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Statements / 2011年2期 4月11日〜6月13日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2011_02
ステートメント
セルゲイ・ネチャーエフの『革命の教理問答』第一条すべての革命家はあらかじめ死刑を宣告された存在である。革命家はこの世の外にいる死者であり死者を先取りした存在であり、生存の世界に死者の視点を持ち込み、生の生成変化の契機や出来事を廃棄させようとする。革命家は社会を変革させるのではなく、変化の芽生えに流産を、未来に対して流血を、マルクスの言う“暴力は革命の助産婦”ではなく暴力は世界に死者の経験を強制するだろう。カメラこそが生を死に転換し死者の先取りを具現化する。流血して転倒し社会を屍体にすること、死者こそが民主社会で言う多数派であり、人類の多数派は死者の多数派=ボルシェヴィキこそがこの世のイニシアティヴを奪回する。死者はかつてここにいたものでありながら、今では忘却され棄てられその痕跡はどこにも見つからない。全てのものに同化して見分けがつかなくなること。かつてそこにいたものが私の母なのか、爬虫類なのか、その区別を混同させること。私の母も爬虫類もみんな同じ顔につくられる。見分けのつかない同じ廃墟になり見分けのつかない同じ屍体になる。私達死者は生成の契機や出来事の廃墟であり、いくらつくりなおしても同じものしかできない。変革の契機を棄却した死者が世界を覆いはじめる。この世界はどこに行っても同じ独房であり、いくら脱獄を企ててもいくらつくりなおそうとしても、いつまでも同じ独房にしか戻ってこれないのなら、ネチャーエフは独房で衰弱死することを望み、オーギュスト・ブランキは生まれ変わってもまた同じ独房にいることを望んでいる。星座は屍体の星で増え続け、水瓶座の時代は終わり火星と土星の時代がやってくる。私達は死者でいっぱいの独房の中で何度やっても同じ廃墟しかつくりなおせない。
金村修

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