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金村修ワークショップ 2018年1期1月8日〜3月12日 / 募集中 ※お申し込みはこちらから
ステートメント
人間は風景の一部でしかない。ジャック・ケルアックの小説を読んでいると、そんな風に思えるときがある。“目の前にはバトラー・ロードと十ブロックに及ぶベツレヘム・ウエスト・コースト・スティールの巨大なバラ色のネオンがあり、頭上の空には星が出ている。そこに座っていると突進してくる蒸気機関車の煙の匂いがし、夜の線路の彼方へと走り去っていく。それを曲がっていくあたりにはサウス・サンフランシスコ空港があって、愚にもつかない赤い照明が揺らめいている”(『地下街に人びと』ジャック・ケルアック)ネオンや線路や空港が人間の存在よりも魅了的に語られ、“蒸気機関車の煙の匂い”を嗅いでいる自分の存在は、この風景の中の一部でしかない。“アメリカに太陽が沈むとき、ぼくは古い壊れた河の桟橋に腰をおろし、遠くニュージャージーを覆う長い長い空を見つめ”ている(『路上』ケルアック)というその描写には、自分が空を見つめているという能動的な立場から徐々に“その長い長い空”の中に溶解していくかのような感じを受ける。自分の存在はアメリカの風景を構成する一部であり、風景の中にゆっくりと分解され遍在化される。人間は風景の中の特権的な存在ではなく、身の回りに転がっている石と同じようなものとして扱われる。それは人間嫌いから発生するアンチ・ヒューマニズム的な悪意ではないし、人間の労働とその本質を疎外する資本主義社会から本当の人間の労働と本質を取り戻そうという素朴な社会主義的なメッセージでもない。“壊れた桟橋”と同じように人間は、意味もなくそこかしこに点々と存在するものでしかないのだ。人間が必要とされない風景。ケルアックの風景描写は、風景を認識することで風景に一つの秩序を与えるという視線の遠近法が放棄されている。遠くのものが近くに現れ、近くのものが遠くに現れる描写の仕方は、夢の世界のように現実の秩序とは真逆の仕方で記述される。後年のニュートポグラフィーやニューカラーの写真を想起させるような巨大なネオンと空港と星に占領されたケルアックの描写する風景は、人間に対して無関心であり砂漠の砂の流れのよう無目的にどこまでも動き続ける。そんなオートマチックで無人化した風景をケルアックは肯定しているのではないだろうか。
人間は砂漠の砂と同じで無数にそこに存在しながらも、砂漠の中心的位置を獲得することが決してできない。無数の砂に覆われた砂漠に中心は存在するだろうか。人間の目にはどこまで行っても同じ風景にしか見えない砂漠は、砂漠の側に立てば同じ風景はそこには一つも存在しない。人間の目には変化しない平坦で何もないように見える砂漠はつねに変化し続ける存在であり、それはケルアックの小説やチャーリー・パーカーに代表されるビバップのように基音となるべき中心音が存在しないまま演奏されていく様とよく似ているように思える。チャーリー・パーカーの演奏が“発狂したチャイニーズ・ミュージック”、“動物園の猿の悲鳴”と揶揄されたように、スイングジャズの心地のいいメロディーに慣れた人間にとって、ビバップは何を演奏しているのか分からない、みんな同じような音に聴こえる音楽だった。白人のスタンダードポップスがアドリブのきっかけや材料としてジャズマンに乱暴に扱われる。コードの簡略化によってコードの拘束から自由になったビバップは演奏から終わりという概念を追放するだろう。それは砂漠の砂の流れのように無限に変化し続ける音楽であり、いつまでも演奏することが可能なビバップに聴衆の存在は必要とされない。人間の音楽でもなく機械の音楽でもない、砂漠の音楽。それは人間の耳を必要としない音楽であり、スイングジャズが人間にエモーションを喚起させる音楽なら、ビバップは人間に何を喚起させるだろう。外界の混沌とした音を整理し秩序を与え人間の脳に理解できるかたちに変質させるのが人間の耳の役割なら、ビバップの“発狂したチャイニーズ・ミュージック”はノイズにしか聴こえない。ビバップは音からエモーションを減算する。音楽はメロディーのような秩序を持ったものではなく、それは音の連なり、持続し続けるアクションであり、エモーションを喚起させるメロディーはそのような音の運動を停止させられる。エクスペリメンタルシネマによって映像が物語から解放されたように、ビバップはメロディーという物語を放棄し、音楽を暗号の連なりに変化させ、すべての音に対して謎を付与する。無数の謎が、無数の読み方を強要して、正解となるような答えはどこにも存在しない。無限に解釈できるアレゴリー的な世界の現出は人間が安住できる場所ではなく、そこは無意味なスリルに満ちている場所に変容する。
アットランダムな周波数の発生が人間の耳にはまるで意味のないノイズに聴こえるように、砂で充満した砂漠の豊穣な光景は、人間の目には何もない空っぽの風景に見える。けれど風景に人間の目は必要とされないように、音楽も人間の耳を必要としない。ケルアックのジャズに対する愛情の表明は人間がいないところで成り立っている世界に近づいていこうという意志の表明なのだ。
“おまえは自分の足に、土塊に唾するように女の愛を裏切るのだ”(『地下街の人びと』ケルアック)50年代アメリカの中産階級の価値観を踏みにじりメインカルチャーの全てを否定したケルアックとビート・ジェネレーション。彼らは髭をのばし黒ずくめのタートルネック姿で黒人のジャズに熱狂する。アメリカの中産階級の価値観に対して悪罵を浴びせ続けた彼らの姿。そこには新しい価値を対峙することで社会をひっくり返そうという革新者特有の戦闘性は感じられず、後のヒッピーのように未来に対して楽天的な希望を表明したわけでもない。彼らの姿はむしろとても消極的で悲観的だ。ひたすら世間を呪う言辞を吐き出すだけで、新しい価値を提示するわけでもない。可愛い女の子やデューク・エリントンの音楽以外はすべて消え失せろと言ったボリス・ヴィヴァンのように、ただこの場所に対して、うんざりだ、消え失せろと駄々っ子のように言い続けるだけだった。アメリカの価値観に対して唾し続けたケルアック達は、自分の吐いた大量の唾で窒息して自滅していく。彼らのその姿にはどこにも希望がない。むしろあらゆるところに現れる希望に対して彼らは唾を吐き続ける。50年代アメリカ社会のうち出す希望。それは“神は世界の再生のための指導者としてアメリカ人を選び給うた”(『10セントの意識革命』片岡義男)。世界の再生という希望に対して、ケルアック達のようにジャンキーやアル中になるという自滅的な生き方をする以外に、アメリカのいう希望の呪縛からどうやって逃れることができただろう。
建国の当初から西部に向かって開拓という名の侵略を行い続けたアメリカ。西部開拓というフロンティア政策を国家機構の基本システムに置いたアメリカにとって開拓という名の侵略は希望と同義語であり、世界のいたるところに開拓の可能性が無限に存在しているという、そのような希望を持続し続けることでアメリカのアイデンティティーは保たれる。“「神は我々の人生を我々の夢ほどには残酷にしないものだ」”(『地下街の人びと』ケルアック)。“世界の再生”のリーダーにアメリカ人を選んだ神は、その残酷な夢をアメリカ人にではなく他国の人間に押し付けるだろう。無限の開拓を信じてひたすら漸進し続けるアメリカの夢は領土的、経済的な侵略という具体的なかたちでその夢を実現する。
資本主義社会の中で希望は意味のない消費と生産と設備投資の回路の中で成り立っている。“アメリカの生産機構はたえず豊富な食料をつくりだすので、私たちはますます大きい倉庫をたて、余剰分を貯蔵するため毎日100万ドル以上を使わなければならない。どうしたらよいのか。ここでも答えは単純である。夜、空腹のまま床につく数百万の神の子たちのへこんだ腹の中に、無料で余剰食料を貯蔵することができるはずなのだ”(『ぼくはプレスリーが大好き』/片岡義男)。希望とは“余剰分を貯蔵するため毎日100万ドル以上”の金を無意味に使うか、ファーストフード店の食品ロスのように食べられる食品を廃棄物として捨ててしまうことであり、“へこんだ腹”の子供達の目の前で必要とされる食料をゴミのように廃棄することだ。スーパーマーケットに行けば毎日大量の食品が製造されて捨てられていく。カミュのシーシュポスの神話を想起させるような生産と消費の無意味なサイクルの中で生きることが資本主義の希望なのだ。経済的繁栄が“神の国アメリカ”を自認させ、生きながらも永遠の生命を与えられたような不老不死的な幻想を信じるアメリカの夢に対してケルアックは終わりを突きつける。“日々の中、死はやってきて、墓に埋められ”、“超える預言者はいなかった”(『コーラス240』ケルアック』)と書いたケルアックは、有限の生は無限の繁栄ではなく死の契機としてか存在しないことを証明するだろう。
生が永遠の領域に結びつくと考えるのはブルジョワ社会における一つの倒錯であり、永遠に利潤を生み出し続ける社会というのは、水や空気を石油に変えられるといういかさまの錬金術とよく似ている。ブルジョワ社会は錬金術と永遠を求め続ける。けれど人間が永遠になるには死ぬしかない。永遠は人間の領域ではないし、有限の肉体しか持たない人間が永遠や無限について語るというのは、神という超越的な領域に対する侮辱でしかないのだ。ブルジョワ社会において永遠が繁栄と結びつくのは経済的な繁栄が神の意志だという妄想であり、有限としての人間が永遠や領域に存在する世界を代弁できるという思い上がりでしかない。有限の存在が永遠について語ることは不可能なことであり、もしそれが語れるのなら、その言辞は永遠の否定というかたちで現れる。永遠とは有限である人間の領域を超えることで初めて可能になることだから、永遠に繁栄し続けるということは死ぬしかない。ブルジョワ社会は自殺することで永遠の繁栄を手に入れなければならない。
資本主義社会は終わることや有限に対して、無限の進歩や未来という概念を対置する。終わらないことで世界はいつまでも利潤を生み出す開発可能な対象に変質させられる。そのような永遠の開発がブルジョワのいう希望なら、希望は利潤の追求でしかない。利潤を生み出すためにあらゆるものが変質させられ、大量に蓄蔵または廃棄される余剰食料は、必要のためではなく利潤を生み出すものとして、食べるという使用価値からマーケットで売買される交換価値としてその利潤を追求するためのアイテムに変質させられる。“へこんだ腹”の子供達にとってアメリカの掲げる永遠の成長は、永遠に腹を空か続けていなければいけないというメッセージであり、未来に対して搾取と侵略し続けることの言い換えでしかないのだ。
自分達の生み出した世界を正しく認識していたはずの人間がその正しさに自分の首を絞められないために、ケルアックは“自分の正気の裏からやって来た乱暴な悪霊ともう一杯の酒を飲みたいがために、かわいい女の愛を投げ捨てたんだ”(『地下街の人びと』ケルアック)、もっとも大切にすべき人間に対して悪罵を浴びせることで親密な愛情で満たされた二人の空間に亀裂を入れようとする。“かわいい女の愛”に慣れた人間にとって彼女の存在は、当たり前な日常の風景でしかない。風景の中に当たり前のようにそこに存在する彼女。そこにいることに慣れてしまった彼女は、なぜそこに配置されたのか忘れてしまった家具の存在と何一つ変わらない。そのような無自覚に配置された彼女の姿は、ブルジョワ社会が作り出した典型的なアメリカの中産階級的な風景であり、わたし達にそれを決して風景とは感じさせない心地よい空間に変質させる。風景とはわたし達を包み込む優しい何かだと思わせるのがブルジョワ社会の風景であり、それは風景の非情さを切り捨てて、人間にとって都合のいい光景に作り変えた人工の風景でしかない。そのように光景化された彼女をもう一度風景として見るためにケルアックは、無自覚に光景化された彼女の愛を投げ捨てる。風景と一体化しフレンドシップな関係を築いていると思い込んでいる人間に風景が現れることはないだろう。風景は亀裂から始まる。風景は敵対する関係からしか見えてこないのだ。“乱暴な悪霊”ともう一度つるむことで目の前の光景から風景をケルアックは切り出そうとする。風景から気持ちのいいエモーションを喚起させられる人間にとって、風景は私の意識が支配した都合のいいものとしてしか現れないだろう。すべての風景は私のエモーションを喚起させるアイテムでしかなく、大阪の道頓堀である店からモーツァルトが聴こえてきたことで霊感がいきなり喚起されたと書いた小林秀雄のような人間にとって風景は、どこまでも都合のいいアイテムとしてしか現れない。風景は人間にとって親密な対象ではなく敵であり、ケルアックのように人間を放棄することでしか風景に近づくことができないのではないだろうか。風景は人間に対して何の興味も持たない。風景はわたし達に対して無関心というかたちでしか現れない。それは人間の領域で理解されるものではない。人間を放棄する、人間という概念を放棄することで、はじめて人間は風景の一部に近づくことができるだろう。
金村修
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