的な光の装置なのだ。プロレタリアートはブルジョワによって対象化された存在であり、対象化されたプロレタリアートは主体と対象の関係を維持するために、世界に属さない超越的主体としてのブルジョワ階級をその度欲望するだろう。対象を成立させる超越的私を語ることは不可能ゆえに、ブルジョワ階級は対象になりえない。ブルジョワ階級とは世界が存在するための前提であり、ブルジョワ本人は世界にいない。この世界に現れるのは、対象としてのプロレタリアートだけである。超越的主体を呼び出すブルジョワの降霊術、不在としての主体をあたかも存在するかのように振る舞うブルジョワの降霊術のテーブルを引っくり返す者だけがプロレタリアートなのだ。ブルジョワの階級が世界から私を積極的に放逐することで世界を不在的に支配しようとするなら、ベルリンの地下防空壕で家族を正装させ一家心中を選んだゲッペルスの方法は、自死することで世界の外側に超越的主体として立ち上がるのではなく、世界の中、世界の対象の中に偏在と埋没することを選択する。超越的主体を呼び出さないための、偏在と埋没のゲッペルスの方法的自殺。世界はゲッペルスが拳銃で頭を打ち抜く瞬間の暗闇のような盲目になる。盲目になることは世界に恋することであり、暗闇に恋すること、光を遮断して世界が見えなくなることを恋心的に肯定すること。恋する暗闇は、見えない超越的な主体を絶えず要求する自転的な空間ではなく、爬虫類が暗闇の中でくつろいでいるような自閉的な空間。超越的主体を生み出さない空間は時間が流れない。いつまでも同じ姿でいつづける爬虫類の空間。恋は私を水星の支配をうけない火星に、自閉回路の中で百年以上同じ姿でありつづける爬虫類に、暗闇の中の盲目になった獣に変身させる。恋は人を獣にするのだ。獣は超越的主体を求めない。獣はそれ自身絶対的な存在であり、獣は恋の化身、恋の絶対的な事態。絶対的事態とは獣のトートロジーであり、恋をするとは好きなものは好きという意外に何もない空っぽの獣のトートロジーなのだ。恋する獣のトートロジーは好きなものは好きという無意味な形式自体を露呈させ、恋を反復させることしかできない。好きだから好きという恋の絶対のトートロジーは、無意味で空虚でただ反復することしかできない論理の形式を物質化する。恋の空虚なトートロジーは超越的主体を呼び出すことはしない。トートロジーの反復がブルジョワの霊媒師を殺すのだ。ルドルフ・ヘスは、国家とは総統のことであり、総統とは国家のことだと語った。ヘスは何も語っていない。ヘスは好きなものは好きだし、やりたいものはやりたいし、殺したいものは殺したいと語っただけだ。恋のトートロジーだけが、ブルジョワの降霊会を台無しにする。恋のトートロジーだけが、総統官邸地下壕の中で自死を選んだゲッペルスを何度も反復する。
金村修

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