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Exhibitions / The White企画展 Buddha Virus Suicide Attack
2016年5月3日(火)〜5月21日(土) 
13:00〜19:00 日・月曜 休み
The White

展示内容
ヴィデオ作品『Life is a gift』 上映時間 約20分
ヴィデオ作品『Myrmidons of soap opera』 上映時間 約20分
スライド作品『Kick the can』 上映時間 約30分
カラーデジタル写真
ステートメント
『竹熊の野望』(竹熊健太郎)に書かれているコンピュータウィルスの話で、大晦日の真夜中、除夜の鐘が鳴る頃にパソコンの画面上に一本足のお化けが現れて般若心経を説き始める。般若心経の最後の言葉を唱え終わると、パソコンに入力していたあらゆるデーターを判読不明のお経に変えてしまう。そんな強力なウィルスがインターネットの黎明期には存在していたようだ。 浸透して破壊する一般的にウィルスの攻撃方法は基本的にゲリラ戦であり、その戦術方式はつねに奇襲攻撃だ。決戦という敵との正面戦を避け、迂回と浸透と奇襲を攻撃の基本に置くウィルスは、共産主義者の洗脳と浸透を揶揄するように描いたドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー』を思い出させる。『エイリアン2』のようにエイリアンと人間が正面から戦うのではなく、表面上は何も起こらないのにいつのまにか住民の内部を変えていくエイリアンの浸透戦術は、ウィルスの戦術であり、それは侵入を繰り返し、般若心経を唱えながらいつのまにかすべてのデーターを改ざんするコンピュータウィルスとよく似ているように思う。“色即是空、空即是色”という“形があるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形があるとなっている”と唱える般若心経の言葉でデーターを消していくそのユーモラスな攻撃方法は、確かにネットワークという実体のない世界を攻撃するのにぴったりの方法だったのかもしれない。
誰とも戦わずにいつの間にか街の住民を別の人間に変様させる『ボディ・スナッチャー』は、ブルジョワ社会を機能不全に追い込むゼネラルストライキのイメージに近いような気がする。あらゆる交通や生産過程をストップさせ社会を沈黙の闇に追い込むゼネラルストライキは、国家や社会の全身にウィルスのように浸透していつのまにか臓器不全の状態に追いこむ。流通と交換を基底に置く資本主義社会では、ネットワークによる複雑な交通システムを駆使した流通が社会を成立させるための重要な要素であり、そのような流通経済をストップさせようとするゼネラルストライキの戦術は、右から左にものを流通させることで利潤を生み出す資本主義社会の実体のない虚構の剰余価値システムを破壊するのに有力な方法なのかもしれない。
ある日突然何も動かなくなった社会。ネットワークを基盤にして成り立つ資本主義社会は、流通と交換が全面的にストップすればそのまま衰弱して死んでいくしかないだろう。あらゆるものが商品としてマーケットで流通し交換されるこのシステムでは、交通ネットワークの存在は彼らにとって身体の隅々にまで血を流す血管のようなものだ。交通ネットワークが身体のレベルにおける血管のようなものであるなら、その血管に侵入し血の流れを阻害、凝固させるウィルスはゼネラルストライキの戦術とよく似ている。動脈を塞ぐその戦術は、社会を壊死と腐蝕の方向にゆっくりと向かわせるだろう。
ゼネラルストライキによる生産、流通、交通という社会機能の全面的な停止を要求するそれは、最終的には社会の消滅を望んでいる。ゼネラルストライキは手段ではなく目的そのものであり、ウィルスが手段ではなく感染し、感染した対象を消滅させることを目的としているように、目的は感染対象の破壊であり、自己が所属する社会の完全な壊滅を目標とする。ジョルジュ・ソレルがゼネラルストライキは、汚辱にまみれたブルジョワ・システムの浄化そのものを目的としていると語ったように、社会を溶解し消滅させること自体が目的なのだ。なぜハッカー達はデーターベースを般若心経化しなければならなかったのか。形があるものは実体がないことと同じだということを、身をもって分からせるためだったのだろうか。確かに資本主義のシステムは、流通と交換の形式が存在するだけでそこに実体がない。ゼネラルストライキは国家や社会や経済という形式に、何の意味もないことを教えるだろう。誰もが職場に行かなければ一瞬にして、この社会は消滅してしまうのだ。そんな社会に一体どんな価値や実体があるのだろうか。
資本主義社会の形式には、実体が存在しないし目的も意味も存在しない。身体の命令に反してがん細胞は勝手に増殖してしまうように、資本主義のシステムもつねに自己の増殖のみを目的としている。そのような無目的な増殖システムは、どこかでそのシステムを破滅する要素を潜在的に抱え込んでいるのではないだろうか。資本主義が資本の無限の自己増殖を目的としているシステムなのなら、それはがん細胞の増殖システムと同じように、そこには何の目的や意味もない。目的も意味もない資本の増殖システムは、最終的には周りの人間を巻き込みながら自壊していくだろう。がん細胞が取り憑いた対象を自壊させるのとそれは同じ構造なのだ。資本の増殖を目的とする資本主義社会は、人間を手段とし資本を目的とする。その土地特有の農作物を廃棄させ、儲かるからという策略と甘言でその土地に合わない農作物を作らせ、それらを安く買い叩き、生活をできなくさせる現実を資本主義社会は、資本の自己増殖のために是認し続ける。彼らにとって人間は、交換可能な労働力商品でしかない。難民が大量に発生したら、今度は難民ビジネスを提案してさらなる利潤を追求するような社会システムが資本主義であり、そこにはどんな意味や合理性も存在しない。
傷口を塞ぐために増殖する細胞の動きは、身体に即した合理的な動きであり意味や目的も存在しているのに対して、増殖を唯一の目的とするがん細胞と資本の動きには不合理で無意味な動きしか存在しない。資本主義におけるがん細胞とは、意味もなく増殖を繰り返す資本そのものであり、資本はある日突然自己の身体を攻撃するために反転する。無目的な利潤の追求は、がん細胞のような形にその姿を転化するだろう。
非対称の関係を前提に成立するマーケットの等価交換システムは、その非対称の落差から利潤を得るのであり、等価の名の元で成立するマーケットの交換システムに隠蔽された非対称的な関係が、やがてプロレタリアートという強力なウィルスを生み出すだろう。非対称的関係を支えるもう一つの項であるプロレタリアートの存在は、等価交換された労働力商品という形でその存在を隠蔽され、見えない抽象的な階級として扱われる。等価交換システムは、搾取ではなく等価な交換関係であることを謳うことで、搾取対象のプロレタリアを見えない階級として、商品として扱うのだ。それは等価な交換であり、搾取ではないと。自由な取引の結果なのだと。
労働力を商品として扱うことがすでに大きな矛盾を孕んでいる。資本主義のシステムは非対称な交換関係を等価だと偽り、労働力を交換可能な商品として扱う。それは、労働力が本来備え持っていた具体性や細部が、商品の交換という抽象性によって捨象される。資本主義社会において労働力商品としての存在でしかなかったプロレタリアは、歴史上暴動や武装蜂起という形でしかその存在を表出できなかった。そのような激化した形でしか自己を表現できないのは、彼らの存在が資本主義のシステムの中で一番の矛盾を体現しているからだ。彼らは偽られた形式しか与えられない。商品という偽りの姿でしか自己を表せられない階級が、ゼネラルストライキによって交換システムそのものを乗っ取り破壊するウィルスとして表れるだろう。
網目状組織のネットワークを基本にしたインターネットのつながりが、逆にウィルスの伝播を容易にする。破壊するのではなくそのまま乗っ取ること。国家や資本主義システムをブルジョワから乗っ取ることがレーニンの言う共産主義革命なら、革命はウィルスのようなものとして機能するだろう。ゼネラルストライキや山猫ストライキの戦略は完膚なきまで相手を叩きのめすという殲滅戦ではなく、相手の物をそのまま我が物にしようというウィルス的な戦略だ。相手のやり方を利用してそのまま我が物にしてしまうウィルスの戦略は、クラウゼヴィッツ言う、敵の戦略の盗用が最上の戦略であるという戦争論を己の思想の根幹に置いたレーニンの革命論そのものであり、洗脳と浸透を繰り返し、打倒すべき相手のシステムをそのまま乗っ取ろうとする。 “帝国主義戦争を内乱へ”結びつけるレーニンの戦略は、富の独占をめぐって勃発する帝国主義者の戦争システムの中には、内乱へと誘導する契機がつねに孕まれていることを指摘する。植民地の再分配としての帝国主義戦争は、プロレタリアの利益と本来なら真っ向から対立するべき戦争であり、そのような矛盾をナショナリズムで覆った彼らの戦争は、つねに内乱という危機に潜在的に晒されている。ナショナリズムを最大限に発動させる帝国主義の戦争は、そのような虚妄を発動させなければ国内を一致させることができないという危機の表れなのだ。ナショナリズムとは、富の独占を狙うブルジョワ階級がそのような意図を隠蔽するための神話的なドラマであり、虚構のドラマで塗布しなければならないほど彼らのシステムは危機に追い込まれている。
プロレタリアは、ナショナリズムによる挙国一致体制を階級的に分断することで、内乱状態を引き起こす。不均等発展という宿命を抱えている帝国主義国家は団結することができず、富の分配をめぐって分断の危機をつねに抱えている。彼らはナショナリズムを利用することで階級的対決を解消しょうとするだろう。自国の利益が国民の利益というような階級を無視した国民や市民という抽象的な概念を叫ぶブルジョワやファシストに、ブレヒトが1935年のパリでの国際作家会議で人民戦線創立に対して言った“所有関係について語ろうではないか”という発言のように、ブルジョワの抽象的な概念に階級的現実を対峙させる。国民や市民という存在がどこにいるのだろうか。現実の世界は搾取する側とされる側の二つの階級しか存在しないのではないだろうか。所有関係を無視し階級的現実から遊離した国民や市民という概念はどこにも存在しない。
階級という分断が表れることで、帝国主義戦争が内乱へと転化される。戦争を内乱に転化されたブルジョワにとってそれは、正常に働いていた細胞がいきなり己の身体を攻撃するウィルスにプロレタリア階級が変質したように見えるだろう。“帝国主義戦争を内乱へ”転化することは、彼らのシステムを誤導させることであり、帝国主義の戦争システムにはエラーを発生させるウィルスが潜在的に存在しているのだ。日中戦争における中国側の後退戦術が、戦争を泥沼化させ長引かせることでソビエトとアメリカの日本に対する宣戦布告を狙った駐米大使の胡適や日中戦争の長期化を国民党の追放と中国における赤色政権の樹立という目的のために戦争を利用した毛沢東のように、帝国主義の戦争システムはつねに自壊の要素を抱え込んでいるのであり、彼らのシステムを自壊させるウィルスとして共産主義の革命論は機能する。ウィルスの浸透によって起動する自滅戦略が帝国主義のシステムを自壊させるのだ。
映像は対象に忠実に従いながら、まるで違う現実を表現する。百パーセント対象に寄り添い、対象が存在しなければ成立できない映像が、いつのまにか対象の再現を放棄する。映像は基本的にウィルスのようなメディアだ。それは対象の影に寄り添いながら、いつのまにか取り憑こうとするだろう。映像の再現システムに同期するふりをしながら、対象にまったく違うベクトルを分断するように引く。カメラは対象に何か手を加えるわけでも加工するわけでもない。対象のある部分にレンズを向けてスタートのボタンを押すだけで世界は、違うもう一つの現実として分断される。
時間と空間を分断すること。分断された三次元がスクリーン上で二次元の平面に転化されると、それはエイリアンに乗っ取られた『ボディ・スナッチャー』のように、対象とそっくりでありながら違う何者かを表出する。再現システムに同期しながら、映像は対象の再現というシステムを破綻させ、まるで違う現実を表出するだろう。
資本主義社会は、風景をきちんと読解することを日々わたし達に要求するだろう。風景というのは一つのシステムであり、それは教育として機能する。風景を読解することでわたし達は、資本主義社会のメッセージを理解し、それを無理矢理にでも受け止めなければならない。美しくないものを美しいと思い、欲しくもないものを欲しいかのように思わせ、食べたくもないものをあたかも自分がそれを望んでいるかのように無意味に食欲を湧かせる。消費することを前提とした資本主義社会において、消費は一見能動的に見える新しい形の搾取システムだ。欲しくもないもの、食べたくもないものを欲しがり、消費することが搾取されているという資本主義システムの事実が、いつのまにか快楽として感じられるようになる。通勤電車の車両のモニターからは、消費欲望を日々強制的に喚起させられる。車内放送ではJRからのお願いとご協力いう一見低姿勢な車内アナウンスが、ブルジョワ社会の秩序を厳守しろと毎朝連呼する。電車に乗っているだけで社会の規律と訓練を日々休みなく受けさせられる。旅行代理店によって仕切られたレジャーやジャンクフードの大量摂取で日々の疲れをリフレッシュするよう訴える車両の映像は、消費やレジャーに支配された日常を楽しく生きろと強制し、命令する。
車両モニターは、レジャーに支配された日常に対して主体的な参加を強要するだろう。すでにそれはレジャーではなくレジャーファシズムだ。ファシズムは元々強制ではなく主体的、能動的な参加を基本としているシステムであり、日常の隅々にまでレジャーファシズムと消費ファシズムが無意識に浸透しているこの世界で、気がついたらわたし達は主体的に主体を明け渡し、能動的に従うことを選ぶようになるだろう。それは情報操作によって教育された結果としての能動的な選択であり、そこでは主体はつねに受け身としての主体でしかなく、従属は自発的な意思として理解され、消費が実は搾取であるという資本主義のシステムが隠蔽されている。
結束を意味するファシズムは、すべての人間が同じ身振りを繰り返すように何度もその同一の身振りを繰り返すだろう。執拗に反復されるテレビや車両モニターの映像は結束やつながりを維持するための同一性を日々強要している。同じものを食べ、同じものを着て、同じものを見て、同じように感じる。感情反応や欲望の身振りはつねに同一であることを望まれ、そのような同一性の中でしか生きていけなくなる。主体は強制的に形成され、能動的であるかのように教育される。主体的で能動的な消費以外に資本主義社会では選択肢がないのだ。ここにはどんな選択肢も存在しない。あるのはぼったくりの手口だけだ。レジャーファシズム化した風景は、消費せよとわたし達に囁き続ける。風景の一木一草まで鉄道資本のイデオロギーが組み込まれている。資本化された東北や金沢や北海道の風景が、わたし達からさらに搾取しようとモニターの向こうから現れる。そのような風景に囲まれているわたし達に、それを見ないことも無視することも許されない。いつまでもそのモニターを見続け、空虚で意味のない欲望を強引に喚起させられる。

インスタレーション




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