Workshop SiteHomeNewsStatementsReportsExhibitionInformation
Statements / 2011年4期 10月10日〜12月19日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2011_04
ステートメント
ブルジョワの階級が《媒体》に書かれた文字に意味を読み取ろうとするのなら、私達は《媒体》を白紙として、からっぽの空白として、何も書かれていないもの、伝えたいことは何もない凶暴な白として読み取らなければならない。 写真は効率的な伝達機能を不全状態に陥れるための《媒体》であり、《媒体》は何かを伝達することを拒否する。《媒体》は透明であることを拒否する。《媒体》は《媒体》自体のみを伝達し、それ以外のことは何も伝えようとしない。《媒体》は不透明な黒く濁った壁であり、誰もそこを通り抜けることのできない迷宮なのだ。《媒体》を通過しようとする者は、カフカの『村医者』の、ずっと手前の地点でおしまいになってしまうのではないかという到着できない恐怖につきまとわれる。到着が固有名の統一と保証を形成するのなら、到着の不能は鏡に映った“私”の顔が“私”であるという超越的保証を空気と錆で腐食させ、“私”の顔を他人の顔と交換可能な顔にする。《媒体》は固有名を溶解させる。固有名を失った私達は毎日違う名前を署名しなければならない。見たこともない文字で署名しなければならない。“私”とは底無しの黒い穴のことであり、底無しの穴はどこにも到着が不可能なのだ。自己の同一性が到着するという前向きの時間に限定されているなら、到着の不可能性は前方に投企される時間を奪い、生きている人間すべてを過去の痕跡にしてしまう。痕跡としての人間。名前の上に「故」をつける屍体のような生を強制される。追憶の回路は時間の進行を阻み、世界を過去でいっぱいにするだろう。過去と現在は対立概念であることをやめ、過去を今想起している現在、現在としての過去、過去になっていく現在。追憶によって時間を廃棄された現在は立棺の中で立ったまま吊るされ解体される用済みのホルスタインのようだ。私達はレディメイドの肉のように生き、レディメイドの肉のように死ぬ。世界は過去になった現在と現在になった過去がお互い融解したまま硬直して、もう何処にも行けない。《媒体》とは物質なのだ。交通ラインに麻痺と混戦を持ち込むものであり、ヒステリー患者の擬音語、星座と内臓と発作とダンスの言葉、地縛霊と天使の婚姻、《媒体》はあらゆる固有名の境界線を越えて、隣接と類似の関係を結ぶことができる。《媒体》とは《霊媒》であり、動物霊と守護霊の言葉を同時に喋ることができる。平行線が交わる非ユークリッド的世界。共存できないもの同士が共存し、お互いを模倣――擬態する。《媒体》とは動物が世界を擬態するように、カフカの『オクラホマ野外劇場』のような動物的な身振りを擬態するだろう。精霊とドラキュラの区別がつかなくなるような、なかば羊で、なかば子猫であるような醜い動物達の身振りを擬態する。身を守るための擬態ではなく、固有名を放棄するための擬態。『変身』の毒虫のような、あなたが消滅していくための擬態。消滅そのものを擬態する。何も書かれていないものを擬態する。擬態はあらゆる存在に先行する。私達はからっぽで擬態する以外に何もない。擬態は固有名詞へと形成していく意識を破壊し、星座と内臓の区別を意図的に混同させ、世界のあらゆるものに私達は擬態するだろう。固有名詞も形容詞も副詞も何もいらない。接続詞と擬声音だけで世界の最前線に近づいていく。私達が“川”と叫べばそれは“川”に、“山”と叫べばそれは“山”になるのだ。根拠のない擬声音で世界に名前を与え、無責任な接続詞で世界の断片をつなげる。犬の首とマリーアントワネットの体をつなぎ合わせて、もう一度断頭台の上に駆け上らせることもできる。私達はドン・シーゲルの『突撃』の突撃大隊であり、モルヒネでトリップしたマレーネ・ディートリッヒの勘違いしたオカマのカウボーイ姿になることだってできる。擬声音とはイメージであり、イメージとは世界の残滓だ。記号の二元論に還元できない残滓としてのイメージは、咀嚼できない物質的な違和感として最後の抵抗線をはるだろう。イメージをイマジネーションの世界から物質の世界へと奪回すること。すべての砂漠を星座の運行と運命的必然、万物照応として読み解くこと。イメージはそのためにこの世界に焔を持ち込み、世界を荒野と砂漠の星座のように焼き尽くす。1945年のベルリン攻防戦にフリードリヒ大王の運命を重ね合わせるように、廃墟の荒野は、火星が世界を支配して、凡庸な水を駆逐するはずだった星座の運行を運命的必然として擬態する。イメージは所有できない。ベルリンの廃墟にワーグナーの『神々の黄昏』が被さるイメージが誰のものでもないように、イメージはもう誰のものにもならない。誰のものでもない物質としてのイメージを前に、私達はそのイメージを擬態する。イメージは物質の痕跡であり、その痕跡の言葉を読むことは禁止される。誰も読むことのできないイメージの痕跡を「まったく書かれていないもの」として読まなければならないだろう。ポーの『盗まれた手紙』。手紙には何も書かれていない。カフカの『皇帝のことづけ』。ことづけは何も言われていない。空白であり何も書かれていないものを擬態する。それは謎を擬態することであり、謎は誰のものにもならない。謎は所有できない。謎はあらゆる人に開かれていながらそれを読むことはできない。謎はただ擬態することだけが許される。
金村修

PageTop
© 2011-2014 KANEMURA OSAMU WORKSHOP
Home | News | Statements | Reports | Information |