Workshop SiteHomeNewsStatementsReportsExhibitionInformation
Statements / 2011年3期 7月11日〜9月12日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2011_03
ステートメント
 選択は主体に属さない。選択はどこにも所属しない。選択は主体よりも先行してあらわれる。主体が選択よりも先行してあらわれ複数の選択肢から何かを能動的に選ぶのではなく、選択が主体や対象よりも先行してあらわれ、選択が主体や対象を発見するだろう。選択は中空に浮かんだ自我発生装置であり、選択という行為は選択をコントロールする主体なしに選択を行う。
 選択に主語は必要とされない。選択こそが主語を不断に構築しつづけるからだ。“私”という主語は選択によって発明された“私”でありそれは砂漠の“私”なのだ。砂漠に選択のイニシアティヴを握るべき誰かは存在しない。砂漠が能動的に何かを選択するなら、砂漠は同じ顔をした砂漠しか選ばないだろう。選択された者と選択する者が同じ砂の粒子の中で埋没する。
 私達に何かを選ぶことは可能だろうか?選択的行為は私達の砂漠の本性を剥き出しにさせる。私達の砂漠とはル・クレジオの自転車の走行+女の靴音の響く迷路+砕石道路の割れ目に滲み出る下水+鉄格子の柵+耳をつんざく音響のほぼ完成した沈黙+十五階段+大理石坂のように凝固した冷たい空気と、ポリエステルの匂いが漂う不自然な土砂降りの響きが、正確な尊守すべき目盛、非人間的な遊戯のルールを示している、独自で絶対的な体系をそなえた砂漠のモグラの死から写真は始まる。写真は撮影対象にモグラのような死と砂漠のような墓場を強制するだろう。
 迷路と鉄格子と砕石道路の砂漠の中でモグラに選択の意思が成立するだろうか?モグラには右も左も上も下も分からない。モグラには何も存在しない。モグラに必要なのは砂漠の中で無意味に死んでいく犬死にでありモロトフカクテルが地面に叩き付けられ一瞬だけ燃え上がる希望の放棄であり、それは稲妻の素描で永遠になる前に死んでいくモグラの権利なのだ。蜂蜜と時計とブルボンと下水が区別なく混ざりあう世界、それがモグラの未来だ。
金村修

PageTop
© 2011-2014 KANEMURA OSAMU WORKSHOP
Home | News | Statements | Reports | Information |